「おはよう」
「おはよー」
挨拶を交わしながら、寝起きの身体にカーディガンを羽織る。
ユリも傍らに畳んであった自分のジャージを掴むと、ばさっと肩にかける。
豪雪も三日続けば日常だ。
昨日に比べたら、降雪も「しんしん」という言葉が似合う程度になって来たし、せめてこのまま年末までは落ち着いていて欲しい。
「おはよう……ございます」
廊下に出ると、隣の姉の部屋から宍戸さんが顔を出した。
貸してあげた私のスウェットは、彼女にはオーバーサイズ気味で、袖も裾もだるだるだった。
「おはよう。眠れた?」
「はい……その、助かりました。ありがとうございました」
「いいよ。とりあえずご飯にしようか」
「土日はあたしがご飯当番だよー」
三人でわちゃわちゃと話ながらリビングへ降りる。
その間に、とりあえずこの状況の説明はしなければなるまい。
今年最初の記録的な豪雪により、夜間の電車が止まってしまったのが、まずすべての発端だ。
電車自体が動いていない訳ではなく、北のさらなる豪雪遅滞における、一部区間の夜間運休という形。
その区間に、宍戸さんの実家の最寄り駅が見事に重なってしまった。
幸いだったのが、運休が決まった時に、彼女がまだ電車に乗っていなかったこと。
昨日の練習を解散したあと、すっかり参った様子だった宍戸さんは、しばらく穂波ちゃんの寮でゆっくりしていたらしい。
そこで運休情報を知ったのはいいけれど、寮は来客はOKでも寮生以外の寝泊まりは許されていない。
そこで、私のところへSOSが来たというわけだ。
急なことながら、事情が事情なので、両親もすぐに許可をくれた。
そうして一晩、宍戸さんはウチで過ごすことになったのだ。
「今日は電車動いてるの?」
「はい、電車は動いているみたいです……ただ、今日はお母さんが迎えに来てくれるみたいで。その、お礼のご挨拶もしたいって……」
あの歌尾ママが来るのか。
なんてことはないはずなのに、妙に緊張してしまう。
とりあえず、部屋着くらいは着替えておこうか。
「先輩たち、受験勉強とかありますよね。あの……わたしのことは、お構いなく」
「うん。まあ、することはするけど」
まったくお構いなしってわけにはいかないよね。
昨日のこともあるし、どうするってわけでもないけど、放っておくという選択肢はない。
「じゃあ、歌尾ちゃんも一緒に宿題しよーか。あたし、今、過去イチ頭いいから、一年生の範囲くらいならバッチリ教えられるよ!」
「い……いいんですか?」
宍戸さんはどぎまぎしながら、だけど嬉しそうに頬を緩めた。
とりあえず、気分転換くらいにはなるか。
文字通りの避難所になれば、今はそれでいいのかもしれない。
私の部屋に戻って、三人でローテーブルを囲む。
私とユリは受験勉強を。
宍戸さんは週末の宿題に取り組んでいた。
「それで……こっちを代入したうえで、因数分解をして……」
「あ、なーる。バッチリわかった!」
「大見栄張ったのに、自分の方が教わってどうするのさ」
しかも一年生に。
「イマドキの若い子のフレッシュな意見を聞いておくのも大事だと思いまして」
「二歳しか変わらないのに何目線なんだ。しかも、受験勉強にフレッシュな意見も何もないし」
でも、今まさに授業で勉強したばかりの宍戸さんに、その範囲のことを聞くというのはアリなのかもしれない。
宍戸さんも、復習代わりに丁寧に教えてくれるだろうし。
それをフレッシュさと言うのなら、ユリの言うこともあながち間違いではない。
「そう言えば楽器、大丈夫だった?」
ふと思い出して宍戸さんに尋ねると、彼女はキョトンとして、頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
「大丈夫……とは?」
「すごい雪の中で抱えてたから、痛んだりとかしないのかなって……」
「ああ……ずぶぬれになったりしなければ大丈夫です」
「そういうもんなのね」
言われてみれば金属だし、頑丈なことは頑丈なのかもしれない。
「楽器のこと、無理はしなくて良いと思うよ。須和さんも、代わりは探してくれてるみたいだし……宍戸さんも、トランペットなら問題なく演奏できるわけだし」
「でも、私がトランペットを吹くことになると、須和先輩が演奏を……せっかくのコンサートなのに」
「そこは、宍戸さんが気に病むところではないんじゃないかな」
ドクターストップを素人の私たちが覆すことはできないし、しちゃいけない。
無理はしなくていい。
「わたし……星先輩に無理矢理メンバーに入れてもらって、良かったなって思ってます」
「あの時は、まあ、ごめん」
「いえ、ほんとに、感謝してるんです。きっと、何もしないままだったら後悔してたと思うから」
「後悔……?」
「須和先輩に認めてもらって……嬉しくて、でも吹けなくて。そうやって一緒に演奏できないまま、先輩が卒業しちゃったら……きっと後悔してたって思うんです」
「一緒に演奏か……」
吹奏楽部の子にも、似たようなことを言われたのを思い出す。
一緒に演奏するということが、彼女たちにとってどれだけ大事なのか……私の中にはない感覚も、当事者たちから立て続けに耳にすれば、少しは理解できる。
そもそも宍戸さんは一度、吹奏楽部に入れなかったことを後悔している。
そのうえ、クリコンでも後悔を重ねたくはない……けど、そのためには、宍戸さんに少しの勇気が必要だ。
トラウマと恐怖に打ち勝つだけの、一握りの勇気が。
「うーん、あたし、詳しいことはよく分かんないんだけど……とりあえずやってみるんじゃダメなのかな?」
ユリが能天気な口ぶりで、なんとも無鉄砲なことを口にする。
「誰もがユリみたいに単純じゃないんだよ」
「失礼な! あたしのブレインは、いつだって複雑怪奇だよ!」
複雑怪奇かは知らないけど……突拍子の無さって意味では、怪談レベルなんだろうか。
「とりあえず……は、いつもやってるんです。でも、やっぱりダメで……」
「じゃあ、もっと思い切ってやってみよう!」
「お、思い切って……?」
「そう! えいやあって、親の仇でも取る勢いで!」
ユリは、剣を振り下ろす真似をしながら言う。
「それでもダメなら……もっともっと思い切ってやってみよう! 清水の舞台から飛び降りる勢いで!」
「それ、何のアドバイスにもなって無いからね」
私のツッコミすら、もはや意味があるのか分からない。
それくらい大雑把というか……ほんと無意味。
「確かに、これまで勢いは足りなかった……かもです」
でも、宍戸さんはクスクスと小さく噴き出して笑っていた。
他の人のどんな言葉より、憧れの人の何気ない言葉の方が、今の彼女にとっては一番の薬なのかもしれない。
「この度は、娘が大変お世話になりました。こちら、つまらないものですが」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですよ」
午後になって、歌尾ママが私の家まで車で迎えにきた。
ウチの母親と社交辞令的な保護者会話を済ますと、宍戸さんの荷物である楽器ケースを、乗用車の荷台に積み込んだ。
「この辺りも、思ったより降るんですね。今後もこういうことがあり得るなら、本当に寮生活も考えた方が良いのかも」
荷台の扉を閉めながら、歌尾ママは雪のちらつく空を見上げた。
「あちらはすごいですか?」
「ええ、もうこんな」
私の問いに顔ママは、地面と水平にした手のひらを、ぐんと頭の上まで持ち上げた。
そりゃあ、流石に電車も止まるだろうね。
「あの……帰ったら、レッスンしてくれる?」
「え?」
宍戸さんがおずおずと口にすると、歌尾ママは目を丸くして振り返る。
「良いけれど……どうしたの、突然?」
「歌尾、今が頑張らなきゃいけない時だと思うから……」
そんなやり取りを残して、宍戸家は家路についた。
見送った私とユリも、温かい家の中に入る。
「明日、最後のスタジオ練習あるけど、ユリはどうする?」
「いくいく。あ、でも、家の掃除してから行こうかな。お父さん戻ってこれるようにしておかないと」
「そっか。来週には戻るんだもんね」
この土日が、ユリのいる最後の土日か。
特別なことをするつもりはないけれど、私も私で、今の時間を噛みしめておきたい。