二○二二年のクリスマスは、ホワイトクリスマスならぬ、ホワイトアウトクリスマスだった。
記録的な大雪で、ニュースでは朝から豪雪注意報が報道される。
だが、記録的な大雪なんて年に何度かは必ずあるもので、この辺りの人たちにとっては日常のワンシーンだった。
「チューニングは、ゲネプロと本番の前。温度で音程が変わるから」
「金管のチューニングって、具体的にどうやるんですか?」
「こうやって、マウスピースの刺し加減で調節するんだよ」
「なるほど」
須和さんと宍戸さんの講習を受けつつ、穂波ちゃんがマウスピースの位置を丁寧に調節する。
私もベースにチューナーを挟んで、弦一本ずつ丁寧に音を合わせる。
コンサートと銘打っているからには、何となく格式ばった会をイメージしていたけど、控室である市民ホール内の小ホールに集まった演者たちは老若男女バラエティ豊かだった。
地元のバンドやシニア合唱団みたいな人たちもいるし、小学校や幼稚園のクラブっぽい団体、他校の高校生らしき姿もある。
もちろん我らが南高吹奏楽部の面々も、揃いのコンクール衣装に身を包んでわき目もふらずに準備に勤しんでいた。
対する私たちは、結局、着慣れた制服での出演となった。
彼女たちと被らなくて良かったというのが正直なところだ。
「高校生っぽいのも結構いるんだな」
「他校の吹奏楽部とかでしょう。あっちは、学院のハンドベル部ですかね」
「見慣れない制服もあるな。市外かな。この大雪の中、ご苦労なこって」
アヤセと心炉、チューニングのいらないふたり組(かつそれぞれ楽器もステージ備え付け)は、手持無沙汰に他の参加者たちを物色していた。
そうこうしてる間に、席を外していた天野さんが帰って来た。
流石に制服というわけにはいかないので、彼女だけパリッとしたパンツスーツ姿だ。
「ごめんね。ちょっと知り合いと話してて。そろそろ順番だから行こうか」
「はい」
メンバーが揃ったところで、私たちも大ホールに向けて移動を始める。
ゲネプロは本番の順番通りらしいけど、前の団体ってどこなんだろう。
入口でパンフレットを配っていたから後で貰っておこうか。
裏の関係者通路を通って、ホールの舞台裏へ通じる扉をくぐる。
ここに足を踏み入れるのは、きっとこれが最初で最後だろう。なんだかんだで、いい経験をさせてもらっている。
舞台袖までいくと、ちょうど前の団体の演奏が終わるところだった。
漏れ聞こえていた演奏を聞いていた限り、どこかの吹奏楽部のようだった。
見たことのない制服。どこか市外の高校のようだ。
「えっ、もしかして須和白羽?」
「うそ、だって三年でしょ? てか、吹奏楽部の方いなかったよね? 別団体?」
すれ違いざま、そんな声が聞こえる。
話しかけるわけでもなし、道端で有名人とすれ違った時のような、ミーハーな反応だった。
てか他校に個人名で知られてるって、須和さんってほんとにすごいんだなと再確認する。
対する須和さんは、まるで聞こえてないかのような素知らぬ顔で、袖のステージを見やすい位置を確保していた。
「――宍戸さん?」
須和さんに色めき立つ中に、全く違った声色がひとつ混ざる。
さざ波の中に、小さな石を投げ込むような、かすかな雑音。
しかし、まるで耳元で囁かれたかのように、ハッキリと鼓膜を揺らした。
「やっぱり、宍戸さんだよね」
「え……あ……」
「その制服、もしかして南高校だったの? そりゃ見かけないわけだ。あの辺、高校なんてウチしかないはずなのに――」
宍戸さんは、見るからに動揺しながら、震える視線を足元に落とした。
「てか、トランペット? サックスはやめたの?」
その言葉が宍戸さんの心に巣食う、何かの引き金を引いたのは確かだった。
彼女は何も言わずに、その場から逃げ出すように駆け出す。
「えっ、ちょっと――」
他校の生徒も、流石に驚いた様子だった。
けれども、小さく首をかしげると、それ以上は興味を失った様子で自分たちの団体に合流していった。
「なんだ? どうした?」
先にドラムのポジションを確認していたアヤセが、騒ぎに気付いて戻って来る。
他のメンバーも、何事かと視線をこちらに向けていた。
状況が理解できていないのであろう穂波ちゃんも、とりあえずそのまま駆け出してしまいそうな勢いだった。
「そろそろ始めても良いですか?」
「あの、え……いや、ちょっと」
スタッフさんに急かされる中で、返す言葉が見つからずに言葉を濁す。
すると、誰かが私の肩をポンと叩いた。
須和さんだった。
「お願い」
そう口にして、彼女の視線は宍戸さんが駆けて行った方向へと向く。
お願いって、行ってこいってこと?
ものすごく無茶な要求をされている一方で、須和さんの手には、宍戸さんが置いていったトランペットが握られていた。
この場は任せて良いってことなのかな。
だったら遠慮はいらないのだろう。
「よろしく」
私はベースごと後のことを須和さんに託して、宍戸さんの後を追った。
とりあえず小ホールへ行き、私たちの荷物スペースを見る。
誰もいない。
だとしたら、エントランスの方かな。
もしくはトイレとか。
広い会場の中じゃ、選択肢なんていくらでもある。
この雪だし、流石に外には出てないと思うけど……一刻も早く見つけるには、とにかく走り回るしかなさそうだ。
そう覚悟を決めたところで、思いのほか早く宍戸さんは見つかった。
最初に向かったエントランスホールの片隅で、彼女は誰かの懐にしがみつきながら、息を殺すように泣いていた。
「あっ、星……! これ、どういう状況?」
「は……ユリ、何してんの?」
ユリがいた。
宍戸さんが、ユリにしがみついていた。
状況が全く飲み込めなくて、私も思わず挙動不審になる。
「病院は? 今日、お父さんの退院なんでしょ?」
「今日のことお父さんに話したら『退院の手伝いなんてしてないで行ってこい』って怒られちゃった。あ、怒られたってのは言い過ぎで、もっと諭すって感じだったけど」
そんなニュアンスのことはどうでも良いんだけど……とにかく、お許しを貰って応援に来てくれたってことなのね。
それは理解した。
じゃあ今度はこっちが説明する番だけど――
「とりあえず落ち着くのを待とうか」
そう言って、宍戸さんの背中をそっと撫でてあげる。
関係者の出入りでたびたび開く大ホールの扉から、聞きなれたフレーズが断続的に響いていた。
彼女が落ち着くのに、そう長い時間は必要なかった。
ひとまず片隅にあるベンチに座らせて、近くの自販機で買ったホットドリンクを手渡す。
温かい飲み物を飲んでお腹の方からじんわりと温まって来ると、宍戸さんはぽつりぽつりと口を開いてくれた。
「中学の時の先輩でした……ひとつ上の」
「つまり、宍戸さんがコンクールに出た時の?」
彼女は無言で頷く。
まあ、状況を整理すればそう言うことなんだろうなとは、薄々感づいていた。
その辺りの事情を知る私はいいけれど、全く知らないユリは、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首をかしげる。
「ヤバイ。あたし、全然わかんない」
「えと、それは……」
宍戸さんは少しだけ迷っていたけれど、すぐに顔を上げて、中学の時のことを掻い摘んでユリに話した。
自分がコンクールの曲をめちゃくちゃにしてしまったこと。
大なり小なり、当時の部員たちから責められたこと。
それが一種のトラウマになって、得意のサックスが演奏できなくなってしまったこと。
そして、地元から逃げるように、片道二時間もかかる南高校へ入学したこと――
ユリは一切の口を挟まず、静かに宍戸さんの話を聞いていた。
すべてを話し終えたころには、なぜかユリのほうが感極まって涙を浮かべていた。
「大変だったんだねぇ。でも、南高に来てくれてよかった。だってこうして、歌尾ちゃんと出会えたんだもん」
「は、はい……わたしも……です」
宍戸さんは、ちょっぴり恥ずかしそうに俯きながら答えた。
ちょっぴり胸の内がムッとしたけど、今は自制するべきだと思った。
「ステージに戻れそう?」
そればかりは私が確認しなければならないことだと思った。
落ち着いたところに鞭を打つ格好になってしまうけど、宍戸さんのことは彼女自身にしか分からない。
もっともゲネプロはもう終わってしまっているだろうから、本番に出られるかどうかという話になる。
宍戸さんは、俯いたまま何も口にできなかった。
時おり唇をもごもごさせているのは、何か言いたいことがあるからだろう。
だけど、それを声という音にするだけの勇気と覚悟がなくて、荒い息と一緒に飲み込んでしまっていた。
ユリが隣に座って、優しく彼女の肩を抱く。
「本番までまだ時間があるんだよね? だったら、それまで私がついてるよ」
「でも……」
「ここはマネージャーにまかして!」
ユリは屈託のない笑みを浮かべて、とんと胸を叩く。
そこまで言うのなら、今は彼女に任せよう。
宍戸さんも、もう少しだけ整理する時間が必要だろうし……私も、みんなの所に戻って状況を説明しなければならない。
開場まではまだ何時間もあるはずなのに、タイムリミットのカウントが鳴り始めたかのような気分だった。
控室の小ホールへ戻ると、とっくの昔にゲネプロを終えたメンバーたちが自分たちのスペースで待っていた。
どこか浮ついた様子なのは、出演前に緊張しているからではなく、突然いなくなった宍戸さんを心配してのことだった。
「星先輩、歌尾さんは?」
私の姿を見つけるなり、穂波ちゃんがぱたぱたと駆け寄って来る。
今にも泣きそうな様子の彼女の頭をそっと撫でてあげた。
「ちょうどユリが来てて、今、ついてて貰ってる」
それから、私は宍戸さんの状況をかいつまんでみんなに話した。
たぶん、思ったより状況は深刻で、次第にみんなの表情が暗くなっていく。
「こればかりは、気持ちの問題なのでどうしようもないでしょうねぇ」
「……琴平さんたちも何してんの?」
すっかりスルーしそうになっていたけど、いつの間にか控室には琴平さんと雲類鷲さんの姿があった。
彼女は悪びれる様子もなくヘラヘラと笑って、手に持った買い物袋を掲げる。
「応援に行くって言ったじゃないですか。これ差し入れです。どうぞ」
買い物袋には、アソートタイプのお菓子と飲み物が入っていた。
なんだかんだで長丁場なので、確かにありがたいけれど……今はそれどころでなくなってしまったのが正直なところだ。
「人数が多い部活は、どうしても面倒なとこ出ちまうよな」
雲類鷲さんが、ムスっとした表情で言う。
前に琴平さんに聞いた話によれば、中学時代の彼女たちは陸上部で、面倒な人間関係に嫌気がさしてしまったんだっけ。
人が多いコミュニティの厄介さは、骨身に染みているのかもしれない。
「そう言えば、ゲネプロはどうなった? ベースとか押し付けちゃったけど」
「ベースなら、私が代わりにやっておいたよ。サックスはスピーカー通さないし、本番でも合わせられると思うから」
天野さんはそう言って、傍らに置いていたブラックバードを手渡してくれた。
「ありがとうございます。助かります」
「いえいえ。それよりも、宍戸さんのことを考えなきゃ。考えたところで、結局は本人次第なんだろうけど……」
流石にこういうことになると、天野さんの発言も弱気に見えた。
おそらく「何をしたら正解」なんてものはなくて、結果論で「正解だったね」って思えるような道を探すしかない。
「とりあえず、ここまで来たら出場辞退って選択肢はない。もし宍戸さんが戻ってこられない時は……スワンちゃん、トランペットなら吹いても良いんだよね?」
「問題ない」
相変わらず頼りになる返事だ。
トランペットパートの穴さえどうにかなるなら、サックスは引き続き天野さんにお願いして、必要なパートは埋まる。
ただ、このバンドが宍戸さんのために結成されたことを考えたら、主役不在の形骸化したナニカにはなってしまうけれど……。
「狩谷サン、ちょっとユリさんと交代してきてくれます?」
「は? なんで?」
琴平さんの不躾な提案に、思わずマジトーンで返してしまった。
しかし彼女は動じた様子もなく、雲類鷲さんの肩をトントンと叩く。
「なんだよ」
「アレですよアレ」
「もしかして、あの無駄に重かったやつか?」
「そうそう。流翔ちゃん、そのために連れて来たようなもんなんですから」
「いや、あたしだって普通に白羽たちを応援するつもりで――」
雲類鷲さんの不満は完全に無視して、琴平さんはもう一度私に向き直る。
「とにかく、お願いします」
「まあ、いいけど」
共有するべきことはしたし、私も宍戸さんの事は気がかりだ。
様子を見る意味でも、琴平さんの提案に従ってみよう。