エントランスに戻ると、ユリと宍戸さんは同じベンチに座ったまま、何もしゃべらずにぼんやりのんびりと時間を過ごしていた。
一回、控室に顔出しときなと言うと、ユリは「わかった」と言って小ホールの方へ向かっていった。
宍戸さんは、縋るような、それでいて名残惜しむようにユリの背中を追ったので、私はそれを遮るように隣に腰を下ろす。
「とりあえず、もしもの時の準備はできてる。だから、ここから先は宍戸さんのやりたいようにしてくれていい」
「やりたいように……ですか?」
「吹きたいか、吹きたくないか。結局は、それしかないでしょ?」
こんな言い方しかできない自分のコミュ力を、これほど恨んだことはない。
でも回りくどい言い方をするよりも良いんじゃないかなって、自分に言い訳をする。
「ごめんなさい……分からなくなっちゃいました」
私の出した二択に対して、宍戸さんの答えは「選べない」だった。
万策尽きた思いの私は、少しだけ覚悟を決めた。
「……そもそも、なんで音楽にしがみついてるんだろうって考えてたんです。音楽から離れたって、お料理を作ったり、生徒会の仕事をしたり……いくらでも楽しい毎日を過ごす方法はある。それでも、まだ吹きたいって思ったのは、なんでだろうって」
「好きだから……じゃないの?」
「もちろん、好き……です。音楽も、サックスも。でも、たぶん、本当に芯になっているところは違くって……」
宍戸さんは、躊躇いがちに大きく息を吐いた。
口にしてしまうのが怖い。
それを振り払うような、覚悟を決めるための呼吸だった。
「たぶん……どこか、見返してやりたいって思ってたんです。みんなの知らないところで、わたしこんなに活躍してるんだって。見せつける機会なんてないのに、どこか風の噂でわたしのことを知ってくれて、それであの時のことを悔しがってくれたら――そういう、ヤなとこがあったと思うんです」
「誰だって、そう言う考えは持ってるよ」
「でも、だからこそ、さっき中学の先輩に会った時、分からなくなっちゃったんです。彼女、わたしのこと、なんでもなかったみたいに気さくに接してくれて……久しぶりに知り合いに会っただけみたいに。わたし、こんなに悩んでたのに……みんなにとってわたしは、数年立ったら何の感情もわかない相手なんだって思って。じゃあ、わたしが今まで悩んでたことってなんなの……? 何のためにサックスが吹けなかったの……?」
振える声で彼女は言う。
泣いているわけじゃない。
その震えはきっと、悔しさとか憤り、そしてやるせなさによるものだった。
「しがみつくって宍戸さんは言うけど、私は違うんじゃないかって思う」
「え……?」
「私、小学校からずっと剣道やってて。でも中学で見切りつけちゃって、高校は幽霊部員だった」
「それは……穂波さんから聞いてはいますけど」
「勉強に集中したかったってのもあるけど、別に続けようと思えば続けられた」
中三の最後の大会は、今でも思い出す。
人数がギリギリだったから団体戦も個人戦も出して貰えたけれど、結果はひとつも良い所なし。
団体戦は、強いチームメイトが勝ってくれて県大会までは行けたけれど、そのレベルまで行くと本当にもう歯が立たなかった。
どこに打ち込んでも点が取れない。
むしろ〝後の先〟で相手に点を取られる。
全く勝機が見えない、泥沼に沈んでいくような感覚。
その中で私は――
「――泣けなかったんだ。最後の大会の、最後の試合で。これでもう引退だってところで負けても、全く悔しさがこみ上げなかった。もう、やる意味がないんだって思った」
「だから……高校ではやらなかったんですね」
「でも、宍戸さんは違うでしょ。こんなに悩んで、こんなに悔しいって思って――それは失ったものに縋ってるんじゃなくて、今もなお、宍戸さんが現役のプレイヤーってことなんだよ」
宍戸さんは、小さく息を飲んで、ぎゅっと唇を噛みしめた。
肯定も否定もしなかった。
今、返事をしなくてもいい。
いつか彼女の中で何か答えが出るのなら、それで良いと思った。
「あれ……スワンちゃん?」
気づくと、小ホールへ続く廊下から須和さんが歩いてくるのが見えた。
彼女は真っすぐに私たちのところへやってくると、簡潔に要件を話す。
「来て」
「……だそうだよ。立てる?」
「はい」
私につられて、宍戸さんも立ち上がる。
少なくとも、そのことが私には嬉しく感じられた。
小ホールに戻ると、目を疑う光景が広がっていた。
バンドメンバーと琴平さんたちが円を描くように取り囲む中で、ユリがエレキギター――ファイヤーバードのネックを握っていた。
アンプに繋がずに弦をはじく彼女を見て、琴平さんが満足げに頷く。
「流石はユリさん。化け物じみた才能の塊ですね」
「いやあ、それほどでも……あ、星! 見て見て! 懐かしーでしょー!」
ユリは、新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいにギターを見せびらかす。
そんなの見りゃ分かるんだけど、私が知りたいのはなんでファイヤーバードがここにあって、ユリがそれを弾いているのかってことだ。
「まさか、琴平さんが持ってきたの?」
「担いできたのは流翔ちゃんですけどね。ワタシのマッチ棒みたいな身体じゃ、この吹雪の中じゃとてもとても」
「正直、しんどかった」
雲類鷲さんが盛大なため息をつく。
琴平さんが、その労をねぎらうように頭を撫でる。
「借り物って言ったじゃないですか。今日この後に、ちょうど返す予定だったんですよ。それがこんな形で役立つとは」
冗談めかして言う彼女の言葉を、果たしてどこまで信じてよいのか見当もつかなかった。
とは言え、こんな状況を見越して持ってきたなんて、流石に考えられないし……というか、この状況がいったい何の改善に繋がるのかも謎なんだけど。
まだまだ納得できてない私を差し置いて、ユリはギターを抱えたまま、ずんずんと宍戸さんの目の前まで迫る。
そして、若干怖気づいた彼女の手を握るように取った。
「一緒に演奏しようよ! きっと楽しいよ!」
その一言に、私も宍戸さんも、ぽかんとしてユリを見つめる。
きっと何も考えて屋しない、シンプルな言葉。
だからこそ、どんな励ましの言葉よりも、宍戸さんの心を打ったのだと思う。
「は、はい」
ほとんど頷かされたような形だったけど、彼女は確かに応えた。
時間はあっという間に過ぎてコンサートが開演となる。
プログラム順に団体が入れ替わって、次第に私たちの出番が近づいてくる。
開演中の舞台袖は、独特の緊張感に包まれていた。
ステージ上では、今まさに本番の演奏中。
出番が近づいて順番を待つ私たちは、次第に焦燥感に包まれていく。
「あの、宍戸さん」
不意に、あの声が聞こえた。
宍戸さんも私も、びくりと肩を揺らしながら振り返る。
そこには、同じく順番待ちをしていた宍戸さんの先輩が立っていた。
「よかった。体調悪そうだったから大丈夫かなって」
しまった。
彼女たちは、私たちのひとつ前の団体なんだから、順番待ちの時間が被るのをすっかり失念していた。
宍戸さんだけ、後でギリギリに来させるべきだった。
せっかく前向きになってくれた宍戸さんは、すっかり委縮して縮こまってしまった。
幸いなのは、ちょうどそのころ、ステージ上の演奏が終わって拍手が鳴り響いたことだった。
「あ、ごめん。順番が来ちゃった」
彼女はそう言って、大型のバリトンサックスを抱える。
宍戸さんの得意なテナーサックスと比べても、重量感も迫力も五割増しのモンスターマシンだった。
「演奏、聞いてて。それだけ言いたかったんだ」
それだけ言い残して、彼女ははにかみながら仲間と一緒にステージへ歩み出す。
残された宍戸さんに、私はそっと歩み寄った。
「……大丈夫?」
「はい……たぶん……」
見るからに気分が悪そうだ。
ここまで来てまた……己の浅はかさを恨みつつ、傍らにいる須和さんを見つめる。
彼女は、じっとステージを見つめたまま動かなかった。
あの先輩のことが気になるのかな。
あれこれ考えている間に、彼女たちの演奏が始まった。
まもなく、宍戸さんは弾かれたように顔を上げて、ステージに釘付けになっていた。
「どうしたの?」
「演奏……すごく上手くなってる。ううん、上手いとかそういうレベルじゃなくて、これ……」
「あの高校の吹奏楽部は、ここ二年ほどで急に力をつけて来た」
須和さんが、ぽつりと溢す。
「今年の全国行きの切符は、彼女たちに取られた」
さっき、他に高校が無いって言ってたから、普通に考えたら、その全国メンバーは宍戸さんが所属していた時のメンバーが中心ということだ。
もちろん、他の中学校から合流してきた人たちもいるのだろうけど。
でも、それってつまり。
「宍戸さんが抜けてから、めちゃくちゃ練習したってこと?」
何のために?
ううん、そんなの分かり切っている。
彼女たちは〝すごい演奏〟を間近で聞いて、肌で感じて、知ってしまったんだ。
同時に自分たちの未熟さで、それを活かしきれなかったことも。
宍戸さんと言う起爆剤に出会って、彼女たちの中の目標と限界のラインが変わった。
それが数年間の研鑽に変わって、今の彼女たちになっているのなら――
「はは……宍戸さん、すご」
冷やかしじゃなくて、心の底からそう思った。
たった一回の演奏。
たった一回の失敗。
それで、言っちゃ悪いが弱小校メンバーを、全国レベルのプレイヤーまで駆け上がらせた。
宍戸さんの演奏は、彼女たちにとっての音楽との向き合い方どころか、人生すら変えるものだったってことだ。
すっかり見入ってしまっていた宍戸さん本人は、天井を見上げて、大きく、だけど静かに深呼吸をする。
「須和先輩。大事なトランペット……ありがとうございました。でも、これ、お返しします」
胸に抱えていたトランペットを須和さんに突き付ける。
それから天野さんに向かって、深く頭を下げた。
「散々迷惑をかけて、すみません。そして、これが最後の迷惑です。サックスパート、わたしに……歌尾にください」
その言葉を聞いた天野さんは、にっこりと笑って頷く。
「じゃあこれ、持ってかなきゃね」
差し出した楽器ケースは、確かに天野さんのものだった。
しかしふたを開けると、そこには宍戸さんのサックスが詰め込まれていた。
ステージからこぼれるスポットライトの光で、金色の光沢がきらめく。
楽器を優しく取り出した宍戸さんは、ベルトを肩にかけて手早く準備を済ませると、左右の三つ編みを解いた。
代わりに、大きなポニーテールをひとつ結って、会場に鳴り響く拍手と向き合う。
「いけるの……?」
正直なところ、私の中にはまだ不安が残っていた。
実際、私はおろか、須和さん以外の誰も宍戸さんの演奏を生で聞いたことがない。
練習でもダメだった。ゲネプロも参加してない。
文字通りのぶっつけ本番で、本当に大丈夫なのかと。
「吹きたいか、吹きたくないか……ですよね」
宍戸さんはそう前置いてから、まるで別人のような精悍な顔つきで私を見つめた。
「吹きます」
その一声に、私はまるで須和さんと話している時のように錯覚してしまった。
「続いては、県立南高校有志チーム『D.C.』の皆さんです」
暗転していたステージに光がともる。
学園祭の時よりも強力なスポットライトに、思わず目がくらみそうだった。
学園祭ライブと違って、この形式のコンサートにMCはいらない。
みんなで顔を見合わせてタイミングを取ったら、アヤセのスティックがリズムを刻む。
最初は前座の一曲だ。
学園祭でやった私の持ち歌を一番だけ。
歌は無し。
ユリが加わったことで、ギター、ベース、キーボード、ドラムのガルバデメンバー勢ぞろいの演奏だ。
これまた練習なしのぶっつけ本番のくせに、ユリは全くブランクを感じさせない様子で弦をはじいていた。
そのポテンシャルは普段どこに眠ってるんだろうね。
ほんと、勉強にも活かせばよかったのに……と思っていたのは夏までのことで、今はすっかり勉強に活かされていることを私は知っている。
基本的にユリは、全方位に対して天才的なんだ。
同時に、全方位に対してアホだけど。
肩慣らしの曲が終わって、ステージ上に僅かな緊張が走る。
張りつめた感情が、爆発する時を待っている。
再び交されるアイコンタクトは、「一緒に地獄に堕ちよう」の合図だ。
『Sing, Sing,Sing』の入りは、心躍るようなドラムソロから始まる。
お祭り会場に一番乗りした彼女を追いかけるように、トロンボーンとベースの落ち着いたリズム、そして力強いトランペットと軽快なエレキギターが走る。
須和さんのトランペットの第一声は、傍で演奏している私の中にも、パーンと弾けて光った。
音の波が心臓を撃ち抜いて、全身に肌で伝わる。
鳥肌が立つ感覚に近い。
かつて須和さんが言っていた「震える」と言う感覚は、きっとこれなんだと思った。
しかしここまではまだ、助走のようなイントロだ。
祭りの舞台で「何をして遊ぼうかな」って、考えを巡らせて足踏みをしてるようなもの。
ここから一気に弾けるために、主役の登場が必要だった。
演奏をしながら、誰もが心の中で祈った。
両手が開いているのなら、胸の前で手を合わせたい。
けど、右手も左手もベースを制御するので忙しい。
このブラックバードというじゃじゃ馬を乗りこなすのは、本当に苦労した。
手を合わせられない分、演奏で示す。
ドラムも、ギターも、トランペットも、トロンボーンも、そして私のベースも、みんなで振り返って呼びかける。
――おいでよ。
直前の一拍が、永遠のように感じられた。
不安と期待と希望と。
観客の誰も知らないこれまでの積み重ねが。
宍戸さんの三年間が。
次の一声にかかっていた。
そして、誰もが待ち望んだ音が弾けた。
テナーサックスの伸びやかなメロディが、舞台のど真ん中に躍り出る。
待ち望まれた主役の登場だった。
宍戸さんの小さな身体では、ほとんど抱きかかえるような大きさのテナーサックス。
それを軽々と振り回して、伸びやかでキレのある音が響く。
思わず、みんなで顔を見合わせた。
口元は演奏に集中しているけれど、目ははっきりと、細く潰れてしまうくらいに笑っていた。
サックスの入りと同時に、心炉のピアノも曲に参加する。
最後の最後に、みんながちゃんと舞台に上がったのを確認するような入りは、実に心炉らしいなと思ってしまった。
この曲の大半は、トランペットとサックスが交互にメインメロディを奏でる、掛け合いのような構成だ。
だからこの二つのパートの実力に差があると、まとまりのない不格好な合奏になってしまう。
トランペットの須和さんは言わずもがな。
そして宍戸さんは、見事に彼女と渡り合っていた。負けていないどころか、むしろ食って掛かるくらいの主張と圧力。
合奏どころか、この曲事態を制圧してしまうような、ある意味での傲慢さや我が儘さ。
これが、あのおどおどして引っ込み思案な彼女の演奏なんだろうか。
ただただ、目を見張るばかりだった。
もちろん須和さんだって負けていない。
曲の途中に、須和さんによるロングソロがあった。
もともとはサックスで吹く予定だったけど、今は得意のトランペット。
楽譜はない。
他のパートが繰り返しのリズムを刻んでいる間、彼女の好きなように観客の心をひきつけて貰う予定だった。
だがソロに入った瞬間、須和さんが宍戸さんのことを見た。
いつもの眉一つ動かさない表情とは違う、どこか挑戦的な眼差し。
その実、「かかってこいと」いう視線と演奏による挑発だった。
受け取った宍戸さんは、落ち着いた様子でサックスを咥えてソロパートに乱入した。
なんだこれ。
もう、好き放題だ。
互いに「自分が主役だ」言い合うような、喧嘩みたいなデュオ。
めちゃくちゃなはずなのに、心が躍った。何ふたりだけで楽しんでるんだ。
自分も混ざりたい。
だけど、ついていく自信がない。
くすぶった感情は、ソロが終わって正規の譜面に戻って来た時に爆発する。
さっきより、ちょっとでも上手く。
ちょっとでも印象的に。
私だってここにいる。
ここで演奏している。
曲の盛り上がりも最高潮のクライマックスに向かう中で、たった今、自分の演奏がひとつ成長したような実感があった。
――ジャズは、その場で音楽という言語を使って、会話するようなもの。
須和さんの言葉の意味が、今ようやく分かったような気がする。
教えてくれたのは、間違いなく宍戸さんと須和さん、ふたりの〝強い人〟の演奏だった。
――私はいま、ジャズをやっているよ。
――私はいま、確かに音楽をやっているよ。