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12月24日 シング・ア・ソング(後編)

 エントランスに戻ると、ユリと宍戸さんは同じベンチに座ったまま、何もしゃべらずにぼんやりのんびりと時間を過ごしていた。

 一回、控室に顔出しときなと言うと、ユリは「わかった」と言って小ホールの方へ向かっていった。

 宍戸さんは、縋るような、それでいて名残惜しむようにユリの背中を追ったので、私はそれを遮るように隣に腰を下ろす。


「とりあえず、もしもの時の準備はできてる。だから、ここから先は宍戸さんのやりたいようにしてくれていい」

「やりたいように……ですか?」

「吹きたいか、吹きたくないか。結局は、それしかないでしょ?」


 こんな言い方しかできない自分のコミュ力を、これほど恨んだことはない。

 でも回りくどい言い方をするよりも良いんじゃないかなって、自分に言い訳をする。


「ごめんなさい……分からなくなっちゃいました」


 私の出した二択に対して、宍戸さんの答えは「選べない」だった。

 万策尽きた思いの私は、少しだけ覚悟を決めた。


「……そもそも、なんで音楽にしがみついてるんだろうって考えてたんです。音楽から離れたって、お料理を作ったり、生徒会の仕事をしたり……いくらでも楽しい毎日を過ごす方法はある。それでも、まだ吹きたいって思ったのは、なんでだろうって」

「好きだから……じゃないの?」

「もちろん、好き……です。音楽も、サックスも。でも、たぶん、本当に芯になっているところは違くって……」


 宍戸さんは、躊躇いがちに大きく息を吐いた。

 口にしてしまうのが怖い。

 それを振り払うような、覚悟を決めるための呼吸だった。


「たぶん……どこか、見返してやりたいって思ってたんです。みんなの知らないところで、わたしこんなに活躍してるんだって。見せつける機会なんてないのに、どこか風の噂でわたしのことを知ってくれて、それであの時のことを悔しがってくれたら――そういう、ヤなとこがあったと思うんです」

「誰だって、そう言う考えは持ってるよ」

「でも、だからこそ、さっき中学の先輩に会った時、分からなくなっちゃったんです。彼女、わたしのこと、なんでもなかったみたいに気さくに接してくれて……久しぶりに知り合いに会っただけみたいに。わたし、こんなに悩んでたのに……みんなにとってわたしは、数年立ったら何の感情もわかない相手なんだって思って。じゃあ、わたしが今まで悩んでたことってなんなの……? 何のためにサックスが吹けなかったの……?」


 振える声で彼女は言う。

 泣いているわけじゃない。

 その震えはきっと、悔しさとか憤り、そしてやるせなさによるものだった。


「しがみつくって宍戸さんは言うけど、私は違うんじゃないかって思う」

「え……?」

「私、小学校からずっと剣道やってて。でも中学で見切りつけちゃって、高校は幽霊部員だった」

「それは……穂波さんから聞いてはいますけど」

「勉強に集中したかったってのもあるけど、別に続けようと思えば続けられた」


 中三の最後の大会は、今でも思い出す。

 人数がギリギリだったから団体戦も個人戦も出して貰えたけれど、結果はひとつも良い所なし。

 団体戦は、強いチームメイトが勝ってくれて県大会までは行けたけれど、そのレベルまで行くと本当にもう歯が立たなかった。


 どこに打ち込んでも点が取れない。

 むしろ〝後の先〟で相手に点を取られる。

 全く勝機が見えない、泥沼に沈んでいくような感覚。

 その中で私は――


「――泣けなかったんだ。最後の大会の、最後の試合で。これでもう引退だってところで負けても、全く悔しさがこみ上げなかった。もう、やる意味がないんだって思った」

「だから……高校ではやらなかったんですね」

「でも、宍戸さんは違うでしょ。こんなに悩んで、こんなに悔しいって思って――それは失ったものに縋ってるんじゃなくて、今もなお、宍戸さんが現役のプレイヤーってことなんだよ」


 宍戸さんは、小さく息を飲んで、ぎゅっと唇を噛みしめた。

 肯定も否定もしなかった。

 今、返事をしなくてもいい。

 いつか彼女の中で何か答えが出るのなら、それで良いと思った。


「あれ……スワンちゃん?」


 気づくと、小ホールへ続く廊下から須和さんが歩いてくるのが見えた。

 彼女は真っすぐに私たちのところへやってくると、簡潔に要件を話す。


「来て」

「……だそうだよ。立てる?」

「はい」


 私につられて、宍戸さんも立ち上がる。

 少なくとも、そのことが私には嬉しく感じられた。


 小ホールに戻ると、目を疑う光景が広がっていた。

 バンドメンバーと琴平さんたちが円を描くように取り囲む中で、ユリがエレキギター――ファイヤーバードのネックを握っていた。

 アンプに繋がずに弦をはじく彼女を見て、琴平さんが満足げに頷く。


「流石はユリさん。化け物じみた才能の塊ですね」

「いやあ、それほどでも……あ、星! 見て見て! 懐かしーでしょー!」


 ユリは、新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいにギターを見せびらかす。

 そんなの見りゃ分かるんだけど、私が知りたいのはなんでファイヤーバードがここにあって、ユリがそれを弾いているのかってことだ。


「まさか、琴平さんが持ってきたの?」

「担いできたのは流翔ちゃんですけどね。ワタシのマッチ棒みたいな身体じゃ、この吹雪の中じゃとてもとても」

「正直、しんどかった」


 雲類鷲さんが盛大なため息をつく。

 琴平さんが、その労をねぎらうように頭を撫でる。


「借り物って言ったじゃないですか。今日この後に、ちょうど返す予定だったんですよ。それがこんな形で役立つとは」


 冗談めかして言う彼女の言葉を、果たしてどこまで信じてよいのか見当もつかなかった。

 とは言え、こんな状況を見越して持ってきたなんて、流石に考えられないし……というか、この状況がいったい何の改善に繋がるのかも謎なんだけど。


 まだまだ納得できてない私を差し置いて、ユリはギターを抱えたまま、ずんずんと宍戸さんの目の前まで迫る。

 そして、若干怖気づいた彼女の手を握るように取った。


「一緒に演奏しようよ! きっと楽しいよ!」


 その一言に、私も宍戸さんも、ぽかんとしてユリを見つめる。

 きっと何も考えて屋しない、シンプルな言葉。

 だからこそ、どんな励ましの言葉よりも、宍戸さんの心を打ったのだと思う。


「は、はい」


 ほとんど頷かされたような形だったけど、彼女は確かに応えた。


 時間はあっという間に過ぎてコンサートが開演となる。

 プログラム順に団体が入れ替わって、次第に私たちの出番が近づいてくる。

 開演中の舞台袖は、独特の緊張感に包まれていた。

 ステージ上では、今まさに本番の演奏中。

 出番が近づいて順番を待つ私たちは、次第に焦燥感に包まれていく。


「あの、宍戸さん」


 不意に、あの声が聞こえた。

 宍戸さんも私も、びくりと肩を揺らしながら振り返る。

 そこには、同じく順番待ちをしていた宍戸さんの先輩が立っていた。


「よかった。体調悪そうだったから大丈夫かなって」


 しまった。

 彼女たちは、私たちのひとつ前の団体なんだから、順番待ちの時間が被るのをすっかり失念していた。

 宍戸さんだけ、後でギリギリに来させるべきだった。


 せっかく前向きになってくれた宍戸さんは、すっかり委縮して縮こまってしまった。

 幸いなのは、ちょうどそのころ、ステージ上の演奏が終わって拍手が鳴り響いたことだった。


「あ、ごめん。順番が来ちゃった」


 彼女はそう言って、大型のバリトンサックスを抱える。

 宍戸さんの得意なテナーサックスと比べても、重量感も迫力も五割増しのモンスターマシンだった。


「演奏、聞いてて。それだけ言いたかったんだ」


 それだけ言い残して、彼女ははにかみながら仲間と一緒にステージへ歩み出す。

 残された宍戸さんに、私はそっと歩み寄った。


「……大丈夫?」

「はい……たぶん……」


 見るからに気分が悪そうだ。

 ここまで来てまた……己の浅はかさを恨みつつ、傍らにいる須和さんを見つめる。

 彼女は、じっとステージを見つめたまま動かなかった。

 あの先輩のことが気になるのかな。

 あれこれ考えている間に、彼女たちの演奏が始まった。


 まもなく、宍戸さんは弾かれたように顔を上げて、ステージに釘付けになっていた。


「どうしたの?」

「演奏……すごく上手くなってる。ううん、上手いとかそういうレベルじゃなくて、これ……」

「あの高校の吹奏楽部は、ここ二年ほどで急に力をつけて来た」


 須和さんが、ぽつりと溢す。


「今年の全国行きの切符は、彼女たちに取られた」


 さっき、他に高校が無いって言ってたから、普通に考えたら、その全国メンバーは宍戸さんが所属していた時のメンバーが中心ということだ。

 もちろん、他の中学校から合流してきた人たちもいるのだろうけど。

 でも、それってつまり。


「宍戸さんが抜けてから、めちゃくちゃ練習したってこと?」


 何のために?

 ううん、そんなの分かり切っている。

 彼女たちは〝すごい演奏〟を間近で聞いて、肌で感じて、知ってしまったんだ。

 同時に自分たちの未熟さで、それを活かしきれなかったことも。

 宍戸さんと言う起爆剤に出会って、彼女たちの中の目標と限界のラインが変わった。

 それが数年間の研鑽に変わって、今の彼女たちになっているのなら――


「はは……宍戸さん、すご」


 冷やかしじゃなくて、心の底からそう思った。

 たった一回の演奏。

 たった一回の失敗。

 それで、言っちゃ悪いが弱小校メンバーを、全国レベルのプレイヤーまで駆け上がらせた。

 宍戸さんの演奏は、彼女たちにとっての音楽との向き合い方どころか、人生すら変えるものだったってことだ。


 すっかり見入ってしまっていた宍戸さん本人は、天井を見上げて、大きく、だけど静かに深呼吸をする。


「須和先輩。大事なトランペット……ありがとうございました。でも、これ、お返しします」


 胸に抱えていたトランペットを須和さんに突き付ける。

 それから天野さんに向かって、深く頭を下げた。


「散々迷惑をかけて、すみません。そして、これが最後の迷惑です。サックスパート、わたしに……歌尾にください」


 その言葉を聞いた天野さんは、にっこりと笑って頷く。


「じゃあこれ、持ってかなきゃね」


 差し出した楽器ケースは、確かに天野さんのものだった。

 しかしふたを開けると、そこには宍戸さんのサックスが詰め込まれていた。

 ステージからこぼれるスポットライトの光で、金色の光沢がきらめく。


 楽器を優しく取り出した宍戸さんは、ベルトを肩にかけて手早く準備を済ませると、左右の三つ編みを解いた。

 代わりに、大きなポニーテールをひとつ結って、会場に鳴り響く拍手と向き合う。


「いけるの……?」


 正直なところ、私の中にはまだ不安が残っていた。

 実際、私はおろか、須和さん以外の誰も宍戸さんの演奏を生で聞いたことがない。

 練習でもダメだった。ゲネプロも参加してない。

 文字通りのぶっつけ本番で、本当に大丈夫なのかと。


「吹きたいか、吹きたくないか……ですよね」


 宍戸さんはそう前置いてから、まるで別人のような精悍な顔つきで私を見つめた。


「吹きます」


 その一声に、私はまるで須和さんと話している時のように錯覚してしまった。


「続いては、県立南高校有志チーム『D.C.』の皆さんです」


 暗転していたステージに光がともる。

 学園祭の時よりも強力なスポットライトに、思わず目がくらみそうだった。

 学園祭ライブと違って、この形式のコンサートにMCはいらない。

 みんなで顔を見合わせてタイミングを取ったら、アヤセのスティックがリズムを刻む。


 最初は前座の一曲だ。

 学園祭でやった私の持ち歌を一番だけ。

 歌は無し。

 ユリが加わったことで、ギター、ベース、キーボード、ドラムのガルバデメンバー勢ぞろいの演奏だ。

 これまた練習なしのぶっつけ本番のくせに、ユリは全くブランクを感じさせない様子で弦をはじいていた。

 そのポテンシャルは普段どこに眠ってるんだろうね。

 ほんと、勉強にも活かせばよかったのに……と思っていたのは夏までのことで、今はすっかり勉強に活かされていることを私は知っている。

 基本的にユリは、全方位に対して天才的なんだ。

 同時に、全方位に対してアホだけど。


 肩慣らしの曲が終わって、ステージ上に僅かな緊張が走る。

 張りつめた感情が、爆発する時を待っている。

 再び交されるアイコンタクトは、「一緒に地獄に堕ちよう」の合図だ。


 『Sing, Sing,Sing』の入りは、心躍るようなドラムソロから始まる。

 お祭り会場に一番乗りした彼女を追いかけるように、トロンボーンとベースの落ち着いたリズム、そして力強いトランペットと軽快なエレキギターが走る。

 須和さんのトランペットの第一声は、傍で演奏している私の中にも、パーンと弾けて光った。

 音の波が心臓を撃ち抜いて、全身に肌で伝わる。

 鳥肌が立つ感覚に近い。

 かつて須和さんが言っていた「震える」と言う感覚は、きっとこれなんだと思った。


 しかしここまではまだ、助走のようなイントロだ。

 祭りの舞台で「何をして遊ぼうかな」って、考えを巡らせて足踏みをしてるようなもの。

 ここから一気に弾けるために、主役の登場が必要だった。

 演奏をしながら、誰もが心の中で祈った。


 両手が開いているのなら、胸の前で手を合わせたい。

 けど、右手も左手もベースを制御するので忙しい。

 このブラックバードというじゃじゃ馬を乗りこなすのは、本当に苦労した。

 手を合わせられない分、演奏で示す。

 ドラムも、ギターも、トランペットも、トロンボーンも、そして私のベースも、みんなで振り返って呼びかける。


――おいでよ。


 直前の一拍が、永遠のように感じられた。

 不安と期待と希望と。

 観客の誰も知らないこれまでの積み重ねが。

 宍戸さんの三年間が。

 次の一声にかかっていた。


 そして、誰もが待ち望んだ音が弾けた。


 テナーサックスの伸びやかなメロディが、舞台のど真ん中に躍り出る。

 待ち望まれた主役の登場だった。


 宍戸さんの小さな身体では、ほとんど抱きかかえるような大きさのテナーサックス。

 それを軽々と振り回して、伸びやかでキレのある音が響く。

 思わず、みんなで顔を見合わせた。

 口元は演奏に集中しているけれど、目ははっきりと、細く潰れてしまうくらいに笑っていた。

 サックスの入りと同時に、心炉のピアノも曲に参加する。

 最後の最後に、みんながちゃんと舞台に上がったのを確認するような入りは、実に心炉らしいなと思ってしまった。


 この曲の大半は、トランペットとサックスが交互にメインメロディを奏でる、掛け合いのような構成だ。

 だからこの二つのパートの実力に差があると、まとまりのない不格好な合奏になってしまう。

 トランペットの須和さんは言わずもがな。

 そして宍戸さんは、見事に彼女と渡り合っていた。負けていないどころか、むしろ食って掛かるくらいの主張と圧力。

 合奏どころか、この曲事態を制圧してしまうような、ある意味での傲慢さや我が儘さ。

 これが、あのおどおどして引っ込み思案な彼女の演奏なんだろうか。

 ただただ、目を見張るばかりだった。


 もちろん須和さんだって負けていない。

 曲の途中に、須和さんによるロングソロがあった。

 もともとはサックスで吹く予定だったけど、今は得意のトランペット。

 楽譜はない。

 他のパートが繰り返しのリズムを刻んでいる間、彼女の好きなように観客の心をひきつけて貰う予定だった。


 だがソロに入った瞬間、須和さんが宍戸さんのことを見た。

 いつもの眉一つ動かさない表情とは違う、どこか挑戦的な眼差し。

 その実、「かかってこいと」いう視線と演奏による挑発だった。

 受け取った宍戸さんは、落ち着いた様子でサックスを咥えてソロパートに乱入した。


 なんだこれ。

 もう、好き放題だ。

 互いに「自分が主役だ」言い合うような、喧嘩みたいなデュオ。

 めちゃくちゃなはずなのに、心が躍った。何ふたりだけで楽しんでるんだ。

 自分も混ざりたい。

 だけど、ついていく自信がない。

 くすぶった感情は、ソロが終わって正規の譜面に戻って来た時に爆発する。


 さっきより、ちょっとでも上手く。

 ちょっとでも印象的に。

 私だってここにいる。

 ここで演奏している。

 曲の盛り上がりも最高潮のクライマックスに向かう中で、たった今、自分の演奏がひとつ成長したような実感があった。


――ジャズは、その場で音楽という言語を使って、会話するようなもの。


 須和さんの言葉の意味が、今ようやく分かったような気がする。

 教えてくれたのは、間違いなく宍戸さんと須和さん、ふたりの〝強い人〟の演奏だった。


――私はいま、ジャズをやっているよ。


――私はいま、確かに音楽をやっているよ。

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