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1月10日 笑顔の練習

 三学期が始まる。

 三年生にとっては、ほとんど形骸化した五十日間。

 今月の下旬にはもう自由登校期間が始まるので、週に一度くらいしか登校しないなんて人もおそらくいるだろう。


 いつのも放課後勉強会メンバーに関しては、とりあえず学校で勉強しようかという話にはなっている。

 流石に共通テストからその先、ほとんど誰とも会わずに二次試験に望むと言うのは少々厳しいものがある。

 こういうのは多少面倒でも、いつも通りに過ごしておくのが、不慮の不調に苛まれたりしないものだ。

 人間、生活リズムを崩すのが最も心と身体に悪いというのは、小学校の夏休みに惰眠をむさぼっていた私に、母親がよく言って聞かせてくれたことだ。


「今週は、授業ごとにすべて自習となります。どの時間に何の勉強をしても構いませんが、各教科の担当教員は時間割通りに監督としてやってきますので、分からないことは何でも質問してください」


 担任は、新年の挨拶もそこそこに事務連絡を終えると、ざっと教室にいる生徒たちの顔を見渡す。

 それから、両手の人差し指で、自分の口角をむにゅっと持ち上げてみせた。


「新年早々、顔が固いですよ。冬休みは誰とも会わずに自宅に籠っていた人もいるでしょう。そういう人は特に、誰かと話をして、表情筋を使いましょう」

「話す相手が居ない人はどうしたらしいですか」


 誰かがあげた言葉に、クラス中が失笑する。

 担任は、口元に置いた手をぐりぐりと回すように動かした。


「話す相手が居ない人は、こうしてマッサージをするのも良いですよ。顔がほぐれるだけでも違うので、それこそテスト中なんかも、疲れて来たなと思ったらおすすめします」

「話し相手が居ないことに突っ込んで欲しかった……」


 再び失笑がこぼれる中で、担任は満足げに顔から手を放す。


「今からじたばたしても結果はそう変わりません。期待も不安も、全国の受験生が同じ気持ちでいるはずです。条件は同じなのだから、自分だけがこんなに――と考えるのが、一番もったいないことです。それでも不安な人は、この一週間はひたすら過去問と向き合うと良いでしょう。ニガテなことよりも得意なことを意識して、気持ちを強く持ちましょう」


 そう添えて、ホームルームは締められた。


 それから始業式、言われた通りの自習時間を過ごして、あっという間に放課後となる。

 あまりにあっという間過ぎて、一抹の怖さのようなものすらある。

 でも、朝に担任が言ってたようにじたばたしても仕方がない。

 〝条件は同じ〟という言葉は、それなりに私を勇気づけてくれた。


「もうテストも無いわけだから、いよいよアヤセが勉強頑張る意味が分からないね」


 ぽつりと、ユリが呟くように言う。

 当のアヤセはキョトンとしながら、バツが悪そうにそっぽを向いた。


「何もしないのも嫌なんだよ。あと、入学したら最初に実力テストあるらしいし」

「え、そうなの!?」


 ユリは素っ頓狂な声をあげて身を乗り出す。

 その横で、心炉が小さく息を吐いた。


「基礎科目のクラス分けのために行う学校は多いようですよ。特に、第二言語とか」

「うえ~。受験が終わったら勉強から開放されるわけじゃないのかぁ」

「いや、何しに大学に行くつもりだよ」


 アヤセのストレートなツッコミに、ユリははっとして息を飲む。


「確かに……勉強しに大学に行くんだった」

「分かればよろしい。ほら、手と頭を動かせ」


 私は彼女の頭をそっと小突いてやる。


「うう……でも、あれだよね。大学の授業って、自分で何受けるか決めて良いんでしょ?」

「まあ。ウチの姉が学期始まる前に履修登録がどうこうとか言ってたし」

「好きな勉強だけできるってのは最高だね。あたし、とりあえず数学とはサヨナラバイバイしたい」

「いや、たぶん、大学の講義ってそういう単純な分け方じゃないと思うよ」


 少なくとも高校みたいに「数学」「古文」なんて別れ方はしてないだろう。

 同じ数学にしても、経営学としての数学とか、統計学としての数学とか、そういう実用性のある細かい分野になっているはずだ。


「ほんとに苦手な教科だけ避けるのは可能だと思いますが、履修教科の枠は、ある程度狭められるのがほとんどです」

「どういうこと?」


 首をかしげるユリに、心炉は続ける。


「卒業要件の百数十単位のうち、『ここの分野から何十単位』『こっちからは何十単位』と、ある程度の大枠は定められているんです。もちろん大半は学科に関わりのある講義でしょうけど、基礎教養としてそれ以外の、さして興味のない講義も多数受けなければならないようですよ」

「ずいぶん調べてるじゃん」


 私が素直にコメントすると、心炉は慌てたように咳ばらいをした。


「冬休みに少しだけ……来年からどんな生活をすることになるのか、気になるじゃありませんか」

「わかる、わかるよー。あたしも勉強疲れたらずっと大学生活の妄想してる」


 ユリがうんうんと頷き返す。

 入ることすら決まってないのに、入学後の妄想とはこれいかに。


「授業のこととか全然調べて無かったけど、サークルはいっぱい調べたよ。ダンスサークルとか面白そうだなぁとか。あと軽音とか、演劇とかもいいね。学園祭楽しかったから、本気でやってみるのもありかなぁ」

「結局、お前の興味は部活系か。ま、サークルやってる方が就職とか有利とか言うしな」

「高校と違って掛け持ちもありだし、いろいろやってみようかな。明ちゃんとか、何やってるの?」

「さあ……興味なくて聞いてないな」

「ええ~、こういう時こそ生の声でしょ!」


 でしょって言われても。

 機会があったら聞いといてやるか。

 私が覚えていられたら。


「でも、大学は楽しみだなぁ」


 ユリがぼんやり夢見心地にため息を吐く。


「中学のころの担任が、大学は人生のご褒美期間だって言ってたんだよね。時間があって、バイトとかすればお金もあって、大人になるからできることも増えて」


 どうせ妄想するのならと、私はそんな昔の話を思い出す。


「へえ。その人は、在学中何やってたんだ?」

「海外でバックパッカーをして、絵にかいたような自分探しの旅をしてたらしいよ。その結果が英語教師だから、経験はそれなりに活かされているんだろうね」

「おお、なんかそれ、カッコいいな」

「いや……人としては、結構適当な感じだったよ」


 アヤセが興味を持ってくれたところ悪いけど、「やればなんとかなる!」精神の人だった。

 勝手な憶測だけど、それもバックパッカー時代に培われたんじゃないかなって勝手に思っている。


「自分探しって、なんかいいなぁ。バイクの免許とかとって、日本中旅してまわるのとかも憧れるよねぇ」

「そう?」


 ユリのその妄想はいまいち理解できないけど……でも免許は欲しいな。

 身分証代わりにもなるし。

 バイクじゃなくて、普通の車の免許でいいけど。


「でも、そうやってキャンパスライフを想像するのもモチベーション維持になるんじゃないですか」

「そういう心炉の理想のキャンパスライフは?」

「それは……ナイショにしときます。落ちた時が恥ずかしいので」

「あー、心炉ちゃん『落ちる』って言った! デリカシーなぁい!」

「気にしてるつもりなら、せめて笑わずに言ってください!」


 小学生が冷やかすみたいに、笑顔で言ったユリに、心炉はスネたように唇を尖らせた。

 そんなくだらない会話に、つられて笑顔がこぼれる。

 それだけで、いくらか緊張がほどけたような気がした。

 朝の担任の話も、あながち戯言でもないのかもな。

 表情筋マッサージ……お風呂の時にでも、ちょっと調べてみようかな。

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