明日が受験と言う時に、自宅でぼんやり勉強しているというのは、なんだか不思議な気分だ。
家でも学校でもやることは大して変わらないけれど、校舎のピリピリした空気には背筋が伸びる。
一方で、家は家で自分にとって一番過ごしやすい環境にはなっている。
違いがあるとしたら、やっぱり人がいるかどうかということだろう。
受験直前になって体調を崩してしまった私だったが、大方の予想通り、一番の山場は昨日越した……ように思う。
山をひとつ超えたからといって安心できないところなので、心炉のアドバイス通り、今日は大事を取って学校を休んだ。
明日は朝から大学の会場で共通テスト。
その前に、早朝から高校に集まって壮行式もある。
他の進学校なら今日学校をあげて気合を入れるところなのだろうけれど、そこは会場まで徒歩十分そこらと言う立地だ。
朝一番に壮行式を行って、そのままぞろぞろと連れ立って会場入りするのが、わが校の伝統である。
さながら赤穂浪士の討ち入りだ。
受験前日に何をすべきか問題というものが昔からある。
ひとまず、徹夜で勉強するなんてのはもってのほか。
センター試験が共通テストに変わって数年。
詰め込みより思考力が問われるようになった出題傾向から、一夜漬け受験は今や灰塵となった。
新しいことに取り組むのも避けた方がいい。
いわゆる難問というものも。
よく聞くのは、ざっと教科書や参考書を流し読みする。
もしくは、既に解いた過去問をもう一度解く。
反復学習というよりは、自分の「できる」を再確認する。
ある種の自己暗示だ。
明日は私たちの主戦場である文系教科だ。
重いのはやっぱり英語――と見せかけて、先陣を切る地歴公民の選択科目が一番のキモになると思う。
最初に躓くと、将棋倒しで後の全てが躓きかねない。
受験は生き物だという先人もいる。どれだけ万全の準備を整えたって、最後まで全力を出しきれなければ意味がない。
気が付いたら陽が陰るころになっていた。
部屋がちょっと暗いなと思い始めてから、日の入りはあっという間だ。
そろそろ勉強も切り上げてしまって良いのかもしれない。
不安を押し殺しても身体を休める。
こういう時くらい一番風呂にでも入って、ご飯を食べて、早めにベッドに入る。
たぶん、眠れないと思う。
でも目をつぶって横になっているだけでも身体は休まる。
だったらベッドに居る時間を長くすれば、あんまり眠れなくたって、体力的には万全の状態を維持できるんじゃないだろうか。
そう思える状態を自分で作り出す。
その辺は気持ちの問題だ。
そうと決まれば、たまには風呂掃除でもしよう。
フリースを一枚羽織って腰をあげた時、下階でかすかにチャイムの音が響いた。
何ぞ荷物でも届いたのかと思ってモニターのところへ向かうと、画面いっぱいにカメラを覗き込む瞳が映っていて、変な声が漏れた。
『あれ、聞こえてないのかな』
瞳がカメラから離れると、小さなモニターの窓に呑気なユリの輪郭が浮かび上がる。
彼女が再びチャイムを鳴らしたので、すぐに通話ボタンを押した。
「何してんの」
『あ、いた。おかげんいかが?』
「ちょっと待って。今、開けるから」
玄関に向かって、ユリを家に招き入れる。
学校帰りらしい彼女は、私の部屋まで上がってから着ていたダウンを脱いだ。
「ついこの間まで一緒に住んでたのに、もう懐かしいね~」
そんなことを口にしながら、ユリはすっかりくつろぎモードでうんと伸びあがる。
「明日が本番なのに、今日は勉強してかないで直帰?」
「本番だから直帰だよ。勉強は自習でいっぱいやったし、今日は帰って寝るだけ」
つまり、私と同じ考えだったらしい。
私は、机の上に広げたままだった勉強道具をバッグに放り込んで、ベッドの縁に腰かけた。
「お見舞いは嬉しいけど、だったらなおさら早く帰りなよ。人生掛ってるんだからさ」
「大げさだよ~。そりゃ、落ちたら悲しいかもだけど、人生そんなに変わんない気がしてるし」
「ほんとそういうとこは尊敬してる」
心配するだけ無駄だった。
私は相槌みたいな笑いを溢して、そのまま背中からベッドに倒れた。
「まだ調子悪い?」
心配そうに尋ねるユリの声に、私は天井を見つめたまま首を横に振る。
「薬も飲んでるし大丈夫。明日も念のため飲んでくし、念のため強いのも持ってっとく」
「それなら安心なのかな」
「どうだろう。明日になってみないと分からないかな」
病気や怪我なら追試も受けられるけど、ちゃんとした診断書による証明が必要らしいし、この手のことで対応してもらえるのか分からない。
だったら無理をしても明日明後日で受けておいた方がいい。
痛みをマシにする方法はあるんだから、これはいい意味でのドーピングだ。
「そうそう、見て。自習時間にお守り作ったの」
ユリは、鞄から紙を折りたたんで作ったらしいお守りを取り出す。
「いや、勉強してたんじゃないの」
「勉強もしてたよ。息抜きだよ」
ユリは言い訳するように笑いながら、もうひとつ同じお守りを取り出す。
「はい、これ星の分ね」
ごろんと寝返りを打って受け取ると、表には丸っこい字で「合格祈願」と書かれていた。
「何の紙で作ったの? 流石にご利益なさそう」
「気持ちが大事! いっぱい、念を込めといたから!」
「貰えるものは貰っておくよ。ありがと」
再三のことだけど、不安なのもみんな一緒なんだよね。
これがユリなりの不安の表れなら。
それを受け取ることで彼女の不安が少しでも紛れるなら、それでいい。
「あ、そうだ」
私はもぞもぞと身体を起こして、バッグからペンケースを取り出す。
そして、新品のシャー芯を何本か引っ張り出してユリに手渡す。
「どしたのこれ?」
「なんか、そういうジンクスあるんだって」
「あー、頭いい人の芯使うと受かる的な?」
「少なくともユリよりは頭いいからね」
「それは否定できない」
「あ、でも、マークシートは鉛筆で塗るんだよ。シャーペンは計算とかメモに使いな」
「分かってるー」
ユリはさっそく自分のシャーペンを取り出して、芯を私があげたものに詰め替えた。
それをお宝みたいに掲げて見つめてから、大事そうにペンケースに仕舞う。
「明日がんばろうね」
ユリが満面の笑みを浮かべた。
私も釣られて、鼻から笑みをこぼす。
「できる限りね」
お守りより、どんなジンクスより、やっぱり彼女の笑顔が一番の薬になるなって、惚れた弱みの極みのように思う受験前夜。