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1月19日 練磨心身

 私がはじめて道場へ足を運んだのは、おそらく小学校の一年生か、二年生くらいのころ。

 今となってはうろ覚えだけれど、少なくともものすごく暑い日の、夜のことだった。


 きっかけは姉が通っていたというだけのことだったが、その姉はというと、確か父親の紹介とかそんな感じだったと思う。

 もともと両親は、子供が習い事をすることに関して肯定的で、スポーツ的な習い事と、文化的な習い事と、それぞれ何かしらはさせたいと思っていたらしい。

 そんな中で、きっと子供会かPTA総会か何かで、既に道場へ子供を通わせているパパ友ママ友から聞いたのだろう。


 身体を動かしながら礼儀を覚える。


 そんな感じの売り文句に、惑わされたに違いない。

 道場だって運営や維持をしなければならないなら、門下生の数は必要である。

 実際、ジュニアの部には、学校でも見知った人が何人も通っていた。

 ほとんどは、中学になった瞬間にすっぱり辞めてしまったけれど。


 連れて行って貰ったあと、通いを決めるのは簡単だった。

 練習風景に感銘を受けたとか、憧れを抱いたとか、そういうのは全くない。

 単純に「お姉ちゃんがやっているから」。

 当時の私には、それ以上の理由は必要なかったと思う。


 稽古は、かなり厳しかった。

 ちゃんとしたところなら、まずは身体づくりをしたり、正座に慣れたり、礼儀作法を学んだり――そういう基礎的なところから順に指導してくれるところもあるかもしれないけれど、ウチの道場は「とりあえず竹刀を振ってみよう」が信条だった。

 もちろん振り方から、すり足の仕方から、丁寧に教えてはくれるのだけど、教えたことができていなければ怒られた。

 それはもう、メッタメタに。

 今の時代なら苦情ものじゃないかなとも思うけど、それくらい当たり前だよなって納得させられる空気みたいなものが道場というやつにはある。

 これはたぶん、ウチが特殊なわけじゃなくって、全国どこでもそうだろう。


 そうやって、メッタメタに怒られながらすくすくと育った私は、まあまあ、それなりに才能の片鱗らしきものが開花していた。

 四年生くらいのころには、一緒に通っていた上級生なんかとも対等に渡り合っていたし、男子にも負けてはいなかった。

 もともと小学生の身体なんて、女子の方が早熟してできているものだけど、それでも上級生をうち倒すというのは、抗えない気持ちの良さがある。

 姉には、一回も勝てなかったけど。


 剣道というやつは、面と向かって一対一で闘うスポーツとしては老若男女関係のない競技だ。

 身長制限も重量制限もない無差別級。

 試合は男女で別れていることが多いけど、錬成大会なんかでは性差関係のない試合が組まれたりすることもある。

 今日は、あの人から一本取れた。

 今度は、あの人から一本取れた。

 それがモチベーションで、上達の近道になっていた。


 時おり、もし自分が別のスポーツに打ち込んでいたら――と考えることはある。

 例えばサッカー……は興味が無さ過ぎて、上手くイメージできないけど。

 ううん……何だろう……柔道とか?

 一瞬だけYAWARAちゃんに憧れた時期はあったような気がする。

 その憧れは、体育で触れる程度の柔道で思いのほか満足してしまった。

 あと、野球とか周りの女子で何人がやってる人がいたな。

 それもみんな小学校のうちで辞めてしまっていたようだけど、野球はありかもしれない。

 見ている分には、甲子園とか割と好きだし。

 ダンス……は、そこまで興味はないんだけど、習っていたら今とは全く違う人生を歩んでいただろうね。

 パリピになる、までは言わないけど、もう少し自分に自信たっぷりな日々を送っているような気がする。

 水泳は、もう少し真面目にやってみても良かったかな。

 通っていたスイミングスクールは泳ぎを教えるためのコースで、競技者を育成するための環境じゃなかった。

 そういうコースもあったんだろうけど、当時は興味が移らなかった。

 たぶん大会とかに出ることが無かったから、水泳による勝利の喜びも、負ける悔しさも、経験してこなかったからだと思う。


 結局、そういう他の可能性を捨て置いて、私はこの手に竹刀を握った。

 自分の興味関心よりも「お姉ちゃんと一緒」の方が、比重が大きかったってことだろう。

 そもそも私の興味関心なんて、すべて姉に起因しているわけだけど。


 秋ぶりに、納戸から市内袋を引っ張り出した。

 うっすらと掛かった埃を払うと、中から竹刀を引っ張り出す。

 中学生用の三七規格の竹刀。こんなに軽かったっけ。

 あの時は、片手素振りで腕をぷるぷるさせながらヒイヒイ言っていたはずなのに、今はなんてことはない。

 「下がっている」と何度怒られたか分からない切っ先も、今はビタリと止めることができる。

 出来損ないだった身体が、大人のそれとして完成したんだっていうことを、握りしめた竹刀を通して感じる。


 思い起こされるのは、最後にこれを振ったあの秋の日。

 生徒会選挙の広報のために、穂波ちゃんと竹刀を交えた時のことだ。

 正直、身体は動かなかった。

 鉛のように重く、カチガチに凝り固まっていた。

 その一方で「もう少しできるはず」って自然と思えたのも確かだった。

 もちろん、現役の優秀な剣士である穂波ちゃんに勝てるなんて思いはしないけど、それにしてももっと追いすがれたはず。

 汗のひとつ、息のひとつでもつかせることができたはず。

 そんな漠然とした悔しさが、自分の中にあったような気がする。


 そうしてその「もっとできるはず」は、私が中学三年間、毎日思い続けていたことでもあった。

 競技としてやるのも、もう良いかなっていうのも、まぎれのない本心だ。


 それでも――やっぱり身体は覚えているんだね。

 竹刀を手にして構えるだけで、世界中から音が消え去って、自分ひとりきりになったような気分になる。

 ひとりぼっちじゃなくて、ひとりだけの世界。

 それはとっても、心地のいい場所だった。


 大きく息を吐いて、竹刀を袋に仕舞う。

 そのまま元の棚に戻すと、そっと扉を閉めた。

 少しだけモチベーションが戻って来たような気がする。

 尽きる前に勉強しよう。

 集中力ってやつは、続いているうちが華ってやつだ。

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