心炉と待ち合わせをしたのは、予定していたカフェのランチタイムが終わる午後の二時ころだった。
駅のホテルのカフェなんて初めて入ったけど、静かで人も少なくて良いところだね。
ケーキセットで税込み千二百円程度と、お値段もそこまで高くない。
何となくお高そうなイメージがあって敬遠してたけど、これならもっと前から利用すれば良かったと、自分の食わず嫌いを反省する。
二人掛けのラウンジテーブルに向かい合って腰かけて、ひと息つくのもそこそこに、家からもってきた二次試験の募集要項を取り出す。
「とりあえず、ひと通り確認しましょうか」
「そうだね」
頷き合って、冊子になった要項をめくる。
「とりあえず、私たちが受けるのは文科一類です。まず、数字を間違えないように」
「流石にそれは大丈夫」
「理科三類が有名だからって、間違えて文科三類って書いちゃう人もいるみたいですよ」
「指さし確認もしとく」
流石にそんなところで躓いていられない。
心炉も単に脅すのが目的だったみたいで、さらっと流して次に進む。
「受験科目は国語、数学、地歴、外国語の四教科五科目」
「数学やらなきゃいけないのが憂鬱」
「経済学部も一緒くたの試験ですからね」
「いい迷惑だよ」
愚痴っても仕方がないのだけれど、愚痴りたい気持ちは分かってもらいたい。
「応募はウェブ申請をしてから、発行された願書を郵送です。申請は明日の朝九時から」
「つまり、今日集まる意味は特になかったのでは?」
今日できること特にないじゃん。
せいぜい、今みたいに準備の仕方を確認するだけ。
心炉は、ロールケーキをひと口摘まんでから、紅茶に口をつける。
ホットの紅茶を飲む時、ちゃんとソーサーごと手元に運ぶ人初めて見た。
相変わらず、育ちの良さが所作ににじみ出る。
「意思確認です。面と向かって示し合わさなきゃ、逃げられちゃいそうな気がしたので」
「何が?」
「本当に受けるのかどうか」
そう言って心炉は、ソーサーごとカップをテーブルに戻す。
私は何を言われているのか分からずに、眉をひそめながら首をかしげる。
「受けるに決まってるじゃん」
「そうですか。なら良いんですけど」
「それはどういう心配なの?」
「なんだか、ランクを落としそうな気がしたので」
面と向かって言われて、思わず息をのむ。
そんなつもりあるもんか。
そう思っていたはずだけど、返事をするのに、少しだけ気持ちを思いきる必要があった。
「落とさないよ。このために三年間やって来たんだから」
一瞬のためらいは、無意識に、少しでも、日和る心があったという証なのかもしれない。
そう思えるくらいに、自分でも戸惑っていた。
「わざわざそれを言うために?」
「それは用事の半分です」
「もう半分は?」
その問いに、今度は心炉の方が小さく息を飲む。
戸惑っている、もしくは躊躇っているかのような、不安げな息遣いだった。
彼女はそれを、自分の力でもう一度飲み下して、私に向き直る。
「そろそろユリさん離れをしましょう」
「……はい?」
気後れしたみたいに返事が遅れる。
この遅れは単純に、心炉の言葉をかみ砕くのに必要なものだった。
「とっくに、お互い自分のことで精一杯にならなきゃいけない時期のはずです。だからいいかげん、ユリさん中心にものを考えるのを止めましょう」
「まって、なんでそんなこと言われなきゃいけないの」
苦い笑いをうかべながら、冗談めかして返す。
だけど心炉は、それでも大まじめに切り込んで来た。
「受験だってギリギリなのに、いつまでおままごとやってるつもりなんですか」
「おままごとって」
「おままごとですよ。星さんがお母さん役で」
「違うよ」
違わない。
きっと、ずっと。
そういう形がぴったりハマった。
そうすれば一番近いところに居られた。
分かってる。
そんなこと。
言われなくたって。
「ユリさんは、星さんが思ってるほど子供じゃないですよ」
分かってる。
「自分のことはちゃんと自分でできる。他の人のことだって考えられる」
分かってる。
「むしろ星さんがいるせいで、甘えるっていうか……依存してるんじゃないんですか」
「分かってるよ」
三度目は言葉に出た。
自分でもびっくりするくらい、低くて吐き捨てるような声だった。
「言われなくたって分かってる。どうにかするつもりでもいる」
それが告白。
おままごとを終わらせる魔法の言葉。
「じゃあ、すぐにしましょう」
「そんな、簡単にできることじゃないよ」
「いつならできるんですか」
「それは――」
「それをどうにかして、ようやく星さんも、自分のことに集中できるんじゃないんですか」
ド正論なのが、この上なくムカついた。
歯に衣着せない彼女の言葉を受け止めるには、私はこれまで、自分に言い訳をしすぎていた。
言葉を失った私にできたのは、不機嫌なふりをして席を立つことだけだ。
「願書はちゃんと、明日の朝いちばんで出すから」
自分の分のお会計だけちょっと多めにテーブルに放って、私はコートを抱えたまま店を出る。
その後ろを、心炉が慌ててお会計をして追いかけて来た。
「このままじゃ、どっちもダメになっちゃうかもしれないんですよ」
「ならないかもしれないじゃん」
雪の降る大通りを、傘もささずに大股で歩く。
それに追いすがる心炉は、ほとんど小走りの状態だ。
バスが来てたら乗り込んでも良かったのだけど、あいにく停留所に車影はなかった。
一緒にバス停でたたずむ気まずさを考えたら、歩いた方がマシに思えた。
「現に、ユリは大丈夫だよ。ギリギリだけど、ちゃんと合格できる」
「そんなこと……」
「分かるよ。あいつはそういうやつだから」
なんだかんだで、何をやらせたって失敗しないだ、あいつは。
それを天才なんて陳腐な言葉で呼びたくはない。
与えられた時間で、目指した成果を得るために全力で頑張れる。
それがユリだ。
そう考えたらふと、ユリが続先輩に憧れた理由が分かったような気がした。
今さらなんでそんな……でも、きっと、間違いない。
先輩は、ユリが目指すユリの姿なんだ。
「じゃあ、星さんはどうなんですか」
「私は……私も、できるだけのことをやってるよ」
「いいえ、やってません」
「だから、なんで言い切れるの?」
いい加減にしつこく感じて、私は憤りをあらわにしながら振り返る。
急に立ち止まったものだから心炉も驚いて、つんのめりながら立ち止まる。
小走りのせいか、彼女の息はあがっていた。
寒空なのに紅潮した頬で真っすぐに私を見つめる。
「好きです」
びっくりして、怒るのも忘れて心炉の瞳を見つめ返す。
すると彼女は気まずそうにしながら、ふいと視線を外した。
「その、たった一言が言えないだけのくせに」
そう吐き捨てながら、疲れ切ったようにその場にしゃがみ込んだ。
降り注ぐ雪が息遣いの音さえも吸いつくしてしまう中で、横断歩道の「故郷の空」だけがやけにハッキリと耳に残る。
「そうだね」
ようやく口にできたのは同意する言葉だけ。
気づかれてたとか、そんなことどうでもよくって。
相変わらずの真っすぐな叱責が、すっかり怒ることも忘れた胸に沁み込む。
「その通りだよ」
自分に言い聞かせるように、ちゃんと言葉にするべきだと思った。
だからこれは独り言。心炉の叱責に対する、返事ではなく――
「ごめん、ありがとう」
私はまだ、やるべきことを何もやってない。