今日も今日とて大寒波――だが、人間嫌なことも三日続けば慣れるもので、寒さに震えながらも学校へ出向くこと自体はそれほど困難ではなかった。
自由登校日なのだから、教室に行ったところで、同じように自習しているクラスメイトがいるだけだ。
昇降口で靴を履き替えた私は、まっすぐに生徒会室の扉をくぐる。
鍵は開いていたが、部屋には誰もいなかった。
時間割的にはとっくに一限目なのだから当然だ。
そのうちユリたちも来ることだろう。
先に長テーブルの一角を確保して、鞄の中から勉強道具を取り出す。
重くなるのが嫌なので、自由登校期間中は、一日一教科をローテーションで持ってくることにした。
昨日は国語。
今日は世界史……と言った感じ。
それとは別に、毎日やるべき数学と英語に関しては、家に帰ってから寝るまでの時間に手を付ける。
この辺は積み重ねが必要な教科と、そうでない教科の違いだ。
「おーっす。はえーな」
十分と立たずに、アヤセがやって来る。
彼女は私の向かいにどっかり腰を掛けると、スマホを鏡代わりに前髪の調子を整える。
「筋トレは進んでんの?」
「筋トレ? ああ、課題のことか。まあ、ぼちぼちな」
髪を整えたあとニコっとひとつ笑顔を浮かべてから、彼女はスマホをテーブルの上に投げ出す。
そしておもむろに立ち上がると、会長デスクの周りを物色しはじめた。
「やめなよ。一応、部外者なんだから」
「そう言うなって。可愛い後輩がちゃんと仕事してんのか気になるじゃん。おっ、議事録はっけーん」
アヤセは、卓上書架に立てかけてあった大学ノートを引っ張り出すと、躊躇なくめくり始める。
「おっ、スカートの新規格マジで進んでんじゃん。なるほど、基本は従来通りだけど夏用は膝丈も選択可にするのな。冬はなんだかんだ、長い方あったけーしな」
「お洒落は気合だなんて、北国じゃ口にできない言葉だよ」
「言えてるわ」
苦笑しながら、彼女は続きを読み進める。
「他の議題はっと。卒業式と入試関連な。おっ、クラスマッチの競技案も出してんじゃん。特に変わり映えは……eスポーツ? マジ? タイトル何ですんの?」
ひとりでツッコミを入れて楽しんでるアヤセを横目に、私は粛々と勉強をはじめる。
eスポーツって、開催形式どうするつもりなんだろ。
その辺の知識はうとい私にはサッパリだったけど、新しい取り組みに挑戦する姿勢は良いと思う。
雲類鷲さん式の花丸ちゃんを進呈してあげたい。
「アヤセ、暇なんでしょ。何か出るの?」
「つってもなー、屋内スポーツあんまり得意なのねーんだよなー。今さら卓球かって感じもするし」
「eスポやればいいじゃん」
「ムリムリ。やってるタイトルだったところで、基本どれもエンジョイ勢だからボコられて終わりだって」
「良いじゃん賑やかしで」
「そういうこと言うなら、お前も何か出ろよなー」
「ヤだよ。落ちた時に、クラスマッチ出たせいだって思いたくないし」
「たった一日だけ、一時間そこらの息抜きで落ちるようなら、そもそもそういう宿命だろ」
それはまあ、その通りだ。
実際、目が覚めてから寝るまで、ご飯と風呂の時間以外全部勉強しているのかと言うとそうではないし。
もちろん息抜きの時間なんて、ここ半年くらいは一日通して一時間かそこらくらいだけれど。
「運動すると脳が活性化して、勉強の吸収も良くなるらしいぜ」
「それ、どこ知識?」
「ユリから借りた漫画。かるたのやつ」
「ああ、そういや終わったんだっけね。私も受験終わったら借りよ」
アヤセと回し読みして、最後に読んだのはどの辺だったか。
確か三年目の全国大会?
それともクイーン戦の予選?
こんだけうろ覚えなら、いっそのこと最初から読み直した方が良いのかもしれない。
「星ちゃんよ」
「なに?」
「心炉とちょっとバチってたりする?」
その言葉で、ここまでのどうでもいい会話は、全部機会を伺ってたんだなと知る。
「いつものことだよ。見解の不一致ってやつ」
「ちなみに原因は?」
それを答えるのには、流石にちょっと躊躇した。
でも、アヤセに対しては今さらか――と思って、ありのままを話すことにする。
「私の将来と、あとユリのこと。面倒見るの止めて、自分のことに集中した方がいいんじゃないかって」
「あー」
アヤセはなんとも苦い表情を浮かべて、返事に困っていた。
きっと彼女も、ある程度心当たりはあったのだろう。
そりゃ、普通はそうだ。
アヤセだって、これだけ私たちに時間を合わせてくれているのは、自分のことは既に終わっていて応援モードに入っているからにすぎない。
同じように一般受験に臨むことになっていたら、今も私の向かいで机にかじりついて、わき目もふらずに勉強していたことだろう。
「非常に悩むんだが」
アヤセはそう前置いて、一息飲み込んでから続きを語る。
「私はどっちかと言えば星の味方だ。なんか、半分けしかけたみたいだったしな」
「どっちかと言えば、ありがとう」
もし彼女に止められていたら、少しは検討の余地もあったのかな……なんて柄にもないことを考える。
半面、彼女が後押ししてくれることで、いくらか気分が軽くなってる自分もいる。
やっぱり、もっと前から相談してたら良かったのかな。
それこそ、ユリが先輩への思いを自覚したことを知ったときくらいから――
「でも、心配しなくていいよ。星は私なんかよりずっと大人だから」
「そりゃそうだろな」
「そこは少しくらい否定してよ」
軽口を叩きながら、息抜き代わりに首をぐりぐりと動かす。
いいかげん、肩こりってやつを感じるようになってきた。
集中力の低下に繋がっているような気がするし、適度な運動は、実際のところ必要とされているのかもしれない。
「ユリがちゃんと受かってくれたら嬉しいってのは本当だよ。三年間、テストのときはちゃんと勉強させてたけど、それでも半年真面目に勉強しただけで大学入れそうなら、めっちゃ頑張ってるじゃん」
「ここぞって時の集中力はすごいからな、あいつ」
「だから……なんだろ、優先順位の問題なのかな。ユリの将来の方が大事で、自分は二の次。負け惜しみみたいに聞こえちゃうかもだけど、ユリがちゃんと合格してくれたら、自分が落ちても、なんか満足しちゃいそうな気がするんだよね」
なんとなく気づいていたけど、口にしたことが無かった思い。
私の人生はとっくにユリ中心に回っていて、彼女のために何でもしてあげたいって気持ちと、その成功を自分のことみたいに喜べる気持ちが同居している。
「だからさ――って、聞いてる?」
ふと視線を向けたアヤセがぼんやりしていたので、流れるようにツッコミを入れる。
それでも反応が無いので、ふとその視線を追ってしまい――私は、そうしたことをひどく後悔した。
何をって、なんならいっそのこと、全部口にしてしまうまで気が付かなければ良かったってこと。
生徒会室の入り口に、ユリがぽかんとした表情で立っていた。
「え……あれ……」
珍しく狼狽えるユリが、逃げ場を探すみたいに視線を泳がせる。
私は身を乗り出す勢いて立ち上がって、すぐに平静を装った。
「……おはよ。今来たの?」
「えっと……あのね?」
こんなに取り乱したユリを初めてみた。
いつも底抜けに元気で、迷いはしてもやるべきことは分かっていて、ひた向きに頑張る。
それが彼女だと思っていたから。
そんな引きつった顔できるんだって、返す言葉も失って見つめてしまった。
もしかしたらそれが、彼女を責めているように見えてしまったのかもしれない。
無言は人を不安にさせる。
ユリは、踵を返して脱兎のごとく駆け出した。
「あっ……」
私はというと、すっかり頭が真っ白になって届くはずのない手を、開け放たれたままのドアに伸ばすことしかできなかった。
昇降口から吹き込む寒風が、暖房のききかけた部屋の中を、一瞬で吹き抜けていった。