午前中に降っていた雪は、午後になるころにはすっかり収まっていた。
空は相変わらずどんよりとした曇に覆われているが、白くて小さな悪魔たちを見なくてもいっというだけで、心は晴れやかだった。
一時間に一本しかないバスを待つのは億劫で、歩いてユリの家まで向かう。
今日行くことはメッセージで送っておいたけど、やっぱり返事はなかった。
それでも既読はついたので、「来るな」と言われない以上は、受け入れてくれているのだと思うことにした。
玄関口に立って、軽く呼吸を整えてからチャイムを鳴らす。
大通りから外れた閑静な住宅街の中では、学校のチャイムくらい、やけに大きく響いたような気がした。
「あ……」
玄関が開くなり、顔を出したユリは眉をハの字に下げる。
その表情に、しっかり蓄えて来たはずの自信と勇気がみるみる減って行く。
それでも、今さら立ち退くことはできない。
強がりいっぱいで笑いかけると、ユリもにへらと笑みを浮かべて家の中へ招き入れてくれた。
ジャージ姿のユリに先導されて、彼女の部屋まで通される。
家の中は芯と静まり返って、すっかり冷え切った様子だった。
「今日はお父さんは?」
「出かけてるよ」
両親から「よろしく伝えておいて」と、言伝と菓子折りを買うお金を貰って来たけど、タイミングが悪かったようだ。
とりあえず来た証だけでもと、出かけにアヤセの家で買って来た和菓子アソートをショッパーごと手渡す。
「寄って来たんだ?」
「あんこ好きでしょ?」
「うん。でも、星の方が好きだよね、あんこ」
「あいつん家のやつが好きなの」
「あはは、言えてる。せっかくだし開けよっか。お茶淹れて来るね」
ユリは、菓子箱を手に部屋を出て行く。
残された私は、脱いだコートを畳んで、ベッドの縁に腰を下ろした。
アヤセと一緒に三人で集まる時、私の定位置はここだった。
なんでだっけと考えると、そう言えばジャンケンで決めたんだっけと思い出す。
初めて三人でここに集まったとき、ベッドと、普段使いの座椅子と、大型のビーズクッションと、どこに誰が座るのかジャンケンをしたのだ。
買った順に選ぶ――というわけじゃなくて、最初に勝った人がクッション、次がベッド、負け残りが座椅子と、謎の序列で席があてがわれた。
理由はよく分からないけど、ユリの中ではこの順でおもてなし度が高い席らしい。
結果として、アヤセ、私、ユリの順で序列が決まって、以降はそこが定位置となった。
「おまたせ。緑茶で良いよね?」
しばらくして、ユリがお盆に湯呑とどら焼きをふたつずつ乗せて帰って来る。
私は「問題ないよ」と頷いて、かじかむ手でアツアツの湯飲みを包み込んだ。
痺れる熱さが、指先からじんわりと全身に駆け巡る。
「ごめんね。学校休んで」
ひと息ついてから、ユリの一声がそれだった。
私は、口に含んだお茶を飲み下してから、湯呑をテーブルに置いて答える。
「謝る必要ないよ。自由登校なんだし」
「うん、そうだよね」
彼女は安心したように笑って、それからためらいがちに私のことを見つめた。
「あたし、登校日以外は家で勉強することにする」
その選択は、私が半分覚悟していたもの。
そして、半分あって欲しくないと願ったこと。
「この間のこと、気にしてるの? 例えばの話だよ。私だって落ちるつもりはないし。倍率三倍なんだもん。どんなに頑張っても、そうなる可能性とは、常に隣り合わせだよ」
「だからこそだよ。立ち聞きみたいになっちゃったけど、あたし、はっとしたんだ。星にとって今は本当に大事な時期で、下手しなくても将来がかかってて、一秒だって無駄にしちゃいけないんだって」
「だったら、私はいつも通りの方がいいよ。私にとっての最良の環境が、ユリとアヤセと心炉と、四人で勉強するあの放課後の時間だったんだから」
取り繕うことなんて考えてない。
ただ真っすぐに、自分の思っていることを伝えるだけ。
それがどのくらい伝わるかは分からないけど、私にとってのかけがえのない時間を、分かってもらおうと努力するだけ。
「でも、最良が最善だっては限らないよ。あたしにとっても、星にとっても」
ユリが珍しく食い下がる。
いつもは私の言うことが一番正しいみたいな顔して、無邪気に頷くばかりのくせに。
それくらい、考えた末の選択なんだろうなっていう覚悟を、私は見せつけられているのだと思う。
「つまり……ユリにとっても最良ではあるってこと?」
理屈で決めた覚悟を揺るがすには、感情に訴えかけるしかない。
それは、ユリも私と同じ気持ちなんだっていう前提のもとで信じるしかないのだけれど。
苦しいところを突かれたのか、彼女は言葉が出ずに、彼女は逃げ場を探すみたいに視線を泳がせる。
でも、ここは彼女の家なんだから、逃げられるような場所はない。
諦めたように、きゅっと口元を強く結ぶ。
「いつまでも、甘えてちゃダメなんだよ。これからみんな、別々の学校に行くことになるんだから」
「甘えてるんじゃなくて、助け合ってるんだよ。それに私は、頼られるの好きだし」
「違うよ」
ユリは、力強く首を横に振る。
「あたしじゃなくて、星がだよ。落ちても良いやなんて、そんなところで満足してちゃダメだよ」
何を言われたのか理解するのに、少なくない時間が必要だった。
ユリじゃなくて――ってことは、甘えてるのは私ってこと?
「待ってよ、どこにそんな――」
「明ちゃんから逃げて、部活からも逃げて……だから、受験だけは逃げちゃダメなんだよ」
「……逃げてなんてないよ」
「じゃあ、なんで落ちても良いやみたいな顔してるの? 落ちるのが嫌だったら、死に物狂いで頑張るでしょ?」
「頑張ってるよ。それでも……ダメな時はダメになるじゃん!」
つい、声が荒くなってしまった。
でも、それを正す余裕はなくって、私はそのまままくしたてる。
図星なんだって、自分でも分かっていた。
「三年間、不安でいっぱいだったよ。私にはこれしか残ってないのに、ダメだったらどうしようって。もう、なんにも残らない。私に価値なんてなくなっちゃう。でも、同じくらい、どうやっても自分が凡人なのも分かってるんだよ。だから――」
受かって大学に通っている自分の姿が全く思い浮かばなかった。
だから私には、入学後のビジョンが無いんだ。
どんな勉強をして、どんな大人になろうとしてるのか。
まるで受験が人生のゴールで、そこが行き止まりみたいで。
そのことに一切の疑問を抱かなかった。
「――楽になりたいんだよ。最後に残っちゃったから。これだけはまだ希望があるから。これもダメなんだって。あの人と自分は、別の生き物なんだって。何をしたって敵わないんだって。現実を突きつけられて……楽になりたいの」
並ぶことなんてできないって、とっくの昔に理解してた。
それでもあがいてしまった自分に、僅かに残った勝気な自分に、納得させるために。
「じゃあ、記念受験なの……?」
ユリの言葉に頷きかけた私は、歯を食いしばって首を横に振った。
「受かりたいよ。そのつもりでやって来たんだから」
「じゃあ、お互いに頑張ろうよ。あたしが合格するのを、自分の代わりにしちゃだめだよ」
「やだよ。それが高校最後の想い出になるなんて……」
「ちゃんとお互い受かったら、良い思い出になるよ」
「違うよ。あとひと月だけなんだよ。ユリと一緒に学校に通えるのは」
どうあがいたって、卒業したら進路は別になる。
滑り止めの私立だって被っちゃいない。
同じ学校に同じように通って、朝に「おはよう」って言い合うのも、帰りに「またね」って言い合うのも、全部終わり。
「それはそうだけど……卒業したって星とは友達だよ。あたし、そのつもりだよ」
「ユリは分かってない!」
もう一度、言葉が粗ぶった。
自制なんてとっくの前からきいていない。
自分が何を口にしてるのか、自分でも理解してない。
ただ感情的に、胸のうちにくすぶっていたものを吐き捨てるだけ。
ある意味で素直で、ある意味で愚かで。
ひたすらに自分勝手だった。
「好きなんだもん!」
もう止まらない。
「ずっと好きだったから!」
頭の中は真っ白で、喉の奥はカラカラで、不思議とただ「言ってやった」っていう達成感みたいなものだけが、じんわりと全身を満たしていた。
「なんで……?」
ユリの震える声が聞こえて、私はかすかに息を飲む。
ゆっくりと視線を向けると、彼女は泣きそうな顔で私のことを見ていた。
「なんで言っちゃうの……?」
いや、泣きそうじゃない――小さな雫が一筋、その瑞々しい頬を伝って落ちていく。
その時私はようやく、自分がしでかしたことを、自分の頭で理解してしまった。
ユリの唇がかすかに揺れる。
発せられる四つの音が、その日の私の記憶に残る、最後の会話となった。