セベネスの背の上は、想像以上に快適だった。着地の時にかけていた魔法を応用したのか、かなりのスピードで空を駆けているはずなのにほとんど揺れないし、頬を撫でる風もそよ風ほどのもので、勇はほっと息を吐く。
「ひょっとしてイサミ、船酔い的なの心配してたのか?」
「……少し。俺、基本的に乗り物酔いするタイプだから」
「セベネス様の事を乗り物ってあなた……!」
メリアが顔を青くする。慌てて弁明する勇。
「あっ、そういう意味じゃなくて……すみません……」
そんな話をしている声を聞いて、セベネスは「ふふ」と笑った。
「体調が悪くなっていないのであれば何より。……大変な旅路だったのでしょう。そして、この次も……。少し休めそうであればおやすみなさい」
そう促されて、勇はうとうととセベネスの背にもたれかかる。
セベネスの温かな心により、ここ数日の強行軍と、緊張とで張り詰めた糸が切れる。
「なんつか、忘れてたけどイサミに関しては戦闘だの冒険だのってのに関しては素人だったもんな、この世界に来るまでは一切やってこなかったんだろ」
「そうだね、結構無理してるんじゃないかなって思ってたけど……」
「この先に控えてる戦いもデカくなりそうなのは否定できないしな、少し休んどいてくれたほうがいいよな」
「うん……」
アドラは? 疲れてないの? とマルタンが問う。その背後ではマルタンの背にうずもれるようにしてメリアが既に寝息を立てていた。
「少し。マルこそ疲れてるんじゃないのか?」
「へへ、アドラにはお見通しかぁ。……でも、ちょっとだけ考え事」
「そか。あまり思いつめるなよ。……頼りないかもだけど、あたしもついてっからな」
「ん」
じゃ、おやすみ。そういうと、アドラは勇の横に身体を軽く横たえた。マルタンはそんな二人を背に、藍色に染まった空を見上げる。月のない空は、より一層星が映える。金銀にちらちらときらめいている星々に、ほうっとため息をついた。視力が悪く夜目の利かないマルタンでもわかるくらい、今は空が近い。
「マルタン」
「はい」
他を起こさないよう静かに声をかけてきたセベネスに、マルタンも小さな声で答えた。
「眠らないのですか?」
「……眠れなくて」
「そうではないかと思ったのです。私が聞いてもよいことならばお話くださいますか?」
高次の存在でありながら丁寧に、謙虚に接してくるセベネス。マルタンは、自然と心を開いていた。
「……聞いていただけるのですか」
「それで少しでもあなたの心が軽くなるのならば」
「ありがとうございます」
マルタンは慎重に言葉を選ぶように話し始める。
「……わたしは、レジスタンスという職を天から賜って、それで学校へ通うようになりました」
レジスタンスの発現は滅多にないこと。
裏を返せば、レジスタンスというジョブが現われるということはリベルテネスになんらかの危機が迫っているという事の証左であった。
「誰にも言われたことは無かったけど、わたしは不吉な子なんじゃないかって、そう思ったこともありました」
だって、本来ならレジスタンスなんてこの世界にはいなくても良いはずなのに。
「それは違いますよ、マルタン。レジスタンスが生まれるから危機に陥るのではなく、この世界の危機に生まれるのがレジスタンスなのですから」
「……はい、校長先生や友達にもそう言われました。けど、わたしには世界を救う力なんてあるのかなって」
だって、こんなにも弱いんです。
そう言ってマルタンは自分の手の爪を見つめた。
この爪にはベヒーモスのような殺傷能力は無い。
この腕にはゴーレムのような馬力は無い。
この足にはケンタウロスのごとき速度は出せない。
この背には翼は無い。
「……」
セベネスは黙ってマルタンの言葉の続きを待つ。
「マルは、ちゃんとみんなの役に立てるのかなって……」
名前だけのレジスタンス。
そう感じてしまうこともあったというマルタンに、セベネスはそっと語り掛けた。
「強さとは、……腕力や魔力だけを指すのでしょうか?」
「……!」
マルタンははっとして俯いた顔を上げる。
「それはあなたがよく知っているはずですよ。あなたにとっての救いは、きっと物理的な強さに限ったことではなかったはずです」
そうだ。
戦闘能力がなかったのは勇も同じこと。それでも、身を挺してマルタンや仲間たちを守ろうとした。
アドラは、敵に操られているとき、その強い力を持ちながらもマルタンたちに傷をつけないようにと自分の腕を殴りつけてまで攻撃をキャンセルした。
メリアだって、その身を削ることになるとわかっていながら全力でニフタに向かっていった。
フレイアは自らが見定めたものを信じ、かつての仲間であるユウタに制裁鉄拳を叩き込んだ。
クラウスは直に敵と戦うことではなく研究することを選び、この旅に助力してくれているし、知略を巡らせているグラナードも……他の皆だって。
それは……。
「みんな『想い』が強い……」
ぽつり。マルタンは呟く。
「みんな、みんなのことを大事にしたい、助けたいって思ってる。力だけじゃなくて、心がすごく強いんだ……」
ぽた、とセベネスの背に雫が落ちる。
「ちゃんと、自分で気づけましたね」
「……はい」
ぽた、もうひとつ。
「ごめんなさい、お背中……」
マルタンは慌ててふにふにの肉球でセベネスの背を拭う。
「良いのですよ、気にしないで」
「……」
「マルタン。あなたが他者に与えるものもまた、きっと同じです」
――誰かにそっと寄り添って支えになれるような者におなりなさい。
父と母に聞かされていた言葉を思い出し、胸の奥がふわりとあたたかくなる。
無理に強くならなくても良いと、優しく背を押されているような気がしてマルタンは嬉しくなり、鼻先を毛繕いした。
ずび、と鼻をすする音が響く。
「マルにはマルの強さが……」
「はい、きっとありますよ。お会いしてすぐにわかりました。あなたは強い子です」
セベネスはそう断言すると、小さく笑った。ありがとうございます、と礼を言ったマルタンはセベネスのあたたかい体温を感じながら、ゆっくりと微睡んでいく。その背にうつぶせに身体を預け、やがてすよすよと寝息を立て始めた。
己の背の上で安心しきって眠る者たちを愛おしく感じながら、闇の深まる北の空へ速度を上げていった。