「あー、ちくしょう。イライラすんな。とろとろとろとろ進みやがって……」
屯所を出てもう一刻半(約3時間)は過ぎていた。壬生村から洛中を東に抜け、比叡山の山裾にやっとたどり着いたところだ。早足ならば半刻ほどの道のりにこれほどの時間をかけられて土方は苛立ちを隠せなかった。
その視線の先にあるのは油洞院が乗る萌黄色の
「ほほほ、麻呂の
こんなに時間がかかっているのは、油洞院が殊更に遅く歩かせているためだった。自慢の牛を道行く人々に見せつけているのだ。まったく面倒なものに巻き込まれてしまったと土方は嘆息をつく。
「あ、あそこの梅の花、ひとつだけ咲いているね」
「オウ! 本当デスネ! とっても可愛らしいデス!」
「お前らは太平楽で羨ましいなあ」
しかし、同行する沖田とアーシアはあちこちにある春の兆しを見つけてはキャッキャとはしゃいでいる。牛車の歩みが遅いことをいいことに、菓子の買い食いまでしている。最初は油洞院の付き人たちにぎょっとした目で見られていたが、お裾分けをして懐柔していた。彼らも油洞院ののろのろ歩きには辟易していたらしい。どうせ牛車の中までは聞こえまいと愚痴も漏れ聞こえてくる。
そんなこんなでやっとたどり着いたのは南禅寺近くの屋敷である。いずれの公家の別宅だろうが、手入れが行き届いていないようで土塀は汚れて一部が破れている。庭園には枯れ草が茂り、池は緑の藻でわだかまっていた。昨今の公家の困窮を端的に表すような光景である。
応仁の乱以降、荒れに荒れた京の都は豊臣秀吉の手により再建が進み、政権が徳川幕府に移ってからもその方針が続いた。江戸二百余年の太平により都は活気を取り戻し、公家も貴族らしく暮らせるようになっていたのだが、この頃では再び苦しくなっている。公家の一部では、華道茶道の指南や、和歌の代筆などの内職で糊口をしのいでいる始末である。
「今日の退魔行はここで行うでおじゃる」
牛車が傾き、御簾をくぐって油洞院が降りてきた。付き人の手を借りているにかかわらず、着地で足元がもたついて蓄えた脂肪が揺れる。なんともみっともない男だ。近藤からの命令でなければこんな男の護衛につくことは絶対にないと言いきれる。
「では屋敷に入るでおじゃる。ほれ、お主らが露払いせよ。蜘蛛の巣など絡んでは叶わぬ」
返事の代わりに「ちっ」舌打ちで返し、枯れ草を踏み分けて先に進む。後ろからは沖田とアーシアが着いてくる。
「この屋敷にあやかしが住み着いたから、女官がひとり攫われたんだったか?」
「放置すると外聞が悪いからあやかしを追い出してくれって話ですね。女官の方はどうでもいいんですかね」
「はん、それがお偉方ってもんだろうよ」
油洞院に命じられた仕事とはこの退魔行の護衛である。近頃あやかしが湧き始め、陰陽寮に退魔の依頼が急増した。一通りの祈祷などは陰陽寮だけで完結できるが、現在の公家に武官はいない。例えば
「若先生から言われちゃしょうがないですけど、断れなかったんですかね」
新選組の本分は京の都の治安維持であるが、その主な敵はあくまでも倒幕を目論む不逞浪士たちである。妖怪退治で名を上げたのはたまたまであり、本来求めた武名ではない。ただでさえ手一杯だと言うのに、陰陽寮の手伝いなどは他を当たってほしいところではあった。
おまけにその退魔行を仕切るのがあの油洞院である。とてもではないがやる気になれない。
「しょうがねえだろ。一橋の旦那が陰陽寮にはさんざん借りがあって、断るわけにはいかねえんだとよ」
二条城での戦を初め、各種の調べごとなどで一橋慶喜は陰陽寮に借りを作っていたのである。いずれも帝を護るためなのだから借りでもなんでもないはずなのだが、そこは千年を政治のみで生き抜いた公家が相手だ。さしもの慶喜でも絡め取られ、すっかり恩を着せられてしまったのだ。
「それで、あやかしってのはどんなのかねえ」
土方は鞘付きの刀で蜘蛛の巣を払いつつ、土足で屋敷に上がり込む。一歩ごとに床がきしんで湿った声を上げた。
「どう? アーシアは何か感じる?」と沖田が問うと、
「弱いですが、瘴気が漂ってイマス。噂は思い込みではなく、本当に魔物がいるんデショウ」とアーシアが答えた。
「へえ、それは意外だったな」
土方は顎を掻きつつ、いくらか真剣な顔つきになって奥へ奥へと進む。どうせ退魔など
暗がりから白い影がさっと飛び出してきた。
土方が和泉守兼定をとっさに抜き打ち、白い影を両断する。
「おいおい、こりゃあ……」
床に落ちた白い影。その正体は白骨と化した鼠だった。上半身と下半身に分かたれたにも関わらず、バタバタと手足を動かしている。
「あやかしっつっても、雑魚にもほどがあんだろ」
「イエ! 油断しないでくだサイ!」
アーシアの叫んだ瞬間、破れた襖がバタバタと倒れた。
その向こうから姿を現したのは、眼窩の底に黄燐の火を灯す骸骨の群れであった。