三月初め、京の都。梅の蕾がほころび、気の早い鶯が鳴く季節。残雪もすっかりほどけ、身にしみるようだった寒さも和らいでいる。温かい日差しが降り注ぐ中、気の早い鶯がホーホケキョと暢気に囀っていた。
例年であれば、桃の節句に華やぐ乙女たちが笑いながら闊歩して、街並みに彩りを添える季節でもある。例年であれば、だが。
沖田たちが江戸を出立し、京に戻ったのがこの頃である。辟易する寒さが過ぎたことに初めは喜んでいた沖田だが、町に漂う雰囲気がどこか陰鬱に沈んでいる。何かあったのだろうか。自然急ぎ足になって市中を抜け、一行はそそくさと新選組屯所に帰った。
八木邸の前では近在の百姓の子どもたちが無邪気に遊んでおり、少しほっとする。あの暗い雰囲気は洛中のみなのだろうか。世の政情は引き続き不安定だ。公家や武家が感じているそれに、洛中の町人が影響されているのかもしれない。
「若先生、ただいま戻りました」
とはいえ、あれこれ考える前にやることがある。
近藤の居室を訪れ、土方やアーシアと並んで帰還の挨拶をした。
「よく帰った。道中つつがなく、とはいかなかったようだな」
近藤のギョロ目が眇められ、沖田の左肩に注いだ。
この数日は痛むこともなくかばう仕草もしていないはずだが、幼い頃から沖田の剣の師であった近藤の目はやはりごまかせない。横浜で左肩を銃弾に撃ち抜かれたことを素直に報告する。
「痛かったか」
「そりゃもう。と言いたいところですけど、あのときは夢中でよくわからなかったですね。かえって傷を縫うときの方が痛かったくらいで。あと次の日からは焼けた火箸を突っ込まれてるみたいにじりじり痛みました」
「そうか。痛み止めの備蓄がいるな」
どこかズレた問答に見えるかもしれないが、近藤としては至って真面目である。痛みは動きを鈍らせる。判断を鈍らせる。恐怖を呼び、勇気を鈍らせる。知らぬ痛みとはどんなものか、剣客として、剣客を率いる将として知っておきたかったのだ。
「隊士の方は?」今度は土方に視線を向ける。
「残念ながら空振りだ。じいさんが帰ってこねえから試衛館から引っ張るわけにもいかねえし、新徴組の方でも人手が足りねえようでな」
今回の江戸行きには新選組の隊士募集という目的があったが、それは叶えられなかった。志願者自体はいたのだが、いま土方が口にした通り
「わかった」
土方の報告に、近藤はただ頷く。
新徴組組頭、沖田林太郎は近藤の兄弟子でもあるのだ。その窮状に我意を通すのは近藤にとっても本意ではない。また新徴組の活躍は天然理心流の剣名を高めることにもつながろう。
「それで近藤さん、あんたはどうだったんだい? こっちも色々騒がしかったんじゃねえのか。オレがいなくて大丈夫だったかい?」
土方の言葉は冗談めかしているが、真摯な心配の響きが籠もっていた。
よく見れば近藤の頬が少しやつれている。王将を逆さまにしたような角張った顔が、やすりで削ったみたいに摩耗していた。
「町の様子もなんだか暗かったデス。それに、かすかに瘴気が漂っていマシタ」
アーシアの言葉に近藤の眉がぴくりと吊り上がる。
「やはりか。近頃妖怪が出る」
「妖怪? 坂本龍馬の手先ですか?」
沖田が尋ねると、今度は首を横に振った。
「そうではないらしい。いや、坂本龍馬の影響ではあるそうなのだが、やつらの妖気に当てられて活性化したのだとか、星辰の乱れが何だとかいう話でな」
近藤にしては珍しく歯切れが悪い。沖田が怪訝に思ったときだった。
「ほーほっほ。麻呂をさておき下賤の
襖を開けて姿を表したのは、烏帽子をかぶった肥満体の男だった。不健康に白い肌。脂肪をたっぷり蓄えた顎を揺らしながら、金箔押しのセンスで口元を隠して「ほほほ」と笑っている。
「これ、近藤。麻呂が誰かを教えてたもれ」
「はっ。
突然現れた公家風の男に、近藤は向き直って頭を下げた。
沖田と土方もそれに倣って礼を正すが、何が何やらわからない。どうして新選組の屯所に官位持ちの公家などがいるのだろう。ちらりと近藤を見ると、その横顔は苦々しげだ。近藤のこんな表情は芹沢が横暴を極めていた頃にしか見たことがない。
(芹沢さん並みの厄介者ってことか……)
沖田は政治が苦手だが、雰囲気くらいは感じ取れる。どうやらこの人物は新選組にとって歓迎せざる客らしい。
加州清光に伸びかけた手を、土方に目顔で止められた。ほとんど無意識のことだった。邪魔するならば斬ればいい。そんな思考がもはや本能になりかけていたことに気が付き苦笑してしまう。
「そこな二人、表を上げるでおじゃる」
扇子で指され、沖田と土方はしぶしぶ顔を上げる。
「ほう、東夷にしては整った顔をしているな。これならば公家屋敷に入れても、なんとか目汚しにはならぬな。うむ、決めたでおじゃる。お主ら二人、今宵の退魔行に共をせい」
「は?」
唐突な申し付けに、沖田は思わず聞き返してしまう。
自分は新選組の、近藤勇の剣だ。こいつは何を言っている。お前には俺を振るう権利などない。
滲んだ殺気に圧されたのだろう。油洞院の顔が青ざめ、「ひっ」と息を漏らして尻餅をついた。餅が潰れたみたいだ、と沖田は思う。
「総司」
近藤に小声で窘められ、沖田は怒りを飲み込んだ。
「す、裾がささくれに引っかかってしもうたわ。これだから下賤の屋敷は好かぬでおじゃる!」
油洞院は誰ともつかぬ言い訳をつぶやきながらよろよろと立ち上がった。下賤の沖田を恐れたなど、彼の中ではあってはならぬことなのだろう。
「あのー、タイマギョウってなんでデショウカ?」
そんな剣呑な雰囲気を破ったのはアーシアの暢気な声だった。
油洞院の顔が忌々しげに歪んだあと、それからよいことを思いついたとばかりににぃと醜い笑みを浮かべた。
「忘れておった。お前が伴天連の聖女だとか調子に乗っておる
「いいんデスカ! ありがとうございマス!」
アーシアの無邪気な声に、油洞院から笑みが消え、代わりに苦虫を潰したような表情が浮かんだ。
その様子に、沖田は少しだけ胸がすく思いがしたのだった。