目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第69話信長、策を提案する

「桂……いや、木戸よ。それは言うが易し行なうが難しだぞ」

「ふうん。天下統一よりも、ですか?」

「……挑発しているのなら効果的だな」


 次第に険悪な空気になってきている。

 それを払拭するように――大久保が不思議そうに訊ねた。


「そこの少年は不思議な恰好をしているね。いったい誰なのかな?」


 今更訊くのはエムシに興味がなかったゆえだ。

 しかし話題を逸らすことで、大久保なりに信長と敵対したくないという気持ちの表したかったのだ。


「えっと、俺はエムシだ。アイヌの民だ」

「アイヌ……ああ、北海道の民族か。織田さん、どうして彼をここに?」


 信長は「必要だから連れてきた」と鼻を鳴らした。


「必要? 文明を知らぬアイヌの民を連れてどうするつもりですか?」


 失礼極まりない木戸の発言にエムシは「なんだと!」と立ち上がった。

 しかし木戸のほうはきょとんとしている。ありのままの事実を言ったと思っているのだろう。


「アイヌの民を馬鹿にしているのか!」

「……逆に問いますが、どうして馬鹿にしていると思ったのですか?」

「そ、それは――」

「文明を知らぬ、という言葉に引っかかったと思いますが、別段、君は文明を頼る必要も義務もないんでしょう?」


 木戸は相変わらずどうでも良さそうに話しているが、エムシは動揺している。

 全身から汗を吹き出しているのは、京の都が暑いからではない。


「アイヌの民は文明を知らずとも誇り高く生きている……それならばむしろ、文明に頼らず生きることは立派なことだと思うのではないですか?」

「…………」

「エムシくん。君は――織田さんに感化されていませんか? 自分でも知らないうちに」


 否定できないとエムシは思った。

 次第に過呼吸になっていく。


「どうやら、木戸くんの言うとおりみたいだね」


 大久保もまた、エムシの心の内が分かったようだった。

 だから怪しげに――少年を揺さぶる。


「エムシくん。君は西洋文化をアイヌの民に取り入れるべきだと考えている。織田さんについてきたのもそれが大きな理由さ。自分のためか家族のためか、はたまた仲間のためか知らないけれど、今のアイヌの民の生き方に疑問を持っているんじゃないか?」

「そ、そんなこと――」

「私の言葉に何も感じないのなら、それはそれで構わない。だけどね、ほんの少しでも思い当たるのであれば――」


 大久保が言い終わる前に「やめんか二人して」と信長が止めた。

 エムシの肩に手を置いて宥めている。

 次第に少年の心は落ち着いていった。


「大人二人が子供をからかうとは。そこまでおぬしらは暇だったのか?」

「いえ。ただ織田さんがそう言って欲しそうだったので」


 しれっと木戸が言うものなので、信長は「戦国乱世に生まれなくて良かったな」とあからさまに嫌な顔をする。


「おぬしらが生まれていたら、もっと長引いたかもしれぬな」

「過分な評価、痛み入るよ」


 大久保は「話は以上だ」と退席を促した。


「これから医者のところに行かないとね。木戸くんも多忙なのだ」

「そうかい。なら儂はこれから陸軍省に行ってくる……伊藤、案内しろ」


 信長は杖を突きながら執務室を後にする。

 伊藤も出た後、エムシは大久保と木戸に「政府の人間は、恐ろしいな」と言う。


「あんたらみたいな和人がごろごろいるのか?」

「いや。西郷を含めて三人しかいないよ。あとは小粒の政治家もどきだ」

「僕は伊藤くんに期待していますけどね」



◆◇◆◇



 薩摩藩邸跡に建てられた陸軍省に訪れた信長はずいぶんと変わっとるなあと思った。

 内務省と比べて西洋風ではなく日本家屋そのものだった。

 エムシも物珍しそうに見ていた。

 伊藤とは陸軍省前で別れた。なんでも政府の仕事があるらしい。出るころには宿へ案内する者を寄越すと言っていた。


「おー、信長どん。久しぶりでごわす」


 陸軍大将である西郷隆盛は鷹揚に信長を出迎えた。

 和服を着て、執務室の前で待っていた彼に「礼儀正しいな」と信長は笑った。


「以前、会いに来たときはそんな態度じゃなかっただろ」

「あんときはおいの命を狙う者が多かった。まあどうぞ中へ」


 執務室のふすまを開けると、大きな机が置かれている以外は日本式だ。

 掛け軸や花まで飾られている。

 西郷は席に着くなり「そちらの少年は?」とエムシを示す。


「あ、えっと。エムシだ」

「エムシ……アイヌの民ですか?」

「よく分かったな。そのとおりだ」


 信長は「儂にアイヌの言葉を教えてくれる」と簡単に紹介した。


「そうか。よろしくな、エムシ。俺は西郷隆盛という」

「……さっきの連中と違って、あんた優しいんだな」


 西郷は目を丸くして「さっきの連中?」と首を傾げた。


「先ほど、大久保と木戸に会ってきたわい」

「なるほど。俺の説得を頼まれたようですね」

「なんとか妥協できぬか?」


 西郷はにべもなく「無理でごわすな」と断った。


「あんたもよく知る土方どんのおかげで陸軍は強くなった。今ならば朝鮮を容易く取れもうす」

「それほどまで強兵を成しているのか?」

「認めたくありもうせんが、士族全体に不満が溜まっております。武士という身分を四民平等で無くされた彼らは生計を立てられぬのです」

「身分に胡坐をかいたせいだろ」

「厳しいことを言う……このままでは戦が起きます。俺が扇動しなくとも、内乱が各地で発生します。それに俺を頭に担いで大戦しようという輩もいます」


 信長は顎を触りながら「それは困るのう」と考え込んだ。


「おぬしは断らんだろ? 士族のことを考えて、止めようと動く……結果として大戦の総大将だ」

「信長どんもそう考えますか」

「しかしだな。おぬしは朝鮮を取れるというが……儂はそう思えんのだ」

「どういう意味ですか?」


 西郷は姿勢を正した。

 自身の考えを否定されたからではない。

 信長の助言を聞こうとしているのだ。


「戦をするには金がかかる。いわゆる戦費だ。さらに言えば経済基盤がしっかりしていないうちに戦をすればいずれほころびが生まれる」

「そいは分かっております」

「儂の話になるが、尾張国は津島があるゆえ莫大な銭を産んでいた。その銭を使って兵を雇って常備兵とした。他の大名が戦のできぬ農繁期に攻め入ることで勝ってきた」

「それが天下布武の仕組みですか」

「しかし今の時代は違う。農兵ではなく専門の兵がある。だからこそ尚更経済基盤をしっかりしなくてはならんのだ」


 西郷は腕組みをして「今の士族はそんな悠長なことを考えておられぬのです」と告げた。


「明日の飯が食えるかどうかの瀬戸際なんです。政府が助けるのも限界がありもうす」

「分からんでもないが……」


 するとエムシが「どうして、人は争うんだ?」と不思議そうに訊ねる。

 二人はエムシの言葉を待った。


「俺は小さな村の出だ。だけどみんなが協力して生きている。そして俺は世界の広さを知った。エドやキョウは俺の村よりも広い。だったら分け合って生きていけばいい」

「エムシどん。あんたの気持ちはよう分かった。でもな、それは無視な話だ」


 エムシの話は幼稚だと一蹴することもできた。

 しかし西郷はこの場で発言したエムシの勇気に報いたいと思った。


「世界は広い。それは認めよう。でも――人はそれ以上に多い。これからもっと多くなるだろう。分け合う行為は尊い。しかしいずれ奪い合うことになる」

「どうして?」

「それこそが人間の本質だ。アイヌの民には長がいるか?」

「うん。族長がいる」

「分け合って生きられるのならば、族長はいらん。何かしらの揉め事が発生するから……権威が必要となるのだ」

「そんなこと――」


 エムシは否定しようと思ったが、できない自分がいることに愕然とした。

 己がどれだけ小さな世界にいたと分からされたのだ。


「ならば……士族を北海道にくれぬか?」


 信長の提案に西郷は「北海道に、ですか?」と不思議そうな顔になる。


「ああ。北海道はおぬしが思うよりも広い。土地が余っているのだ」

「それは分かりますが、どうやって生きていけばいいのですか? 仕事があるのですか?」

「ふひひひ。それを儂たちが作ろうというのだ」


 にやにやと笑う信長は「漢や明では土地を開墾しながら兵士としての訓練をしていた」と説明する。


「いわゆる屯田兵とんでんへいだ。士族に仕事を与え、北海道も豊かになる。さらに北方の国、ロシアの備えになる」

「なるほど……」


 西郷は信長とエムシの顔を交互に見た。

 自信満々の信長とどうなるんだろうというエムシの顔。


「いつから考えておりました?」

「伊藤が話を持ってきたときには考えておった。人間、飯さえ食えれば耐えられるものだ」

「…………」

「それに新選組もいる。屯田兵の雛型はできておるぞ」


 西郷は腕組みをきつくした。


「少し、考えさせてほしいでごわす」

「であるか。ま、三日後の御前会議まで時間あるしな」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?