ユフィリアの切り替えの素早さには感心してしまう。
空になったグラスをテーブルの上に置くと、ユフィリアは両手を高く掲げて頭の上で組む。そして「んあぁぁ!」と大きく伸びをした。
「そう。私はきっと、ルグランの《二の腕》が好きだっただけ。彼の《二の腕》に惚れてただけなの。私とした事が、あの男のねちこい口ぶりにいよいよ絆されたって思ってたけど! 実は二の腕にやられただけだったのよ、きっとそう」
ユフィリアはまるで自分自身に呆れるふうにやれやれと首を振る。
横で見ているグレースは苦笑い。
ユフィリアは実際、男性を二の腕の逞しさ・形の良さで判断するところが、あるにはあった。
「ユフィが《男性の筋肉と二の腕フェチ》なのは知ってるけど……」
「だから、そういう事っ! いっそ頭切り替える。イザベラ目当ての当て馬にされたってのは癪に障るけど、そもそもルグランの事なんかこれっぽっちも興味なかった訳だし? それに……」
これっぽっちも、をやたら強調した物言いだ。
泣き出しそうだった表情はどこへやら。今度は悩ましげに眉を顰め、思案に暮れている。
「あのいけすかない黒騎士も、どうにかしなきゃだし」
「ねぇユフィ、あの黒騎士って……」
「うん。勝手に婚約させられちゃったみたい。既成事実を作られたって言うのかな、なんか、そんな感じ?」
顎に指を当てて宙を睨みながら、ユフィリアはまるで他人事のように言う。
「えええ──っ!」
グレースの頭が追いついていない。
「ほら、私って神聖力が微弱すぎるでしょ? だから教会側は早く結婚させたいんだと思う」
特にあのレイモンドがね、とユフィリアはウィンクしながら付け加えた。
「じゃあユフィは、知らない男の人をいきなり婚約者に仕立て上げられたってこと?」
「そういう事みたいね」
──おまえが聖女として無能だからじゃないのか。
不意にレオヴァルトの嫌味な微笑みが浮かんで、ユフィリアはむっ、と唇を尖らせた。
「そう言えば、あの時……」
大聖堂で卒倒し、レオヴァルトに身体を支えられていた時だ。
『ユフィリア。』
自分の名を呼ぶ懐かしい声を、耳の奥で聞いたような気がした。
「第二王子、殿下……?」
思わず口を突いて出た言葉にグレースが首を傾げるのを、「ううん何でもない」とふるふる首を振る。
──グレースにも、言えないけど……っ。
私はきっともう、本気の恋は出来ない。
『ユフィリア、愛してる』
──顔も思い出せないあの人は、あの人の『愛してる』は。
どうして今でも、私の心をこんなにも揺さぶるのだろう?
『まだ言ってない、あなたを愛してるって』
──そう……私はまだ、前世の「恋」を引きずっている。
大切だった
ユフィリアが考え事をしている間に、グレースもどうにか落ち着いたようだった。見れば葡萄ジュースを幸せそうに啜っている。
「……でも、彼。遠目に見ただけだけれど、ワイルドな感じがちょっとかっこよくなかった?」
降って沸いたような《かっこよい》という言葉に、ユフィリアは世界が終わったような声で「グレース……」と反論。
「なに言ってるの、ちゃんと見えてた? ワイルドって言えば聞こえはいいけど、身だしなみに気を配ってないだけでしょう」
「ふふ、魔獣を討伐するのがお役目の黒騎士だもの。身だしなみなんて気を配っていられないのよ」
「グレースは知らないからよ、あの黒騎士のいけすかなさを」
他の聖女たちがレオヴァルトの身なりが見すぼらしいだの穢れているだのと散々ばかにしたものを、グレースは聖母様のような優しさで庇護しようとしている。
そんなグレースに改めて尊敬の眼差しを向けながらも、ユフィリアの見方は懐疑的だ。
「ちょとまって。確かにユフィの《心の病を治す能力》は唯一のものだけれど……そこまでしてユフィひとりの力を増幅させたいって理由がよくわからないわね? それに……ユフィの力を増幅させたところで、ユフィは大聖堂を出て行ってしまうわけでしょう? それじゃ意味がないのだし」
「グレース、それよっ」
突然、雲がかった頭の中に強い風が吹いたようだった。一気に疑問が吹き飛ばされ、視界が冴え渡る。
「なんで黒騎士なのかって思ってたの。でもその理由がわかった気がする。黒騎士は没落貴族だから領地を持たない。あの黒騎士が教会に雇われているとしたら、私と結婚したあともずっと
──結婚したあとも聖都を出られず、レイモンドの支配下に置かれてしまう……!
ユフィリアが来るのを待ち構え、事情も告げずに既成事実を作らせたあの黒騎士は間違いなく教会、つまりはレイモンド卿の差し金だ。
婚約させられてしまったものは、どうしようもない。
けれどさすがに結婚の儀式までユフィリアが知らぬうちに、とはいかないだろう。
「拒否権がないとか言ってたけど。正式な結婚を拒みさえすれば、まだ争うチャンスはあるはずよ? あの黒騎士が教会とどんな契約結んだのか知らないけど、残りの長い人生棒に振るような夫婦生活なんて誰だって望まない。こうなったらとことんクズっぽく振るまって、
テーブルの上に組んだ両手をポキポキと鳴らし、ユフィリアは瞳に炎のような闘志をみなぎらせる。
──ユフィがクズ聖女のレッテルを貼られるのは
なのにユフィったら、クズを加速させようとしてる……っ
「ふっふ」と不適な笑みを浮かべる親友に微笑みを返しながら、グレースは冷や汗を滲ませた。
*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
寝台に腰掛けたレオヴァルトは、窓際に置かれた小さなテーブルを呆けたように見つめていた。
四角い窓辺から差し込むまばゆい朝陽が、殺風景な部屋の隅々までを容赦なく照らし出す。
レオヴァルトは思う。
この強烈な暁光が、暗鬱とした心の影さえも消し去ってくれればいい。
テーブルの上に置かれた騎士服の銀製の装飾が煌めいている。
金属板で繊細に構成された艶やかな肩当てやゴーントリットが、陽光を反射して眩しいほどの光を放っていた。
──こんなもの。
水も食事も、この華美な騎士服も。
教会から与えられるものは全て、レオヴァルトの従者三人の露命の上にある。
水を飲むたび、食事を口にするたび……そしてあの聖女と関わるたびに、レオヴァルトの胸は軋み、救いようのない恐怖と嫌悪感とに悪寒が走るのだ。
──すまなかったな、ゲオルク。弱者を救いたいなど、私が己の力を奢ったばかりに。
『レオヴァルト様ッ、我々のことなど構わずお逃げください!』
彼の豪快で屈託ない笑顔が好きだった。
背中心を切り裂かれながら血走った双眸を見開いて叫んだゲオルクの声を、もう二度と聞くことは出来ない。 ──どこにいるんだ……ケイツビー、ザナンザ。
レイモンド卿に囚われた残りの二人を案じるレオヴァルトは、膝の上で握りしめた拳を射るように睨んだ。
そんなレオヴァルトですら、教会という名の牢獄の中にいる。監視の目を盗んで内部を探ってはいるものの、彼らの居どころは一向に掴めない。
「くそ……ッ」
全ては、あの忌まわしい日。
レイモンド卿を魔獣から救ったことが始まりだった。