それは、生命の樹からはるか遠く、次元をも超えた、とある場所。
空は晴れ、まばらに見える白き雲が、ゆったりとした時の流れを感じさせるよう、穏やかに泳いでいれば。
群青の天から降り注がれる陽の光は、広く壮大な草原を、暖かく包み込む。
木々が生い茂る雑木林では、葉や枝によって遮られた日の光が、木漏れ日となり、地面を照らし。
風が、心地よさを伝えようと、木々の間を柔らかく駆け抜けていけば。
草木の匂いが、いつの日かの懐かしさを想起させるよう、吹き抜ける風に乗り、ほのかに香り立つ。
「う…………うん……?」
そんな恒久な憩いが溢るる空間に。
「あれ……オレ、なんで……」
彼。岩上護は、深い眠りについていた。
「ここ……どこ、だ……?」
目を覚ました彼がいた場所は、針葉樹に囲われた雑木林の中で。
「なんで、オレ……さっきまで…………」
今し方、生命の樹の中にいたはずが、彼が目を開けた途端、そこには全く違った光景が広がっていた。
「――っ! あ、あいつは……マルクトはっ!?」
急いで起き上がり、辺りを見渡すも。
周りには、キムラヌートの姿も、マルクトの姿もなく。
「一体どうなって……それに…………」
周りの木々から己の身体へと視線を移せば、今さっきまで己を縛り上げていた、あの禍々しいツタも消えていて。
――――その時
「マモルちゃん」
「――っ!」
彼の背後から。
「起きた?」
突然、彼を呼ぶ声が聴こえてくれば。
「ユキ……ちゃん?」
彼が振り返った先には。
「よかった。間に合ってくれて」
「ユキちゃん……なんで……」
優しく微笑む、彼女の姿があった。
「マモルちゃん。ちょっと、歩こうか」
「あ、えっ、ちょっと!」
彼女の姿を見た護は、何がなんだか分からずに驚いていたが。
そんな彼に、彼女はそっと近づけば。
そのまま、彼の手を取って。
雑木林の中を、二人で一緒にと、進もうとする。
「なぁ、ユキちゃん……どうして」
手をつなぎ、雑木林の中を歩く二人。
「なぁ、なんでオレ……こんな所で……」
その道中、護は何度も彼女へ話し掛けようとするが。
「大丈夫。マモルちゃん、もうすぐだから」
彼女が詳しく話をしてくれることはなく。ただ、何かは知っている素振りだけは見せながら、前へ前へと、どんどん木々の間を縫って進んでいく。
そうして。
「ほらっ、マモルちゃん。着いたよ」
次に彼女は、護へと声を掛けた時。
雑木林が晴れた、向こうには。
「――っ!! ここって……」
そこは、彼もよく知っている、かつて孤児院の皆と遊んでいた草原が広がっていたのだ。
さらには。
「ほら、マモルちゃん。あそこ見て」
続けて、彼女が指差す方向を見れば。
「あそこって……。――っ!!」
なんと、そこには。
「ど、どう……して…………」
八年前まで。
護とユキ、二人が共に過ごしてきた孤児院が、あの事件が起きる前までの、昔の姿のまま、草原の丘の上に建てられていたのだった。
「なんで……孤児院が……」
建物を見た瞬間、彼の心臓は大きく跳ね上がり。
信じられないと。驚き、目を見開くも。
「さっ、いこっ。マモルちゃん」
茫然と立ち尽くす護に対し、彼女は表情を変えることなく、再び彼の手を取れば、彼を孤児院のほうへと連れて行く。
「(ほんとうに……)」
草原の上をゆっくりと歩く中。
「(あの時のまんまだ……)」
徐々に孤児院へと近づくにつれて。
「(偽物なんかじゃ、ない……)」
彼の眼に映るその建物は、彼の、当時の記憶を呼び覚まし。
とうとう、二人が孤児院の玄関前にまで辿り着いた時。
「…………懐かしいね」
驚く彼の隣に立つ彼女が、当時の思い出に耽るよう、孤児院を見上げ、そう呟く。
「(あぁ…………ァァ……)」
本当に、あの時の孤児院が目の前にあると。
感触を確かめるよう、木製の扉を触りながら。
こうしているうちにも、今にも、孤児院の中からは、あの時の、友や先生たちが、もしかしたら出てきてくれるのではないのかと、そんな淡い幻想を抱いてしまうほどに。
夢中で見入ってしまっていた護だったが。
「ごめんね、マモルちゃん」
突然、傍に居た彼女が彼に謝ると。
「ここからは入れないから…………またちょっと、こっちまで来て」
「え……あ、ちょっと!」
また、彼女は彼の手を引っ張って。
今度は、建物の塀に沿って、時計回りに孤児院の横側へと向かっていこうとする。
「(一体、どうなって……)」
建物をまじまじと見つめていた護は。
移動の最中でも、困惑と、懐かしさ。様々な感情が、頭の中で激しく混在し続けていたが。
「……見て、マモルちゃん」
ある所で。
急に立ち止まった彼女が、孤児院の中を指差せば。
「見てって……。――っ!!!!」
彼は、抱いていた感情全てが吹き飛ぶほどの、衝撃的な光景を目にする。
――――それは
「『あはははっ! まってよ~!』」
「『やったなぁ~っ! そりゃぁ~っ!』」
彼が、孤児院で過ごしてきた間。
「どうしてっ…………」
ずっと、仲良く。幸せに、共に生きてきた友の姿が。
「みんなっ…………!」
一つの教室で、みな仲睦まじく暮らす光景が。
彼の見る世界に、広がっていたのだ。
あの日、殺人鬼に殺されて。
唐突に、永遠に別れてしまった彼らが。
手を伸ばせば、届くほどの距離に。
すぐそこにいると。
「おいっ! みんなぁっ!!」
ほんの一瞬、己の全ての感覚を疑った護だったが。
皆の元気な姿を目にして。
衝動に、駆られてしまい。
「なぁっ! おいっ! みんなってばぁっ!!」
教室にいる友に向かって、大声を上げて。
気付いてもらえるよう、両手を振り上げてしまう。
「『…………っ! あっ! 護~っ!!』」
そうして。
「――っ!!」
己の声に、中にいる友が気付いてくれたと。
そう、彼は思ったのだが。
「…………え?」
次に、彼が目にしたのは。
「『おーいっ! 護~っ!』」
友が呼び返したのは、外にいる自分のほうではなく。
「『おー? なんだなんだぁ?』」
全く、別のほうから現れた、もう一人の自分だったのだ。
「なんで……オレ、が……」
しかも、その姿は。
「『あんま教室ではしゃぎすぎてたら、また先生たちに怒られるぞ~?』」
決して、今の自分ではなく。
「『ははははっ! いや、明日のことでさ~?』」
「『あぁ、さっきも言っていたやつか? まぁ、前もって相談しておけば、先生たちも許してくれるんじゃねぇか?』」
髪の色も、目つきも。
性格も、変わる前の自分の姿で。
もちろん、そこには。
「『マモルちゃん、また危ない事企んでたりしてるの~?』」
もう一人の、ユキの姿もあり。
「『――っ! ちげーよっ! もともとはオレじゃなくて、こいつらがっ!』」
二人のやりとりを囲う皆も含め、にぎやかで、幸せに溢れる空間が。
あまりにも、外から見つめる護の眼に、眩しく映り込むのであって。
「マモルちゃん」
「――っ!」
すると、今度は教室の中ではなく、己をここまで連れてきたほうのユキが、声を掛けてくれば。
「びっくり、させちゃったね」
どこか、申し訳なさそうな顔を浮かべながら。
「実はここは……マモルちゃんの記憶の中の世界なの」
「…………へ?」
ようやくにして、事の顛末について話をし始める。
「オレの……記憶?」
「うん。急になに言い出してるのかって思うかもだけど……。ここは、マモルちゃんが一番、いままで幸せだったって。そう、覚えていた場所だよ」
「そ、そんな……そんなこと……」
「ユキもよくは分からない……けどね、神様と出会ったあの場所で、ユキがマモルちゃんのことを待ってた時に……急に、知らない声が…………ユキをここまで連れてきてくれて。でもね、ここに来た時には、ユキは、何をしたらいいのか。マモルちゃんに、何をしてあげたらいいのか、全部、分かった」
「ユキ、ちゃん…………何を、言って……」
護には、彼女が言っていることの意味が、全く理解できなかった。
しかし、彼女が真っ直ぐに自分の顔を見つめて話す、その表情の。
可憐で、だけど、凛とした顔は、どうしても嘘をついているような、冗談を言っているようになんて、彼には到底思えなく。
「(オレの……中の…………)」
彼女の話を聞いた後、彼女から視線を外した護は、再び孤児院の中の様子を見れば。
「『護もいてくれた大丈夫だなっ!』」
「『いやいやっ! オレでも出来ることは限られているからっ!』」
教室の中にいる過去の自分は、先程から相も変わらず、皆と楽しそうにしていて。
「『えぇ~っ! でも先生たち、マモルが話すときはわりと聞いてくれるじゃん』」
「『だからって、もしお前らが危ないことしようとしたら、それこそオレだって止めるからなっ!?』」
目の前で繰り広げられる会話を聴いているうちに。
「(そうだ…………覚えていることだ)」
彼の中の記憶が、徐々に徐々にと掘り起こされる。
「(全部……知っていることだ)」
どんなことをしたのか。
「(この時だけじゃねぇ……次の日も、また別の日のことも……)」
みんなと、どんな日を過ごしてきたかを。
その時の気持ち、暖かさの、その全てを。
――――暫くして
「ねぇ、マモルちゃん」
教室の中を静かに見つめ続けていた彼に、彼女がまた声を掛けると。
「ちょっと、別のとこにいこうか」
彼の手をまた掴み、次なる場所へと連れ出していく。
孤児院から離れ、暫く歩いた先。
再び雑木林へと戻っていった二人は、孤児院がある方向とは反対側へ、奥へ奥へと進んでいき。
気付けば空も、群青から茜色へと移り変わり。
「……着いたよ」
そして、林の中でようやく彼女が足を止めれば。
「……ユキちゃん、ここって」
彼らの前には、雑木林に囲われた小さな池がポツリとあって。
「そう、ユキが一番好きだった場所」
その池の上には、沢山の、桃色に咲く蓮華の花が咲いていたのだった。
「ここも、懐かしいね」
彼女は、池の傍へと近づいて。
池の水を覗き込むようにしゃがめば。
目の前に咲く、小さな蓮華の花びらを、一つ一つ細い指でなぞり。
「ありがとね、マモルちゃん」
「…………え?」
「ユキが好きだった花、覚えていてくれたんだよね?」
徐に、彼に向けて感謝を告げる。
「見ていたよ。マモルちゃんが、あいつと闘っていたところ」
そして、彼女が次に話を切り出したのは、先程までの”活動の間”での出来事で。
「神様が言っていた、マモルちゃんが心の中で抱いていた想い、マモルちゃんが手に持っていた楯を見てね……あぁ、嬉しいなぁって……ユキ、思った」
依然、彼女は護のほう向くことはなく、目の前で小さく揺れる蓮華の花びらを見つめながら、穏やかな口調で話すのだが。
「ねぇ、マモルちゃん」
そんな彼女は、突拍子もなく。
「一つ、聞いてもいいかな」
あることを、彼に尋ねようとする。
「マモルちゃん、もしあいつをやっつけた後は……どうやって生きていくつもりだった?」
「…………え」
それは、彼の未来についての話で。
「そ、それは……」
「ユキは知ってる。あの日から、孤児院が無くなって、マモルちゃんが捕まって、独りぼっちになってから…………マモルちゃんはずっと、あいつに復讐しようと考え続けていたこと」
「――っ! それは、だって……!」
「マモルちゃんは、本当に、昔から優しいから……殺されてしまったみんなのことを想って……みんなの仇を討とうとして、ずっと……頑張ってくれた」
「だって………だって……………」
「だけどね、マモルちゃん。もし、あいつを倒したとしても……今のマモルちゃんのままなら、ずっと独りぼっちのままだよ」
「………………」
彼女の口調は決して変わることはなく。
決して、彼に対して怒っているわけでも、不満があるわけでもなく。
だが、その言葉一つ一つは、重く、彼女のこれまでの、彼の傍に居続けた分の。
沢山の想いで綴られて、出てきたものであって。
「ねぇ、マモルちゃん」
「――っ!」
次に振り返った彼女の、その眼からは。
「お願いだから……もう、昔のようなマモルちゃんに戻っても、いいんだよ……?」
一筋の涙が、流れていた。
「ユ、ユキ……ちゃん…………」
そんな彼女の表情を見て。
彼は驚いて、思わず掛ける失ってしまう。
「ユキはね、ずっと。傍でマモルちゃんのことを見てきた。何度も何度も、声を掛けようとした。マモルちゃんに、触れようともした。だけど、それは全部叶わなくて……それでもいつか、マモルちゃんに、届くようにって。ずっと、願ってきた……マモルちゃんが、元気になってくれるなら……ユキの姿を見て、また、前を向いてくれるのならって……」
「………………」
「ユキの姿が見せられるのなら、マモルちゃんは独りぼっちじゃないよって伝えられる。一緒に頑張ろうねって、励ますことも出来る。だけど……もしそれが出来たとしてもね……。それでもずっとは……一緒にはいられないんだよ……」
「………………………」
「ねぇ、マモルちゃん。どうか、あの時みたいに……いま、マモルちゃんと関わってくれる人たちに、手を差し伸べてくれる人に……どうか、優しくあって…………ね?」
積年の、彼女の想いが。
彼へ向けて、とめどなく溢れ出て。
涙によって、目の前が見えなくなるほどにぼやけてしまうも。
彼女はそれでも、彼の顔を真っ直ぐに見て。
その想いが、彼に届くようにと、そう願いを込めて。
「ユキ、ちゃん……」
――――それでも
「……いやだよ……オレ、できねぇよ……」
彼の胸の中に巣喰う憎悪は、彼女の願いとは裏腹に、そう簡単に取り除かれることはなかった。
「あの時、みんな殺されちまって……大切なもの全部を奪われたっ!!!!!!」
彼もまた、彼女と同じように、長き年月に渡って苦しみ続けてきた。
「全部、ぜんぶ……あいつが奪っていったのにっ!!!! 誰もオレの言うことを信じようとはしなかったっ!!!!!!!!」
彼を庇ってくれる者も、彼を味方してくれる者も誰一人としていなかった。
「オレのことを見た奴は全員っ!!!!!! オレのことを悪魔だ殺人鬼だって言い放ってきてっ!!!!!!!!!!!!」
決して、それが事実でも、本当の話でもないのに。
「みんなっ!! オレがやったんだってっ!!!! 孤児院のみんなを殺したんだってっ!!!!!!」
数々の暴言や、心のない言葉や仕打ちを受けてきた。
「何度も何度も否定したっ!!!! オレじゃないっ! オレがやったんじゃないっ!! でもっ!!!! 誰もっ!!!!!! 一度も聞いてなんかくれなかったっ!!!!!!!!」
他人に優しくされなかった彼は、いつしか他人を信じる心も、優しくする心も失ってしまった。
「こんな腐った世の中で……いまさら誰も、信じられるわけないだろっ!!!!!!!!!!」
そんな、彼の。
これまでの、誰にも言えなかった想いが、堰を切って溢れ出し。
「あぁぁっ…………ァァァ……」
彼の泣き声が。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
虚しく、自然の中に木霊していった。
「…………マモルちゃん」
そんな、彼へ。
「ありがとう」
子どものように、天を仰いで泣きじゃくる彼へ。
彼女は、そっと近づいて。
「もう、いいんだよ」
彼を、優しく抱きしめる。
「ユキたちの為に、怒ってくれてありがとう」
「オレは……あの時……誰も助けきれなかった……」
「……いいんだよ」
「ずっと……ずっとあいつを殺したくて……仕方なかった……」
「……うん、知ってるよ」
「…………ユキちゃん……」
――――お願いだから、どこにもいかないでくれよ
泣きながら顔を上げ、抱きしめてくれる彼女を見た護は、思わずそう言葉にしそうになった。
それが叶うのならば、どんなによかったかと。
けれど、彼女は死んでしまった。
いまさらその事実は、彼の中で否定することは出来なくて。
「…………ユキちゃん」
けれど、せめて。
「オレ……オレ…………」
これだけは、言わせてくれと。
「あの時みたいに……みんなと一緒にいたいよ……」
「………………」
「もう、独りぼっちは……いやだよ…………」
「…………うん、そうだね」
彼女は、ずっと知っていた。
彼が捕まり、施設で過ごし始めた日から。
彼が、夜な夜な一人で泣いていたことを。
独りぼっちになってしまった彼を、助けてくれる人は誰もいなかったから。
こうしていま、胸の中で泣きじゃくっている彼を、抱きしめているように。
彼女は、その触れられない手で、彼の背中を、毎日ずっと擦ってあげていた。
「ねぇ、マモルちゃん」
けれど。今の彼は一人ではないと。
「大丈夫だよ」
彼をあの日、エレマ部隊へと拾ってくれた優しいおじさんがいる。
「今なら、マモルちゃんに優しくしてくれる人たちがいっぱいいる」
一緒に戦ってくれる人たちが、周りにいる。
「マモルちゃんが、優しくしてあげたらきっと……」
彼女はそれを、知っている。
「また、あの時みたいに、みんながマモルちゃんのことを慕ってくれるから」
何故なら、彼女はずっと、彼の傍で見てきたのだから。
「大丈夫、マモルちゃんなら出来るよ」
「……ユキちゃん…………」
「マモルちゃんを、この世で一番信じてるユキが言うんだから」
「…………あぁ」
涙に濡れる彼の頬を、小さな手で拭う彼女は。
「マモルちゃんの、素敵な未来をユキに……みんなに見せてね」
「……………………あぁ」
満面の笑みを、彼に見せる。
「さぁ、マモルちゃん」
そうして、彼女は立ち上がると。
「そろそろ行こう」
彼に向けて、手を差し伸べる。
「……うん」
彼女の笑顔を見た彼も、思わず顔を緩めては。
「ありがとう」
彼女に笑顔を見せ、その手をしっかりと掴み取る。
――――そして
「出口まで、案内するね」
「あぁ、頼む」
そのまま二人、手を繋ぎ合わせたまま。
足踏み揃え、元の世界へと戻っていくのだった。