ずっとずっと、フィローゼは。
暗くて冷たいお部屋のなかに閉じ込められていた。
硬い床。
半分だけ壊れた窓。
ホコリが沢山ついた、破れたカーテン。
そこに、フカフカで暖かいお布団なんて無くて。
お着替えもさせてくれなかった、お風呂にも入らせてもらえなかった。
みんな、フィローゼのことをイジメて。
みんな、フィローゼのことを指さして笑っていた。
一日に、二回。ほんの少しのお食事だけが、乱暴に置かれていって。
まるでそれは、誰かが食べ残したもののようで。
温かくもなかった。
美味しくなんてなかった。
お口に運ぶたびに、お父様とお母様と一緒に食べたご飯を思い出して。
その度に、お家に帰してくださいって。泣いて泣いて。何度もお願いしたけれど。
誰も、フィローゼのことを助けてくれる人はいなくて。
フィローゼが泣くたびに、うるさいって。
そう言って、フィローゼの頬を乱暴につねったり、叩いてきたりした。
フィローゼのことを虐めて満足したら、その人たちはまたどこかへと消えていって。
そうして、フィローゼはまた一人ぼっちになったあとに。
静かに、声が漏れないようにずっと、ずっと。お部屋のなかで泣き続けました。
いまが朝なのか、昼なのか。それとも夜なのかさえ、分からない。
ただ、ただ……ほんの少し、眠くなってきた頃に。
あの人が。あの怖い人が、フィローゼのことを無理やりお部屋から引っ張って連れ出そうとします。
また、フィローゼの髪を引っ張ろうとしてきて。
また、フィローゼの身体のあちこちを殴ろうとして。
また、フィローゼのお洋服が破かれそうになって。
また……したくないことを。
嫌なことを、フィローゼにさせようとして。
フィローゼには、分かりません。
お母様から教わってないから、出来ません。
お父様からのお話でも聞いたことがないから知らないです。
だから、フィローゼにはどうしたらいいか、わからないのです。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
お願いですから、もう怒鳴らないでください。
赦してください、許してください。
もう、お願いですから。
フィローゼを、ここからお家に帰してください…………。
* * *
ファトゥナ・セレネ子爵家様が王都へと到着されてから、暫く後のことでございます。
「ファトゥナ・セレネ子爵様。ここまで御足労いただき誠にありがとうございます。こちら、此度の来賓用別邸となります」
「いやはや、こちらこそ。馬車を預けた後もわざわざ、頼みに応えて王都中の見学から物色まで案内してくれてありがとう」
「とんでもございません。お楽しみいただけて幸いです。馬車に乗せていらした荷物は、先んじて各お部屋宛へと届けさせていただきましたので、どうぞ明日開催の舞踏会まで、ごゆっくりなさってください」
王都城門前より子爵家様の付き添いを務めていた若き剣士は、子爵家様が乗られていた馬車を厩舎へと預けたのち、当主様の御要望もあり一度。そこから真っすぐにご宿泊用の別邸へと向かわずに、生誕祭が行われる王都全体の様子を案内されておりました。
「それにしても、城門前で並んでいた時から思ってはいたのだが、今回の祝祭は人も物流も、全てが以前の戴冠式より比べものにならないほどに賑わって……」
「えぇ。第一王女様がお生まれになる直前には、我々王国軍にも生誕祭を行う計画については伝達されましたが、いざ始まってみるや、ここまで多くの方々から祝福をいただくことになるとは私としても想定外でした」
「いやはや、まさにそうでしょうな。聞くところ、此度の祝祭には各国の宰相も既にいらしてらっしゃるとか…………。いかんいかん、もう既に明日の舞踏会に向けて気負いし始めてしまう……」
ひとしきり王都全体を歩き回られたのち、ご宿泊される別邸前にて話される当主様と若き剣士でしたが、お二人の顔色を見るとやや疲れたご様相が伺えまして。
それもそうでございましょう。
王国から発行された此度の招待状は数知れず。
期日として本日は前夜祭と当たる日になりますが、それでも既に王都全体を覆い尽くすほどの人が各所より来訪されまして、なんと来賓用の別邸を除いた宿屋はほとんどが満室となり。それでも王都へ滞在を試みようと、城門外周辺で仮設の幕屋を張る者も現れるほどの大盛況で。
どこへと行こうと人だらけ。歩く道も見えなければ、奥を見渡してもどこに何があるのやらと。進む流れに逆らうことすら出来ずして。ただただ前へ前へと慣性のみで動かされ……それこそ、フィローゼ嬢様のように小さき者が逸れてしまえば、そこから再び見つけて出会うのは大変な苦労がかかるほどにございます。
そんななか、大の大人が小一時間ほど歩いただけでも少々気が滅入いってしまうわけで。
――――当然
「モグモグ……美味しっ……美味しっ……」
当然、フィローゼ嬢様は今頃、脚が疲れたと言い張りクタクタとなっては。
「何度か目が回りそうになったが……それでも、こうして家族三人揃って王都中を見ることができたのは、本当にいい思い出になった。なぁフィローゼッ――」
きっと、夫人様に抱かれお休みに…………。
「――お父様っ! これ本当にどれも美味しいですわっ!!」
…………そんなことは、ございませんでしたね。
「あ……あぁ。それは、よかった……」
愛娘に此度の旅路について感想を伺おうと、当主様が後ろを振り返った先。
そこには、片手には香ばしい匂いが立つ大きな骨付きの肉。もう片手にはフワリと、触ってしまっただけで解けてしまいそうなほどに柔らかな綿のお菓子を握りしめる姿のフィローゼ嬢様が、ウキウキとしたご様子で立っており。
「美味しっ……モグモグッ……美味しっ」
両の頬めいっぱいに食べ比べるその姿は、まるで木の実を頬張る
「あらあらっ。すっかりお祭り気分に染まっちゃって、まぁ」
疲れなんて、つゆ知らず。
今からでもまだまだ全然と。もう一周は王都中を走り回れると言わんばかりの元気さを出すフィローゼ嬢様に対し、当主様も些か驚いた表情で見つめていると、別邸の中からは、夫人様も微笑ましくフィローゼ嬢様の御様子を見守られております。
「さぁ、フィローゼ」
既に、此度の生誕祭を存分に楽しまれていらっしゃるフィローゼ嬢様ですが。
「……ほらっ、フィローゼッ。御手を洗ったらお着替えして、明日の舞踏会に向けた最後の練習を行いますよ」
「あっ! はいっ、お母様っ!」
ですが、大本命となる催しは、明日へと控えておられます。
「わぁ~~っ! 御屋敷の中ひろーいっ!」
これまでずっと、心待ちにしていた舞踏会。
遂に、ついに願い叶うその時が。刻一刻と近づいている、この瞬間に。
「…………それじゃ」
娘の晴れ舞台の為ならばと。
時間の許される限りを尽くし、細心の準備を進めて参られます――。
「ドレスのことは、よろしくね」
揚々と、別邸の中へ入っていく娘の背中を見つめては、すぐに玄関先に立つ当主様へと合図を送り出される夫人様。
「あぁ、任せなさい」
それを受けた当主様は、愛する娘に気づかれないよう小さな声で、夫人様へと返事をし。
「それじゃ、急いで行ってくる」
「えぇ、お願いします」
そうして、すぐさま別邸から離れれば。ここまで案内を務められていた若き剣士にも別れを告げ、再び王都の中へと駆け戻られます。
「…………あれっ? お父様は?」
もちろん、別邸へと入ってくる当主様の姿がないことに、暫くしてから気づかれたフィローゼ嬢様は、傍にいた夫人様へと尋ねられますが。
「えっ? あ、お父様はちょっと……お仕事でお世話になっている方々に挨拶されてから戻ってくるって」
階段を上り際。訊かれた夫人様は慌てず自然な微笑みを返したら、巧みに方便を言い聞かせ。
「さっ、それよりこのドレスにお着替えして。これまでのおさらい、全部やりますよ」
そして続けざまに、御手を軽く二度叩き。
これまで着慣れた御下がりのドレスを手に持ち掲げながら、愛娘を御部屋へと連れ込み着付けへと。
試案に気づかれないよう、再び当主様が王都から別邸へと戻られるその間まで。
「(…………喜んでくれると、いいですね)」
夫人様も楽しみにされながら、出来る限りのことを施し賜われるのです。