………………来るな。
『…………もーいいかい?』
……………………こっちへ来るな。
『…………もう……いいかい?』
………………来るな、来るな来るなくるなクルナッ。
『…………ふふっ』
…………いきを、するな…………おとを、たてるな……。
『もォ、いイかィ?』
…………お願い、だからっ。
* * *
「はぁ…………はぁ……」
晦冥の、奥のさらに奥底より。
「ふっ……はぁっ……はぁっ」
響き木霊す怪異の声。
「…………お願い、だからっ」
聴く者全てを、恐怖へと陥れる死神の音に耳を塞ぎ。
息を殺し、じっと。身を潜め続けていた左雲彩楓。
――わたしが代わりに、出口を探しに行くから
重症を負ったアリーの傍にザフィロを残し。
去り際の、引き留めようとされた言葉も振り切って。
「(気配が遠のいたらすぐ、遠のいたらすぐにっ……!)」
永劫に遺され眠る機械たちが囲む空間の壁際、その物陰で隠れては。
彩楓たちを探し愉しむアグゼデュスの、見えざる姿その気配に全神経を研ぎ澄ませて。
「………………いまだっ」
辺りが静かになったタイミングを狙い、生命の樹内からの脱出を能う出口を探すため、素早く身を起こし、忍び駆け出していく――。
「はっ……はっ……!」
意を決し、未だ見つからぬ出口を求めて突き進む彼女の目の前に広がるは。
どこまでも、どこまでも。
隙間なく敷き詰められた液晶パネルの壁に囲われた大きな通路に、左右それぞれへと添って幾つもの分かれ道が伸びていて。
「ここっ…………ないっ。はぁっ……つぎっ! つぎは、ここっ……!」
その一つ一つをしらみつぶしに探索しようと。手前より右へ左へ順番に、小路へと入ってはその先へと。
扉や別の場所へと繋がるものは無いかと目を凝らし、何も無かったとしても、落胆することも悲哀することもなく、決して立ち止まろうとせずに。
「つぎだっ……! つぎの道だっ……!」
休むことなく来た道を戻り、再び大通りへと出たならば。探索を終えた小路の一つ先にまた分かれている別の小路へと向かい。
中へと入っては同じように出口となりそうな箇所を探していく。
そうして。
「よしっ、ここもダメだなっ……! なら次へっ……」
二つ三つと、分かれる小路の中を調べ尽くしたその時。
『…………もーいーかい?』
また。
「――っ!!」
またしても、あの悍ましい声が彼女の耳へと届いたならば。
「(まずいっ……!)」
彩楓はすぐに、近くに設置された機械の裏へと雪崩れるように駆け込んで。
『もーいいかい? もーいいかいっ?』
骨の髄にまで伝わる殺気と、冷酷な気配が過ぎ去っていくその瞬間まで。
「(来るな来るなくるなクルナッ…………!)」
自身の鼻と口を両手で抑え、微かな音さえ出さぬよう、聴かれないようにと躰を震わせながら。
『…………もゥ、いィかァーイ?』
想像も絶する緊張感漂うこの瞬間を。
一瞬でも気を抜けば、思わず発狂し叫びそうになりそうなこの瞬間を。
彼女は懸命に、耐えて、耐えて耐え忍ぶ。
「はっ……はっ……はぁっ……!」
気配が去って、しばらく経ち。
「い……行った、か…………?」
ゆっくりと、恐る恐る機械の裏から顔だけを覗かせ辺りを確認する彩楓。
息は絶え絶えと、苦しい胸を押さえつけながら。空間の左右を、上を隈なく見渡しては。己が持つ五感全てを使い、黒薔薇の怪異の気配とその姿を探そうとし。
「…………はぁっ!」
そして、完全に周囲から怪異の気配が消え去ったことを確信したらば。
「…………よし、またつぎだっ……」
逸る心の鼓動を無理やり圧し留め、吐き気とめまいに襲われながらも、ここから生き延びるための出口を探し求めていく。
決して見つかってはいけない。
決して、悟られてはいけない。
決して、捕まってはいけない――。
一つのミスが、命取りへと。終わりへと直結する。
これ以上なく、慎重に。
地の果てまでも、この世の最果てまでも。
ヤツは、どこまで行っても追いかけてくるだろうと。
己が出口を見つける前に。
残したアリーにザフィロの二人が、あの黒薔薇の怪異に見つかってしまってもいけないと。
アリーの出血のことも、彩楓の肩へと重くおもく圧し掛かり。
ここから脱出するヒントや術など一つも持ち合わせてなどいない。
誰が、どう見ても。誰が、どう挑んだとしても。
無謀も無謀。
この無理難題な状況、それでも。
「…………いこう、急ぐんだっ」
それでも彼女は、このまま何もしなければただ死ぬ運命を辿るだけだと。
頭の中に巣喰おうとする様々な濁色な念を必死に振り払い。
成し遂げること不可能に近しいこの困難へと。
己を奮い立たせて前のみを見て突き進もうとする。
「つぎはっ……あるか、あるのかっ……」
その、原動力はどこからなのか。
「ちがうかっ……。ならばつぎだっ……」
内なる恐怖に抗おうとする、彼女のその原動力は。
このままでは、こんな辺鄙な異世界で。元の世界へと還れずたった独りで死に絶えるかもしれないという強迫観念からか。
それとも、手負いの者を助けるべくして、その正義心から溢れゆくものなのか。
はたまた。
――――パパァァッ!!!!
目の前で実の父を傷つけられたザフィロの、その悲痛な姿が目に焼き付いてしまったからか。
“つぎは、頼むぞ”。
左雲家当主であり、己が父である左雲蒔絃を心から尊敬し慕う彩楓の心情を大きく揺さぶったからなのか。
「――緊急、装着するエレマ体の電子内在量が危険水域、危険水域…………今すぐエレマ部隊基地への帰還を……――」
アグゼデュスの声聴こえぬ静かな人工空間において、エレマ体消失のカウントダウンを告げる警告音が彩楓の耳元へ、脳の髄へと響かせ続けるなか。
「…………ぜったいに、還る」
怖気づいている暇も、悩んでいる暇さえもないと。
集中と警戒を切らさぬよう、深呼吸を繰り返す彼女は今出来ることを、今すべきことへと意識を向け、蒼の粒子が散るエレマ体を操作し空間内を駆け巡っていく。