秋からバイロン城に滞在し、冬を迎えたエルディオンには、習慣化したことがある。
ひとつは雪が降る日、エントランスホール前では外套に付いた雪を払い落とすこと。
もうひとつは、雪が降っている、降っていないに関わらず、入城の前には、雪面を歩いて付着した靴底の氷や泥を、粗布で拭うことだ。
靴底用の粗布は、正門にも裏門にも設置されていて、家令もメイドも兵士も、城下から訪れる商人も武器屋も、入城する者は必ず、靴底の汚れを落とす。
「転倒防止なんです。以前、濡れた廊下で、わたくしが派手に転んでしまって……」
靴底を拭くように指示したシルヴィアはそう云っていたが、本当の目的は、冬場に汚れやすくなるエントランス、廊下、階段を、日に何度も掃除しなければならないメイドたちの負担を軽くするためだった。
その気遣いと思いやりに胸を打たれたエルディオンと第一騎士団は、徹底して靴底の汚れを拭ってから入城していた。
そのため、バイロン城の床や廊下が汚れていたり、濡れていたりするのを、ほとんど目にしたことがなかったエルディオンは、夜、屋根のある回廊に濡れた足跡があることに、強烈な違和感を覚えた。
ここは、城内のほぼ中央にある中庭だ。
たとえ靴底を拭い忘れたとしても、正門、裏門を通過していれば、その間に靴底は乾き、これほどはっきりと濡れた足跡が残ることはないだろう。
つまり、この足跡を残した者は、門を通らなかった。
「──侵入者だ。警戒しろ」
囁くように発せられたエルディオンの低く、冷たい声に、デニス、グレイブと騎士たちは一斉に周囲に視線を走らせる。
中庭と廻廊をつなぐ低い外壁に付着した泥を発見したのはグレイブで、身軽な騎士が外壁をよじ登り、人数と進行方向を確認した。
「廻廊の屋根に、北からの足跡を確認。単独です」
北側に門はない。
単独で侵入した者が向かった方向は──
「一度、廻廊に降りて、ふたたび屋根づたいに南へ向かったようです」
雲に半分ほど隠れた月が浮かぶ夜。
「南へ」と聞いた瞬間、エルディオンは中庭を駆け出していた。
雪に埋もれた庭木を飛び越え、最短距離を行く。
嫌な予感に、吐き気がしてくる。足音をたてないようにするのが精一杯で、周囲を警戒する余裕はなかった。
もし、侵入者の狙いがエルディオンであれば、背後から簡単に襲い、致命傷を与えられたはずだった。
実際、エルディオン自身が、それを願っていた。
狙うなら、俺にしろ。
襲うなら、シアではなく、俺にしろ。
◆ ◆ ◆ ◆
闇に溶けこむように。
全身を黒づくめにした男が、2階の角部屋を覗っていた。
足音を立てずにバルコニーに着地した男が身を屈め、周囲に耳を澄ませると、風の音がわずかに聞こえるだけ。
覆面の下で男は息を吐き、寒さで
バイロン城に侵入するのは、男の想像以上に骨が折れた。侵入してからも迷路のような回廊のせいで、目的地に着くまでに、かなりの時間を要してしまった。
裏稼業を生業とする男の前に、「急ぎなんだが」と身なりの良い紳士が訊ねてきたのは一昨日。
依頼主の代理で来たことを告げた紳士は、テーブルに大金を置いた。
「前金だ。成功報酬はこれの3倍」
依頼の内容は、とある貴族の女に、一生消えない傷を負わせることだった。
依頼主の正体については「高貴な御方」としか明かせないと紳士は云う。それがダレか、元軍部の男には、察しがついた。
「衣服で隠せない場所に傷痕が残ることを、その御方は所望されている。顔や首、四肢の欠損でもいいそうだ。その女が、見せしめになることを重要視されていらっしゃる」
あれこれと注文を付けてきた代理の紳士は、
「いざとなったら殺してもいいが、襲撃者の痕跡を残すように──」
そう云って、第一騎士団の紋章を渡してきた。
濡れ衣を着せることも、依頼主の目的なのだろう。
あの王子様は、とことん嫌われているな。そんなに邪魔なら、さっさと殺してしまえばいいものを……と思うが、それがなかなか難しい、ということか。
どこの王家も、ゴタゴタつづきだ。
薄ら笑いを浮かべた男が、感覚が戻ってきた指先で窓枠に触れ、外から内鍵をカチリ──と開けたときだった。
後頭部から背中にかけて、悪寒が走る。背後からの異様な殺気に、男は身体を捻りながら本能的に腰から剣を抜き、振り向きざまに一閃していた。
その判断が正しかったことは、目の前に突き出された剣先を、振り抜いた剣刃でギリギリ受け流させたことにつきる。
刃と刃が交錯するコンマ数秒の間に男が見たのは、一対の獰猛な金色の瞳。襲われる瞬間まで、あまりに気配がなかったせいで、一瞬、獣かと思ったほどだ。
堪らず距離をとった男は、バルコニーの真下にある1階部分の廻廊の屋根へと逃れた。獲物を追うかのごとく、獣染みた男もすぐに追いついてきて、一定の距離を保って対峙したとき。
雲に隠れていた月が顔をだし、廻廊の屋根を月光が照らした。
獣染みた男の正体は──エルディオン・プロキリア
覆面の男が目を見張る。
戦場でも王城でも、なにひとつ感情を露わにしなかった王子が、目の前で獣のような唸り声をあげていた。