廻廊の屋根の上。
離れろ──これまで、数多の危機を回避してきた男の全身が総毛立ち、警鐘が鳴り響く。
エルディオン・プロキリアと顔を突き合わせるのは、これが初めてではない。かつては、軍という枠の中で同僚だったこともある。
アルザが覚えているのは、感情が欠如した壊れかけの王子の姿で、戦場で剣を振っているときでさえ、虚ろな目をしていた。
それがいま、怒りの感情を露わにして、獰猛な目つきで威嚇してくるコイツはダレだ──と、疑いたくなった。
眼光鋭い金の瞳は、血に飢えた黒豹を思わせる。
夜の静寂のなか、息を潜めて襲いかかり、逃げる獲物を追い詰めたあとは、一撃で仕留めるか、それとも、いたぶりながら死に至らしめるかを選ぶような、残忍さと狂暴さまで秘めていた。
シルヴィア・バイロンを標的にしたのが、これほどまでに、この男を怒らせるということを、依頼主である「高貴な御方」は知っていただろうか。
今となっては、運が良かったのか、悪かったのか。バイロン城が複雑な要塞だったのは、あきらかに運命の分かれ道だった。
もしもアルザが、容易くバイロン城に侵入し、廻廊の迷路に惑わされることなく南側の角部屋に到着していたならば、すでに依頼は果たされたあとで、傷つき血に染まるシルヴィア・バイロンを見つけたエルディオンは、間違いなく暴走したはずだ。
数分の誤差ゆえ、依頼を実行したアルザが城から逃げ切ることは難しかっただろうし、おそらく見つかった瞬間には細切れにされ、エルディオン・プロキリアは、その足で王都に向かい、野獣のごとき咆哮をあげながら、王城にいる側妃の首を斬り落とし、王族を皆殺しにしただろう。
──そんなはずはない。
──あの男は、結果として何もできないわ。
側妃は昔のように鼻で笑うかもしれないが、凄まじい殺意に射すくめられているアルザには、これが大袈裟でも過分でもないことを感じ取っていた。
シルヴィア・バイロンが、英雄マクシム・バイロンの娘であり、この冬、負傷者だらけの第一騎士団を領地に迎え入れたことは、話しに聞いていた。
ふたりが出会って、わずか3か月あまりの間に何があったのか。
虚ろな目をした壊れかけの王子を、ここまで豹変させる何かが、シルヴィア・バイロンにはあるのかもしれない。
それが何かを見定める時間は、残念ながら残っていないようだ。
牙を剥いたエルディオンが、一気に間合いを詰めてきた。振りかぶった剣が、アルザの頭上に激しく叩きつけられる。
初撃、斬るというよりは、斧で叩き割られるような衝撃に、アルザの腕が痺れる。後ろに身を引きながらでなければ、受け止めきれなかった。
さらに押し込まれ、ついに片膝をついたとき、わざと顔を近づけてきたエルディオンに、至近距離から呟かれる。
「影のアルザ……側妃の犬か」
ふたたび背筋が冷えた。人を見る目ではなかった。犬畜生以下とでも云いたげな金の瞳に、戦慄を覚える。
蔑みの言葉には慣れているアルザだったが、いつものように薄ら笑いを浮かべる余裕はなく、容赦のない2撃目に襲われた。
今度は真横から。膝をついて低い位置になったアルザの首を、狙いすましたかのように迫る刃。盾がわりにした剣身で防いだところで、ガラ空きになった反対側の脇腹に、強烈な蹴りをくらう。
息を詰まらせ、廻廊の屋根から落ちる間際、アルザの太腿には短剣が突き刺さった。
──クソがっ!
激痛に顔を歪めたアルザは、雪が積もった低い庭木を緩衝材にして、蹴られた脇腹と太腿を庇いながら転がる。
雪面には血飛沫が散った。点々とつづくだろう血痕を想像して、この場から逃げるのが絶望的になったことを悟る。
最初に脇腹にダメージを負わせたのも、きっちりと脚を狙ったのも、こちらの機動力を削ぐのが目的だったに違いない。
頭に血が昇っているようで、こういうところは冷静なままだということは、エルディオン・プロキリアは、どうやら獲物をいたぶることを選んだらしい。
元プロキリア国軍の密偵部隊に所属していたアルザは、一縷の望みを持って逃げ道がないかと視線を彷徨わせたが、
「悪足掻きは、やめておけ」
つぎの瞬間、顎を蹴り上げられ、雪上で大の字になった。
雪の冷たさを感じる耳に、地を蹴る複数の足音が、こちらに向かってくるのがわかる。
3……いや、4か。どうでもいいが、早く来てくれ。
そうでなければ、真上で剣を構えた獰猛な獣に、斬り刻まれてしまう。
月光に反射する剣身が見えた。避けようがない切先の行方は、目か、耳か、それとも首か。
その凶行を止めてくれたのは、南側の角部屋。
「エルディオン様! ダメです! まだ、殺さないで!」
2階のバルコニーから身を乗り出して、大声をあげる薄着の女が見えた。
夜風になびく金髪と白いレースの裾。
──まだ、殺さないで!
その「
「見るな」
独占欲まみれの声を聞いたのを最後に、アルザの意識は途切れた。