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82話:ミミズ大事件

 ソファの上に足を抱えて座り、キュッリッキはぼんやりと視線を泳がせていた。

 夕刻になってアルカネットと共にやしきに戻ってきて、ずっとこうしている。

 一人にすると塞ぎ込んで心身ともに良くないと考えたアルカネットが、ここ数日キュッリッキを伴って出仕していた。

 朝から夕刻までアルカネットと共に、魔法部隊ビリエルの本部で過ごす。しかしいくら場所を変わっても、気分転換になったのは最初だけ。結局どこにいても、エルアーラ遺跡でのことを思い起こして心を痛めた。

 夕飯前のひととき、とくにすることもなくただぼんやりしていると、


「リッキー! 今帰ったぞー!!!」


 ノックもなしにいきなりバンッと扉が開いて、ベルトルドが部屋に飛び込んできた。

 ソファに駆け寄ってきてベルトルドはうるうると目を潤ませると、きょとんとしているキュッリッキに飛びかかる。そして力いっぱい抱きしめ、滑らかなキュッリッキの頬に、スリスリスリスリ自分の頬を擦り付けた。


「会いたかったぞ会いたかったぞああ可愛いなもう可愛い可愛い」

「え…えっと……」


 突然のことにされるがままのキュッリッキにはお構いなしに、ベルトルドは奔流のようにこみ上げてくる激情に身を任せ、熱く熱く抱擁を堪能した。何せ一週間ぶりである。


「少し痩せたんじゃないのか? ダメだぞちゃんと食べないと。もう一人で苦しまなくても大丈夫だ、この俺が帰ってきたからな! 心ゆくまで俺の胸で泣くがいい!!」


 目を白黒させるキュッリッキを、ぎゅぎゅっと抱きしめた。そしてどさくさに紛れて膝の上にのせる。


「俺も辛かった! 悲しかった! 寂しかったぞ!! リッキーのいない毎日は地獄の苦しみだったのだ!」

「帰ってきたですって!?」


 今度はアルカネットが開きっぱなしのドアを更に開いて、地鳴りでも起きそうな歩調でドスドス部屋に入ってきた。部屋着に着替えていた。


「なんであなたがもう帰ってきているんですか? 戦勝パーティーは明日の夜ですよ」


 不愉快極まりないといった露骨な表情と声で言い放つ。それをチラリと一瞥し、ベルトルドは「フンッ」と鼻を鳴らした。


「リッキーが着ていくドレスを選ぶために、早く戻ってきたんだ。俺の完璧なコーディネートでリッキーを誰よりも美しく装って、そして俺がエスコートもしていく!」

「リッキーさんのドレスは、この私がしっかり選んでおきましたから問題ありません。エスコートも私がしていくので、あなたの出る幕は粉みじんもありませんよ」


 ベルトルドとアルカネットの視線がぶつかり合う。視線と視線のぶつかる中心に、火花がバチバチ見えるような錯覚をキュッリッキはおぼえた。


「たかが魔法部隊長官ごときの分際が、リッキーをエスコートするなど笑止千万! テキトーにそのへんの雑魚女どもの相手でもしてるがいい!」

「あなたのような高級なお立場のかたは、社交界の花園でも相手にしているがよろしいでしょう。リッキーさんは私が大切にエスコートします」


 なおも火花を散らす2人をゲッソリ見やりながら、ふとキュッリッキは首をかしげた。


「ねえねえ、明日のパーティーってなんのこと?」


 睨み合いを休戦すると、2人はキュッリッキに顔を向けた。


「皇王の昼行灯のクソ大ボケじじいが、戦争の勝利を祝いたいからパーティーを開くそうだ。で、そのパーティーにリッキーも連れてくるようにと命令が出ているんだ」

「アタシも?」


 とても不思議そうに、ベルトルドとアルカネットの顔を交互に見る。


「詳細は知らされていないのですが、とにかく出席させるようにと、皇王さま自らのお達しなのです」

「バカ皇子の嫁にしたいとか言い出すんじゃないだろうな……」

「冗談じゃありませんよ。そんなことになったりしたら、私は本気で宮殿を吹っ飛ばしますからね」

「俺も吹っ飛ばす!!」

「それはちょっと……」


 握り拳全開で怒りをあらわにする2人を見やり、キュッリッキは明日のパーティーのことを思い悩んだ。

 これまでパーティーと名のつくものは、飲めや食えやのドンチャン騒ぎしか知らない。王侯貴族や上流階級の開くパーティーなど出たこともない。きっと上品な、テーブルマナーがどうの、話し方や踊りがどうのと、肩のこるような世界が広がっているのだろう。それを思うとうんざりしてしまった。


(マナーなんて判らないし、上品な踊りなんて習ったことないもん…)


 元気のないため息を膝の上でつくキュッリッキの気持ちに気づき、ベルトルドは苦笑を浮かべた。


「ジジイの招待だから蹴るわけにもいかないが。なに、俺が一緒だから心配するなリッキー。おめかししてパーティーを楽しみに行こう」


 ベルトルドににっこりと微笑まれて、キュッリッキは小さく笑みを返した。2人が一緒なら、たしかに大丈夫だろう。


「さて、腹も減ったし、飯のあとはドレス選びだな!」

「もう私が選んだと言っているでしょう」

「喧しい! 俺の選んだドレスを着せて連れて行く!!」


 再びドレス選びの権利を主張し合い始めた2人をため息混じりに見て、キュッリッキはベルトルドの膝からおりた。


「ンもお、アタシが自分で選ぶんだからっ!!」


 ふくれっ面にした顔を2人に向けて、キュッリッキは「ぷんっ」と怒って部屋を出ていってしまった。


「リ、リッキー!」

「リッキーさんっ!」


 キュッリッキに怒られた2人は、大慌てで足をもつれさせながら後を追いかけた。



* * *



「だ、だめなんだから………」


 ぎゅっと固く閉じようとする脚の間に手を滑り込ませ、ベルトルドはキュッリッキの耳元で優しく囁く。


「脚の力を抜いて」


 顔を赤らめながら、キュッリッキは小さくイヤイヤと首を振る。


「イケナイ子だ」


 ベルトルドは優しく微笑みかけると、はやる気持ちを抑えながらキュッリッキの上に覆いかぶさった。

 脚の力も次第に緩やかになり、そっと手で押し広げてやる。そして閉じないように身体を割り込ませた。



* * *



「リッキー……いくぞ……」


 むにゃむにゃと、幸せそうなニヤケ顔を浮かべるベルトルドを、キュッリッキは傍らに座って不思議そうに見つめていた。

 自分の名前をつぶやいているところから、夢の中に登場しているんだろうと想像出来る。しかし、どこへ行こうとしているのかは判らない。

 寝言で夢を推し量れるほど器用ではないので、きっと楽しいところへ行くんだろうな、とキュッリッキは思った。

 まさか夢の中でオカズにされているなど思いもよらないキュッリッキは、ベルトルドを起こすべく、幸せそうな顔をペチペチと叩く。


「ベルトルドさん、朝だよ~。もう起きないと遅刻しちゃうよー」


 両肩を掴んで揺さぶるが、ニヤケ顔は止まらない。むしろ「ぐふふふふ」と気持ちの悪い笑い声すらあがるしまつ。


「ンもー、しょうがないなあ。どうして毎朝こんな感じなのかな」


 ベルトルド邸へきて一緒に寝起きするようになって、ベルトルドを起こすことに苦労を強いられる。

 起こし始めて最低1時間は必要で、中々起こせずにいるとアルカネットも加わり、終いには魔法を使った過激な起こし方になる。

 傍で見ていると怖いし、いつ死んでもおかしくないほど手加減しないので、アルカネットが来る前にどうにか起こそうとキュッリッキは必死になった。

 キュッリッキはフェンリルとフローズヴィトニルが寝ているクッションを取り上げると、2匹が転がり落ちるのも無視してベッドに戻る。フェンリルが怒りながら抗議するのもほっといて、ベルトルドの腹の上に馬乗りになり、クッションでバフバフと顔に叩きつけた。


「起きろ~~! 朝なんだから~~~!!」


 力いっぱい叩くが、幸せそうなニヤケ顔のままベルトルドは起きない。

 キュッリッキはベルトルドの上から降りて、再び傍らに座り込む。そのニヤケ顔を恨めしそうに睨みつけ、ふとそれが目の端に付いた。


「??」


 ベルトルドのパジャマの股間が、妙に盛り上がっている。

 以前裸で寝ていたベルトルドの股間に、巨大ナマコを発見したことを思い出し、キュッリッキはギョッと顔を強ばらせた。


「ど、どうしよう……またナマコが食らいついてるのかな……」


 しかし一体どこから忍び込んでくるのだろうか。キュッリッキは食いつかれていないし、たぶんアルカネットも無事だろう。なのにどうして2度もベルトルドに――。

 キュッリッキはベビードールの裾をキュッと握り締め、硬い表情のまま生唾を飲み込んだ。気持ち悪いしおっかないけど、噛まれたらきっと痛い。


「退治して………やるんだからっ!」


 意を決して真剣に頷くと、キュッリッキはベルトルドのパジャマのズボンとパンツに手をかけ、一気に引き下ろした。



* * *



 身支度をきちんと整えたアルカネットは、食堂で新聞を広げながら、白い湯気の立つ紅茶を優雅に口に含んだ。


 ――ぎぃやああああああああああああああああっ!!


「!!!??」


 瞬間、ブバッと下品に紅茶を吹き出し、弾かれるように立ち上がった。


「な、なんですか今の悲鳴は!?」


 給仕のために食堂にいた使用人たちも、目を瞬かせながら仕事の手を止めていた。


「アルカネットさま!?」


 血相を変えたセヴェリとリトヴァが、食堂に飛び込んでくる。

 再びやしきを震撼させるほどの悲鳴が轟いて、3人は顔を見合わせると食堂を飛び出した。

 普段なら厳しい叱責が飛ぶところだが、それどころではない。3人は大急ぎでやしきの中をドタバタと走り回り、扉をバンッと開いて部屋に飛び込んだ。そして、ありえないほどの驚愕のシーンを目撃し、目をひん剥いて口を大きく開けたまま固まった。


「あ! いいところにきたの! アルカネットさんも手伝ってー!!!」

「いだだだだだだ痛い痛いリッキー止めなさーーーい!!」


 アルカネットたちに気づいたキュッリッキが、必死な面持ちでヘルプを求めた。一方、ベルトルドは本気で泣きながら悲鳴を喚き散らしている。


「リ……リッキーさん……?」


 アルカネットはよろりと倒れそうになるのを、かろうじて踏ん張った。

 そのシーンを、どう解釈すればいいのだろう。


「あのね、あのね、タイヘンなのー! ベルトルドさんの股間におっきなミミズが生えてたの!!」

「だからそれはミミズじゃないんだリッキー!! お願いだから引っ張るなああっ」

「だってムクムク大きくなってくるんだよ! これは寄生虫のミミズだと思うのっ! 痛いと思うけど引っこ抜けるまで頑張ってベルトルドさん!!」


 キュッリッキはベルトルドの股間のミミズを両手でしっかり握り締め、額に汗して必死な形相で、渾身の力を込めて引っ張っていた。


「前はナマコに襲われたり、今度はミミズが生えてくるとか、ベルトルドさんばっかり可哀想なのーーー!」


 この光景をライオン傭兵団の皆が目撃したら、涙を流しながら腹を抱えて笑い転げるだろう。それほど奇妙で凄まじい光景が展開されていた。


(お……落ち着け…落ち着きなさい自分っ)


 アルカネットはブンブン頭を振り、目の前の現実をしっかり受け止める。キュッリッキにいつまでも、あんな汚らわしいものを握らせておくわけにはいかないからだ。

 靴を履いたまま慌ててベッドに飛び乗って、キュッリッキの背後に回って羽交い締めにした。


「と、とにかく落ち着いてくださいリッキーさん!」

「アタシ落ち着いてるってばあ! ものすっごく根深く生えてるのお!! こんなに一生懸命引っ張ってるのに抜けやしないんだから。アルカネットさんも手伝ってぇ」

「それはミミズじゃありませんから、手が汚れます。ていうかもう汚れているようなものですよっ! よく洗って消毒しなければ」

「だって、こんなヘンなモノが」

「さあ、洗面所へ行きましょうね」

「あ~ん」


 アルカネットに羽交い締めにされたままの格好で、キュッリッキは強制的に洗面所に連れて行かれてしまった。

 ベッドの上でぐったりとなったベルトルドに、セヴェリとリトヴァが慌てて駆け寄る。


「だ、旦那様」


 どう対応していいか困ったような声をセヴェリは出し、リトヴァはベルトルドを疲れたように見やって、眉間に人差し指をあてた。


「なんと情けないお姿に……」


 女の下半身を蕩けさせるほどの美貌は、子供のような泣きべそ顔。上半身は乱れたパジャマの上着だけで、下半身はすっぱり丸裸。全身力が抜けたように、ぐったりと手足を投げ出している。

 こんなあられもない姿は、初めて目にする2人だった。

 ベルトルドはようやく激しい拷問から解放され、痛みがひいていく中、頭が怒涛にカオスの極みだ。


(確か、幸せな夢を見ていたはずだが…)


 強烈な痛みとともに目が覚めて、見ればキュッリッキがピーを握り締めて、必死に引っこ抜こうとしているではないか。あんなか細い腕のどこにそんな馬鹿力が!? と思うような怪力で引っ張っているのである。

 本来ならば、愛しい少女にピーを握り締められるなど、悦びの絶頂といっても過言ではないほどの、天にも昇るくらい幸せなはずなのだ。しかし、握り締めるにしても限度はある。あそこまで強烈な力で握られたら、大事な大事なピーが壊死してしまう。

 いくら痛いからといっても、相手は愛しい少女、力で追い払うなどできはしない。しかし何度言っても放そうとしないし、股間にミミズが生えたと勘違いしている。


(ていうか、ミミズ………ミミズ………)


 この世のどこに、こんな立派な太さをしたミミズがいるんだよ!? と、自慢のピーをミミズ呼ばわりされて、心がシクシク痛んだ。

 いずれこの自慢のピーでキュッリッキを悦ばせ、エクスタシーの絶頂を迎えさせることを楽しみにしているのに、そのキュッリッキにミミズ呼ばわりされてしまうとは。


「もう俺、お嫁に行けない気がする」


 下半身を丸出しにしたまま、ベルトルドは両手で顔を覆うと、メソメソと泣き出してしまった。




 すったもんだの大騒動から1時間経って、食堂に顔を揃えたベルトルド、アルカネット、キュッリッキ。

 異様な空気が漂う中、キュッリッキは原型が判らないほど切り刻まれたソーセージにフォークを突き刺し口に入れる。アルカネットも黙々と皿の中身を平らげていくが、ベルトルドは青い顔で沈んでいた。

 ミミズが抜けず、体調を崩していると勘違いしているキュッリッキは、労りを込めた眼差しをベルトルドに向けた。


「ヴィヒトリ先生にちゃんと診てもらったほうがいいよ、ベルトルドさん。あんな寄生虫がおっきくなって生えてくるなんて」

「いや、あれは寄生虫じゃないから……」


 真剣な顔を向けるキュッリッキに、ベルトルドは引きつった笑みを向けた。

 キュッリッキは男の身体の構造が判らない。それを知っているベルトルドとアルカネットは、そのことをどう説明するか頭を悩ませた。

 もう少しばかりキュッリッキが子供だったら、冗談まじりに教えることはできる。しかしもう年頃の娘だ。いくら親子ほど歳が離れているとはいえ、ナントナク気恥ずかしいものがある。


「だいたい、なんでリッキーさんが、あなたの不潔極まりない汚らわしい粗末なモノを引っ張る羽目になったんですか」


 ジロリとアルカネットに睨まれ、ベルトルドは不機嫌そうに顔を歪めた。


「俺は寝ていたんだぞ、俺が知るか」


 不潔と粗末は余計である。


「ベルトルドさんってばいくら叩いても起きなくって。で、よく見たらパジャマの股間が膨らんでるでしょ。前に起こしにいったとき、ベルトルドさんの股間に巨大ナマコが張り付いていたから、もしかしたらまたかもって思ったの。そしたら巨大ミミズが生えててびっくりしたよ~」


 その瞬間、アルカネットがキレた。


「テメーはどーしてそう寝ててもエロイんだよなんで勃ってるんだよええ!?」

「だから俺は寝てたんだって何度も言わせるなっ!!」


 アルカネットの全身から稲妻がほとばしる。ベルトルドは慌てて自分とキュッリッキに防御を張り巡らせた。給仕のために食堂にいた使用人たちは、心得ているのかすでに退避している。


「リッキーさんにテメーのあんなもんを握らせやがって、手が腐るだろが」


 洗面所にキュッリッキを連れて行ったアルカネットは、キュッリッキが嫌がるほど徹底的に10回も薬用ソープで手を洗い、アルコールスプレーを何度もかけて消毒した。


「アルカネットさん怖いよぅ……」


 クロワッサンを両手で掴みながらキュッリッキが言うと、次第にアルカネットが普段の冷静さを取り戻していった。


「すみません、感情が昂ぶってしまいました。リッキーさんには怒っていませんからね」


 いつもどおりの爽やかな笑顔を向けられ、キュッリッキはホッと肩の力を抜く。


「お前はホントに多重人格だな……」


 ベルトルドは眉を痙攣させながら憮然と呟いた。


「しかしこのままというのも、あれだなあ……」


 19歳にもなって、男と女の身体の違いが判らないのも問題である。こういうことは、正しい知識を身につけておく必要があるだろう。


「そうか、そうだ、ヴィヒトリに任せよう」


 ふとキュッリッキの主治医であるヴィヒトリが頭に浮かぶ。ベルトルドのつぶやきに、アルカネットも納得顔で頷く。


「ええ、それがいいですね」

「?」

「セヴェリ、大至急ここへ来るよう、ヴィヒトリに連絡をつけろ」

「承りました」


 食堂に戻っていたセヴェリは会釈すると、食堂を再び出て行った。


「リッキーには、しっかりと学んでもらわないといけない」

「? ヴィヒトリ先生から?」

「うん」


 ベルトルドに深々と頷かれて、キュッリッキはひたすら首をかしげるだけだった。



* * *



「というわけで、しっかり頼むぞ!」

「あまり羞恥心を抱かせず、正しい認識と知識を教えてあげてください」


 ベルトルドとアルカネットに重々言い渡されたものの、イマイチ事態が飲み込めていない。

 何が「というわけで」なのだろうかと、ヴィヒトリは憮然とした表情を隠そうともせず頷いた。朝っぱらから電話で叩き起され、早急にベルトルド邸にくるよう命令されてすっ飛んできたのだ。逆らえば後が怖い。


「夜はパーティーがあるから、早めに戻る。俺たちが帰る前にリッキーをドレスアップしておけよ」

「承りました」


 リトヴァが頭を下げる。


「ではいってくる。リッキー、また夕刻にな」

「行ってきます」

「いってらっしゃーい」


 玄関ホールで2人が出かけていくのを見送り、セヴェリが扉を閉めると、ヴィヒトリがたまりかねたように「うがああっ」と唸り声を上げた。


「なんだってこんな朝っぱらから呼び出されたんだボクは! 怪我人病人が発生したわけじゃないだろうし」

「それについては、わたくしから御説明申し上げますわ」


 リトヴァが少々困ったような表情で、ヴィヒトリに寄って小声で話し始めた。

 キュッリッキは玄関ホールにある、待ち合い用に置かれたソファに座って2人を眺めていた。

 リトヴァの説明が終わると、ヴィヒトリは盛大に吹き出し、ゲラゲラと大声を上げて笑いだした。


「それは凄い光景だっただろうな~~。兄ちゃん聞いたらチョー笑い転げるネタだよねこれ」

「ど、どうか、ライオンの皆様にはご内密に……」


 リトヴァが困り果てる様子にもおかまいなく、ヴィヒトリは話す気満々の爆笑顔で腹を抱えていた。


「あーオモシロー」


 ひとしきり笑い転げ、思い出し笑いで吹き出し、とにかく笑い尽くしてようやくヴィヒトリは腕を組んで考え込んだ。そして黒縁のメガネを外し、レンズをシャツの裾で磨いてかけなおす。


「んー……いくらボクが医者でも、改まって説明するのも、ちょーっと気恥ずかしいんだよね~。なんせまだボク若いし」

「そうですわねえ…。でも、ちょっとこのままでは、お嬢様にとっても少々問題かと」

「アレをミミズと勘違いして、引っこ抜こうとするのはチョットネ……」


 そして再び思い出し笑いで、ヴィヒトリは身体を折り曲げて笑った。


「それにしても閣下はパワフルだねえ。隣でキュッリッキちゃん寝てるんじゃ、溜まりまくってるだろうに、よく襲わないでいられるよね」


 それについては、リトヴァは苦笑を浮かべるにとどまった。「襲いたくても、アルカネットもいるのだから手が出せないだけだろう」とは胸中で呟く。


「さて、どうしたものかな」



* * *



 夕刻になり、ベルトルドとアルカネットが帰宅した。

 2人はいつものように、キュッリッキの部屋へ足早に向かう。そしてノックもそこそこに扉を勢いよく開け、ご機嫌で、


「帰ったぞー!!」


 とベルトルドが声を上げる。

 が。

 いつもなら「おかえりなさーい」と元気に返事がかえってくるのだが、今日に限って無言の冷たい視線が投げかけられた。

 2人は顔を見合わせ、ちょこっと首をかしげ合う。

 リトヴァと数名のメイドたちに手伝われて、キュッリッキはドレッサーの前に座って髪をまとめてもらっている最中だった。ドレスにはまだ着替えていない。


「どうしたリッキー、ご機嫌ナナメ?」


 ベルトルドがポツリと言うと、冷たさの中に、ありありと軽蔑を含んだ光が宿ってベルトルドを睨んできた。そして、


「ぷいっ」


 と、顔を背けてしまった。

 メイドたちが困惑した表情を浮かべる中、ベルトルドとアルカネットは真っ白な思考に陥って、ぽかんと口を開けて固まってしまった。


「とりあえず旦那様がた、居間のほうでお待ちくださいませ。お嬢様のお支度にまだ少し時間がかかりますので」


 リトヴァがやんわりと間に入り、背中を押し出すようにして部屋から追い出した。

 追い出された2人はそのまま無言で居間まで行き、そしてすとんっと向かい合ってソファに座る。

 すかさずセヴェリが紅茶を運んできて、2人の前にそっと置いて下がっても、2人は暫く無言だった。

 紅茶から湯気がたたなくなった頃、ふとベルトルドが口を開いた。


「なあ、見たか、リッキーのあの目」

「……ええ」


 ベルトルドは冷めた紅茶のカップを手に取って、一口すすった。


「あの、汚らわしいオッサンを見るような、軽蔑を含んだ目」


 次第にワナワナと震えが足元から這い上がってきて、ベルトルドは感情をもてあますかのように頭をかきむしった。


「ありえん!! ありえないぞおおおあのリッキーが、俺たちをあんな蔑んだ目で見るなんてありえんことだ!!!」

「訂正しておきますけど、正確にはあなたを、じゃないんですか」

「一人だけ部外者になるな馬鹿者! お前も込みで見ていたんだリッキーは!!」


 冷たさと軽蔑を含んだ神秘のあの目。神々の世界を視るあの神聖な目で、あんなふうに見られるのはキツイ。


「一体どうして急に……」


 揃って腕を組んで考え込むと、2人は「うううん……」と唸って頭を抱えた。


「あ」

「なんだ」

「もしかしたら、ヴィヒトリ先生の講義で何かあったのかもしれませんね」


 思い当たったようにアルカネットが言うと、ベルトルドはなるほどと頷く。


「よし、直で聞きただしてやる」


 ベルトルドはアルカネットに隣に座るように手招きする。念話の内容をより正確に共有するために、アルカネットの身体に触れている必要があるからだ。それが判っているので、アルカネットはおとなしく従う。


(ヴィヒトリ!!)


 ハーメンリンナの大病院を透視し、追跡しながらヴィヒトリを見つけ出す。診察室や彼専用の事務室にはおらず、屋上でのほほんと夕暮れの空を見上げている最中だった。


(うわっ、びっくりしたー。なんですか閣下いきなり!?)

(お前に訊ねたいことがある。今朝リッキーに、どんな風に教えたか詳細を話せ)

(えーっと…、軽く男女の身体の違いと役割について説明しました。キュッリッキちゃん、子供の作り方とか物凄い誤認してて驚いてましたね~。でも具体的なイメージとか浮かばないみたいだったんで、便利な教材を見つけたから、それを見せました)

(便利な教材?)


 これにはアルカネットが念話に割り込む。


(アルカネットさんも一緒なんですか。ええ、教材……ていうか、教材に使っちゃったんですけどね)


 これにはベルトルドの顔が、じりじりと気まずそうに歪んでいく。


(いや~閣下のコレクション凄いですよね。そのテの映像データの充実してること、ボクあのテのポルノは初めて見たけど、過激すぎて吃驚ですよ、モロ未修正だし)

(…………ちなみに、どれを観せたんだ……?)


 ベルトルドの声から勢いが殺げていく。


(えーと『女学生と非常勤講師のイケナイ放課後』『覗くだけじゃ満たされない!隣の団地妻』『淫乱なご令嬢』の3本ですね。選ぶの苦労しましたよ多すぎて~)


 瞬間、隣から殺意が湧き上がって、ベルトルドはダラダラと冷や汗をかいた。


(最後の『淫乱なご令嬢』は女優がキュッリッキちゃんにちょっと似てたから、キュッリッキちゃん画面の前で固まってましたよ。――アレ見て妄想浮かべて自己処理してるんじゃないでしょうね閣下)


 あはははは、とバカにしたような笑いが続く。


(未修正だから丸見えでしょ、何をどうするのか、よーっく判ったみたい。だから今後はもう、閣下のアレを引っこ抜こうなんてことは、ないと思いますよ~)


 そして念話が終わると、突然アルカネットの手がガッシリと喉と首を掴んできて、ベルトルドは「ぐげっ」と潰れた声を上げた。


「エロ本だけじゃなく、そんなくだらないポルノ映像も隠し持っていたのか貴様!」

「いや、だ、だって、あれは入手にかなり苦労をしたからだな…」


 引き攣りながら言い訳をするが、火に油を注いだだけだった。


「根こそぎコレクションは全部焼き捨てる。いいな?」


 完全に目の座ったアルカネットに、ベルトルドは泣きべそを浮かべて顔を横に振る。


「俺の生き甲斐奪わないでっ」

「そんなくだらないモノを生き甲斐にするなや」

「じゃあ、『淫乱なご令嬢』だけは捨てないで、あれ一番のお気に入り……ぐふっ」

「それを真っ先に焼き捨てる!」


 更に首を締め上げられて、ベルトルドは「ギブギブ」とソファをバシバシ叩いた。そこへノックがして、キュッリッキが入ってきた。

 それに気づいた2人が扉のほうへ顔を向けると、ドレスに身を包んで、美しく装われたキュッリッキが佇んでいる。その姿に2人は恍惚と見とれたが、先ほどと寸分違わない軽蔑の目を見て一気に現実に戻った。


「とっても綺麗だぞ、リッキー」

「いつも以上に美しく、ドレスもよくお似合いですよ」


 恐る恐る賞賛を述べるが、軽蔑の目つきは変わらない。


「一つ言っておくね」

「お、おう?」

「はい…?」

「今日からベルトルドさんとアルカネットさんは、自分たちの部屋で寝起きしてね! それと、アタシが良いって言うまで、勝手に扉を開けて入ってきたらダメなんだからねっ!! あと、いきなり抱きついたりキスしてきたら許さないんだから。ちゃんと守ってくれないと家出してやるからよっく覚えておいてよ!」


 両手を腰に当てて、憤然と言い渡す。

 ベルトルドとアルカネットは、ハンマーで何度も頭を殴られたような衝撃を受け、完全に固まってしまった。


「一緒に寝られない」

「部屋にも入れない」

「抱きしめられない」

「キスもできない」


 ぼそぼそと確認するようにつぶやきあって、アルカネットはそのままよろめき倒れ、ベルトルドは大号泣しだした。


「あんなエッチなことされたら、たまんないんだから」


 ヴィヒトリから見せられたポルノ映像の数々の場面を思い出し、キュッリッキはうんざりしたように顔を歪めた。

 3本立てのポルノ映像鑑賞が終わったあと、


「男って生き物は例外なく野獣のようなモンだから、隣に女の子がいたら、あっとゆーまに餌食にされるのがオチだよ。キュッリッキちゃんも気をつけるんだよ、とくにベルトルド様は大の女好きで有名だからねえ。キュッリッキちゃんを夢の中でエッチなおかずにして、股間があんなことになってたに違いないから。それにアルカネットさん虫も殺さないような顔をして、キュッリッキちゃんのエッチな妄想浮かべてるんだから。ああいうのをむっつりスケベ、っていうんだよ」


 そう、教わった。

 まさにヴィヒトリは的を射た見解を述べていた。当人たちが聞いてないことをいいことに、言いたい放題である。

 強烈な教材をもとに、男女の身体の違い、過激な性知識などを色々覚えたキュッリッキにとって、これまで優しい父親たちのような存在だったベルトルドとアルカネットが、急に不潔極まりない生き物に大変身してしまった。


(ベルトルドさんとアルカネットさんがエロおやじでも、メルヴィンだけはだいじょうぶなんだから!)


 キュッリッキはグッと握り拳を作って天井を睨んだ。同じ男でも、メルヴィンだけは違うと信じて疑っていない。

 そこへノックがして、セヴェリが顔を出した。


「失礼いたします。旦那様、王宮よりお迎えのゴンドラが到着しました」


 今夜の皇王主催のパーティーに出席するベルトルドたちのために、皇王自ら差し向けた迎えのゴンドラである。ベルトルド邸にもゴンドラはあるが、ベルトルドたちが今夜の大切な主賓であることをあらわすためでもあった。

 セヴェリが二度言っても、ベルトルドもアルカネットも撃沈したまま動こうとしない。

 2人のショックは特大過ぎて、パーティーどころではなくなっているのだ。

 やれやれと頭を振ると、セヴェリは部屋に入り、2人の前に立って「こほん」と小さく咳払いをした。


「あんなに美しいお嬢様を、お一人で王宮へ向かわせて大丈夫なのでしょうか? 今夜はハーメンリンナだけではなく、地方貴族や豪族の皆々様も出席なさるとか。”独身の紳士”たちが、さぞたくさん集まるのでしょうね」


 とくに”独身の紳士たち”という言葉に、ベルトルドとアルカネットの顔に生気が戻った。


「俺のリッキーに手を出そうなどと、この俺が許すわけがなかろう!」

「そんな汚らわしい虫は、私が踏み潰して差し上げます!」


 エンジンがかかった2人を見て、セヴェリは満足そうに頷いた。


「お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 目をぱちくりさせるキュッリッキの右手をベルトルドが、左手をアルカネットが握ると、キュッリッキが抗議の声を上げる前に、ズンズンと玄関ホールに引っ張っていった。

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