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86話:メルヴィンの戦い

 メルヴィンはジッと鏡の中を覗き込む。

 普段身だしなみのチェック以外、それほど熱心に鏡を覗くことはない。しかし今日は丹念に自分の顔をチェックしていた。

 エルアーラ遺跡でベルトルドに殴られたときに腫れた頬は、今ではすっかりひいて元通りになっている。その時切った口の端の怪我も治っていた。

 両頬を掌でパンパンッと叩いて気合を入れると、洗面所を出て玄関へ向かう。ちょうどギャリーが、パンツ姿で眠そうに歩いてきた。


「おはようございます、ギャリーさん」

「ん、おはー。どっか行くのか?」

「ええ、ハーメンリンナまで」


 一瞬考えこむ風をしたギャリーだが、やがてウンウン頷いた。


「キューリ迎えに行くんだな」

「はい」


 メルヴィンは真顔で首を縦に振った。

 エルアーラ遺跡の一件から、もう2週間も経っている。

 キュッリッキの想いを受け止める覚悟、彼女の翼やその背景を理解し、それも全て受け止める覚悟。そして自分の心をよく見つめ、彼女を愛していることを認めた。キュッリッキが自分の想いを受け入れてくれるまで、何度でも何度でも告白を繰り返す。そう、決意した。

 気持ちがそう固まるまで、2週間という時間が必要だった。しばらくは自分の鈍さに落ち込んでいたが、キュッリッキのことを思うようになると、心は決まっていった。

 メルヴィンの顔に迷いが一切ナイことを見て、ギャリーは満足そうに頷く。


「行ってこい。そしてキューリ連れて、帰って来い」

「はい」


 ギャリーのエールに笑顔でこたえ、メルヴィンはアジトを出た。




「おめーよ、パンツに手を突っ込んで股間をボリボリ掻くなや」


 歯ブラシを口に突っ込んだまま、ザカリーが階段をおりてくる。


「布越しに掻くのキライなんだよ」

「オッサンだな」

「うっせ」


 2人はそのまま一緒に洗面所へ向かう。


「メルヴィンのやつ、やっと迎えに行ったのか」

「ああ」

「そっか。キューリ、喜ぶだろうな~」

「うまくいきゃイイんだけどな」


 ギャリーが洗面所のドアノブに手をかけようとすると、ザカリーが慌ててギャリーの手をどかしてドアを開ける。


「股間触ったキタねぇ手で触るな」

「ケッ」

「で、なんだよ、うまくいかねえってか?」

「あのオッサンどもが、そう易易キューリに会わせるとは思わなくてよ。妨害の障壁のひとつやふたつあっても、おかしくねえ」

「…まあ、そんな悪意に臆してるくらいなら、キューリを連れ帰るのはハナっから無理だろ」

「そうだな」

「あああ、股間掻いた手で歯磨き粉チューブに触るんじゃねえよっ!」

「おめーの鼻の穴に指つっこんだろか」

「何をぎゃーすか騒いでいるんですかーもー!」


 洗面所の騒ぎを聞きつけ、シビルがすっ飛んできた。


「よっ、シビル~」


 ニヤニヤと笑いながら、ギャリーがシビルの顔を撫でまくった。


「シビル、すぐ顔洗っとけ。股間を掻きまくった手だからよ」


 ザカリーが歯を磨きながら指摘する。


「ひいいいっ! 汚いっ!!」


 尻尾を逆立てて仰天すると、シビルは洗面台に飛びついた。



* * *



 アジトのあるエルダー街から、ハーメンリンナのベルトルド邸までの長い距離を、メルヴィンは色々なことを思い出していた。

 初めてライオン傭兵団にやってきたキュッリッキの様子、ナルバ山での出来事、フェルトの町まで短い旅をしたことなど。元気で屈託のない笑顔が、沢山心に焼きついていた。それなのに寸分も自分の気持ちに気付かなかったのが、どうしようもなく鈍いと改めて自覚する。

 なんだかキュッリッキに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、メルヴィンは頭を軽く振った。

 ここまできて、もう凹んでいる場合ではない。

 キュッリッキの想いも悩みも全て受け止め、ともに歩んでいく。そう、意思表示をするのだ。

 リニアに乗って目的区画まで移動し、地下通路を歩いてベルトルド邸のある地上通路に出る。ゴンドラは所有者しか出せず、招きのない者は地下通路を行く決まりだった。

 装飾された大きな鉄の門を開けて敷地に入る。門から玄関までは、さほど離れていない。

 地方にある貴族たちのカントリーハウスなどは、門から玄関までがとにかく遠く離れている。ここはハーメンリンナの中なので、それほど遠く設置されていなかった。概ね建物以外の敷地は、中庭が大きくスペースをとっている設計が多い。

 玄関前に立ち、獅子が輪を咥えているデザインのドアノッカーを数回叩く。あまり待たず鍵を開ける音がして、リトヴァが顔を見せた。


「これはメルヴィン様」

「こんにちは、リトヴァさん」


 メルヴィンはにっこりと微笑んで会釈する。リトヴァもつられたように笑顔で会釈した。


「どうなさいましたか?」

「リッキーさんはいますか? 会わせて欲しいんです」


 しかしリトヴァは複雑そうな表情で少し俯き、そして首を横に振った。


「申し訳ございません……。お嬢様はどなたにも、お会いになりません」

「……具合でも悪いんですか?」

「いえ、お元気でいらっしゃいますよ。ですが、その……」


 言いにくそうに口ごもるリトヴァを見て、メルヴィンには薄々察しが付いていた。

 おそらくベルトルドなどに、面会を断るように命じられているのだろう。そうでなければ、やしきに通すかキュッリッキを呼びに行くはずだ。


(やはり、こうきたか…)


 メルヴィンは小さく息をつくと、苦笑を浮かべた。


「出直してきます。リッキーさんに、オレが来たことを伝えておいてください」

「はい、申し訳ございません」


 丁寧に何度も謝られ、メルヴィンはねぎらいの言葉をかけて、ベルトルド邸をあとにした。



* * *



「あれ? メルヴィン一人なの?」


 アジトに戻ってきたメルヴィンを、ランドンが出迎えてくれた。


「はい……。また明日、出直してきます」


 苦笑を浮かべるメルヴィンを見て、「そっかあ」とランドンは残念そうに呟いた。

 昼食前だったので、食堂にみな首を揃えていた。


「キューリいっしょじゃねーのか?」


 ヴァルトがふんぞり返って言うと、メルヴィンは小さく頷いた。


「あらあら、キューリちゃん帰ってこなかったの?」


 キリ夫人が大鍋を乗せたワゴンを押して食堂へ入ってくる。


「キューリちゃんが帰ってくるっていうから、沢山ご馳走作ったのよ。残念だわ」


 ほかの料理を乗せたワゴンを押してあとからきたキリ氏も、とても残念そうにため息をついていた。


「すみません。面会謝絶だったので」

「ンなもん、ドア蹴破って入って連れて帰ってくればいいだけじゃねえか!」


 テーブルに料理の皿を並べる手伝いをしながら、ヴァルトが鼻息荒く言った。


「そーはいってもぉ、そんな無茶したら、メルヴィンが逆にぃ~叩き出されるだけだってばぁ」


 マリオンが呆れながら言うと、ルーファスも頷いた。


「あんまり事を荒立てると、本当に会えなくなりそう。こうなったら地道に通うしかないね」


 食堂のあちこちから頷きがあった。

 妨害されることなど、端っから折り込み済みである。


「インケンエロおやじどもめ!」


 大きなパンにあらゆる具材を挟み込んで、ヴァルトはガブッとかぶりついた。それを見て、みな食事を開始した。

 席に着いたメルヴィンを、カーティスが気遣わしげに見やる。


「気持ちを切り替えて、明日に備えましょう」

「ええ、そうですね」


 メルヴィンが訪れたことも、おそらくキュッリッキにはしらされないだろう。リトヴァの様子を見ればそのくらい判る。

 強引にやしきの中へ入って、キュッリッキに会うこともできる。しかしベルトルドやアルカネットが居ないとしても、ベルトルド邸の使用人たちはそれぞれ特殊な〈才能〉スキルを持つ者たちが多い。執事代理のセヴェリやハウスキーパーのリトヴァなど、上級レベルの超能力サイの持ち主だ。さすがのメルヴィンでも、超能力サイを持つ者を相手にするのは分が悪い。

 ルーファスが言うように、ことを荒立てることは賢明ではない。根気強く正面から会いに行くしかないのだ。

 そしてメルヴィンには、密かに期待していることがある。

 キュッリッキが自ら、やしきを飛び出してくることを。

 心に大きな傷を抱えた彼女が、自分の意思でアジトに戻ってくるかどうかは難しい。たとえベルトルドやアルカネットが妨げにならなくても、出てくる勇気を持てるだろうか。

 超能力サイのないメルヴィンには、心を覗いて知る術はない。これまで得た断片的な情報からしか、察してやることができないのだ。

 どれだけの大きな傷を心に抱えているのか、どれほどの重い過去を背負っているのか判らない。

 しかし、メルヴィンは信じてやりたいと思っている。全てを乗り越えて、前に進もうとする勇気が持てることを。みんなのもとへ、そして、自分のもとへ帰ってくると。

 そのためにも、通わなくてはならない。想いが少しでも届くように。


(もう一人で抱え込まなくてもいい、一緒に前に進もう。――愛しているから)


 メルヴィンの戦いは、始まったばかりだ。



* * *



 リトヴァはこのところ毎日一回は、必ず重いため息をついた。つかずにはいられない出来事が、ほぼ決まった時間に訪れるからだ。

 本来、来客などの応対は執事が行う。現在の執事は代理の肩書きを持つセヴェリだが、ある特定の人物にのみ、例外としてリトヴァが応対するよう命じられている。


「リッキーさんに、会わせてもらえませんか?」


 彼は毎日やってきて、そう頼んでくる。しかし、この頼みを受けることができない。


「いいか、ライオンの連中、とくにメルヴィンがきても、絶対にリッキーに会わせるな」


 こうベルトルドとアルカネットから、重々厳命されているからだ。

 こんな胸の悪くなるような命令は、無視したいのがリトヴァの本音である。

 キュッリッキの世話を特別に任されているリトヴァは、日々キュッリッキが「メルヴィンに会いたい」と言っているのを聞いている。そのメルヴィンがキュッリッキに会うために、毎日訪れているというのに、それを耳に入れることさえ禁じられていた。

 モナルダ大陸で行われた戦争に、キュッリッキも連れて行かれていたのだが、急にアルカネットに連れられてやしきに戻ってから、どこか様子が変だった。

 詳細は知らされていないものの、キュッリッキが何か重いものを抱えて悩んでいることだけは判る。超能力サイを持つリトヴァだが、勝手に他人の心を覗くことだけは絶対にしない。生憎ベルトルドのように、相手の記憶や心が勝手に流れ込んでくることがないだけマシだ。

 悩み苦しみつつも、ずっとメルヴィンを恋しく思っている様子のキュッリッキに、知らせてやりたくてしょうがない。

 かつて怪我で臥せっていたキュッリッキのそばに、献身的に付き添っていたメルヴィン。そんな2人の様子は微笑ましく、心に温かかった。それなのに、何故こうも思い合う2人を妨げる役を、押し付けられなければならないのだろうか。


「言ってやりとうございますよ…」


 リトヴァの鬱憤は、日に日に蓄積されていった。



* * *



 ハーメンリンナから戻ってくると、アジトの前に品の良い馬車が停まっていた。


「来客かな?」


 メルヴィンは小さく首をかしげながら、玄関のドアを開けた。


「ああ、帰りましたよ」


 簾のように垂れ下がる前髪の奥に、ホッとしたような表情を浮かべるカーティスが振り向いた。


「あ…、グンヒルドさん?」


 立ち上がった女性に、メルヴィンは驚きの表情を浮かべた。


「ご無沙汰しております、メルヴィンさん」


 キュッリッキの家庭教師をつとめるグンヒルドが、柔らかい笑みを浮かべた。


「どうしたんですか? こんな、ハーメンリンナの外になんて」

「あなたとお話がしたくて、押しかけましたのよ」


 ホホホ、と軽やかな笑い声を上げ、グンヒルドはいっそう笑みを深める。


「メルヴィン、このようなところで立ち話もなんですから、応接間のほうへ」

「あ、はい」


 カーティスに促され、メルヴィンはグンヒルドを伴って、応接間に向かった。




 アジトにも、狭いながら応接間がある。あまり高い家具ではないが、ルーファスのインテリアコーディネートで、落ち着いた品のいい部屋になっていた。

 ちなみに、最初はカーティスがやったのだが、成金趣味が酷すぎて、全員から却下されている。

 グンヒルドに椅子をすすめながら、メルヴィンは向かい側の椅子に座る。

 マーゴットが紅茶のカップを運んできて2人の前に置くと、すぐ部屋を出て行った。


「オレに話っていうのは…?」


 どこか困ったように言うメルヴィンをチラリと見て、グンヒルドは紅茶のカップを手に取る。

 くゆる湯気を嗅いで、グンヒルドは満足そうに微笑んだ。


「現在わたくし、ベルトルド邸の出入りを禁止されておりますの」

「え?」

「キュッリッキさんのお勉強の再開は不明、ご本人に会うことも禁止、詳細は教えていただけず、困ってますのよ。お給料はちゃんと頂いているのですけれど」


 紅茶を一口飲んで、グンヒルドは肩をすくめた。


「ですが、リトヴァさんから、メルヴィンさんにお訊ねになれば、なにか判るかもしれませんと伺いました」

「オレですか?」


 メルヴィンは固まったまま、グンヒルドの顔を見つめる。


「副宰相閣下からハブられた者同士ですわね。詳しいことを、お話下さいませ。何かお力になれることが、あるかもしれませんから」


 どこか、否と言わせない迫力を、その笑みの奥深くから感じ、メルヴィンは素直に首を縦に振った。

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