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第六十話 宦官(一)

 それから数日後、劉備りゅうび関羽かんう張飛ちょうひの三人は洛陽らくようから旅立っていった。


 劉備りゅうびらは、何進かしんの部下で毋丘毅ぶきゅうきという校尉こういの指揮下に入った。そして彼に従って丹陽郡たんようぐん(揚州ようしゅうの北部、現代の江蘇省こうそしょうの辺り)に赴いて募兵を行うこととなった。


 なんでもこの丹陽郡たんようぐんで暮らす人々は精強で有名らしい。この地での募兵は期待されているようだ。そのメンバーに劉備りゅうびが選ばれたのも盧植ろしょくからの推薦のおかげなのだろう。


 もしかしたら、ここでの募兵を経て、劉備りゅうび軍は数段パワーアップできるかもしれない。そんな期待をしながら、洛陽らくように残る僕は劉備りゅうびらの旅立ちを見送った。


「さて、劉備りゅうびらも見送ったし、馬超ばちょうこう少年の元に戻るか」


 僕は二人のいる盧植ろしょく邸へと帰っていった。


 ちなみに馬超ばちょうだが、劉備りゅうびは彼も募兵のメンバーに誘ったが、断られてしまった。


「募兵への参加ですか?


 遠慮しますよ。


 私の役目は雒陽らくようでの情報収集です。


 なにより、今回の募兵の目的が韓遂かんすいらの討伐なら尚更です。私の父・馬騰ばとうは彼らに協力して反乱を起こしました。


 もし、募兵に参加して、父と戦うことになったら目も当てられませんからね」


 もっともな意見だ。馬超ばちょうがこの募兵に参加する理由が無さ過ぎる。


 これには劉備りゅうびもウッカリしていたと謝罪した。さらには、もし戦場で馬騰ばとう軍と戦うことになっても逃げるだけの時間は稼ぐと約束した。


 馬超ばちょうからしたら討伐軍を組織するという情報が得られたのは大きな収穫らしい。


 そんなわけで、馬超ばちょう馬騰ばとうに手紙を送り、洛陽らくように滞在してギリギリまで討伐軍の情報を得ることにしたようだ。


 こうして、僕・劉星りゅうせいと、馬超ばちょうこう少年の三人はこのまま洛陽らくよう盧植ろしょく邸に残ることとなった。


 〜〜〜


 劉備りゅうびらが丹陽へ旅立った頃からさかのぼること三ヶ月ほど前、宮城のすぐ外の片隅を一人の青年が進んでいた。宮城の直ぐ側にありながら人気の無いみすぼらしい小屋。それがこの青年の目的地であった。


 青年の年齢は二十代前半。体つきは痩せ過ぎている印象を受ける。服もみすぼらしく、あまり裕福では無さそうだ。彼の顔はその辺りを歩けば十人は似たような人を見つけられるほど、どこにでもいる顔をしていた。目は小さく、髭はチラホラと生えており、色黒であった。


 そんな、特徴の乏しい、みすぼらし格好の青年が歩いても、一々誰も見向きもしなかった。周辺の人々は彼が入ろうとするその小屋がどういうものかは知っていた。だが、それを誰も気にも止めなかった。


 青年はオドオドとした様子で、小屋の扉を叩いた。


 その合図に合わせ、扉はゆっくりと開かれる。扉の中からは禿げ上がった額に、ナマズのような髭を生やした老人が姿を現した。老人は無遠慮に、訪ねてきた青年をめつすがめつ眺めて、ゆっくりと口を開いた。


「お前さんが連絡くれた子かい?」


 老人はよく耳を澄ませねば聞き取れないほどのかすれた声だ。青年はじっくりと聞き取った後、静かにうなずいた。


 老人は青年をうながし、小屋の中へと誘った。


 小屋の中には既に数人の男性が待ち構えていた。その様子に、青年は否が応にも緊張する。


 強張る青年に、老人は声を掛ける。


「改めて聞くが、本当に後悔はしないね?」


「は、はい、よろしくお願いします」


 青年は口籠りながらも、力強く答えた。


 さらに青年はオズオズと老人に尋ねる。


「それで、“自宮じきゅう”の費用なんですが⋯⋯。


 あいにく、手持ちが無くて⋯⋯。


 後払いでも良いと聞いたのですが⋯⋯」


 青年は申し訳無さそうな態度だ。それに対して老人は特に気にする様子もなく答えた。


「お前さんは身元もしっかりしとるし、後払いで構わんよ。


 それに請求から逃げられるものでもないからのぉ。


 “宦官かんがん”として出仕してしまえばな」


 そう、ここは宦官かんがんになるための小屋であった。この青年は宦官かんがんになる手術を受けにここに来た。そして、彼の言う“自宮じきゅう”とは、宦官かんがんになるための去勢手術のことであった。


 青年は意を決して、小屋の奥へと進んでいく。壁の棚には小さな小箱がいくつも並ぶ。その小箱からはプンと嫌な臭いが漂っていた。

 青年はその臭いを嗅ぎ、恐らく小箱の中には、自分がこれから失うであろうものが詰められていることを察した。


「さて、では始めようか」


 この老人の言葉に合わせて、小屋の中にいた数人の男たちが準備を始める。この老人が去勢手術を行う執刀人、つまり医者であり、数人の男たちは彼の弟子であった。去勢手術は普通の医者は行わない。去勢の技術は代々、数家族による世襲でもって伝えられた。この老人も、この弟子たちも皆、執刀人になる家系の生まれであった。


 手術を受ける青年は服を脱いで裸になり、弟子たちの手によって腹の下に白い紐が結ばれた。場所は下腹部の股間の間辺り。紐は痛いほど固く結びつけられた。


 紐が結ばれた青年は「痛い」と内心、思った。だが、これから起こる痛みはこんなものではないと覚悟し、言葉は発しなかった。


 そして、弟子の一人は、これから切り落とす青年のその物体を、熱湯でもって入念に洗い出した。


 青年は「熱い」と感じていたが、それ以上に男に入念に自身のものが洗われる恥ずかしさが勝った。洗う男は慣れているのだろう。表情一つ変えず、黙々と洗っている。


 そうこうしていると、執刀人の老人が姿を現した。その手には刃が湾曲した小さな鎌が握られている。


 青年はその鎌を見て一瞬、ギョッとしたが、すぐに気持ちを落ち着かせて平常心を務めた。青年は、執刀人に不安な様子を見せると、手術が中止されることを知っていた。


 執刀人の老人は再び、「後悔はしないか」と尋ねる。青年は「ない」と力強く答えた。


 青年の洗浄が終わったようだ。青年はそのまま弟子にうながされ、横向きに寝かせられる。弟子の一人は彼の腰を、二人は足をしっかりと押さえつける。


 執刀人は青年の前に屈み、彼の陰茎と睾丸の根元に手にした鎌を添える。そして、「後悔はしないか」と尋ねるのであった。例えどんなに直前であっても、依頼者が不安な様子を見せたら、手術は即座に中止される決まりになっていた。


 青年は力強く「はい!」と答えた。


 その目に不屈の意思を感じた執刀人は、躊躇ためらうことなくその鎌を勢い良く引いた。鎌の刃は一瞬の光を放ち、白線をまっすぐ描いた。次の瞬間、青年の陰茎と睾丸がゴロリと落ちた。


 青年は切られた瞬間、痛みを感じなかった。だか、自身の陰茎は切り落とされ、血が噴き出した。そして、強烈な痛みが青年を襲った。


 それからの仕事の早さはまさに職人技であった。執刀人は手慣れた早さで、あらわになった尿道に栓を詰めた。そして、傷口を冷水に浸した細長い布で覆い、包帯のように股間をグルグルと巻いて青年の局部を包んだ。


 痛みに悶絶する青年は、二人の弟子の肩に抱えられ、無理やり立たされる。それから二、三時間に渡り、青年は二人の肩を借りながら、強引に部屋の中を歩かされた。青年は痛みを堪え、意識が朦朧もうろうとなりながらも歩き続けた。歩き終え、ようやく青年は横になる事を許された。


 青年はようやく終わったのかと、ぼんやり考えていた。だが、手術の苦しみはこれからが本番であった。


 それから三日間、青年は水を飲むことも何か食べることも許されなかった。強烈な渇きと空腹、さらに局部の強烈な痛みと痒みが青年を苦しめる。


 青年は「これで裕福になれる」「貧乏に苦しまなくて済む」と自身に言い聞かせ、三日間を耐え抜いた。


 三日の後、青年の局部を覆っていた布が取り払われ、栓が抜かれた。それと同時に噴水のように尿が止め処なく流れ出た。この噴き上がる尿を見て、それまで無表情であった執刀人たちは安堵の表情を浮かべるのであった。

 なお、この時に尿が出なければ手術は失敗である。その場合、患者は必ず死んだ。失敗した者を助ける術は何も無かった。しかし、この去勢手術の成功率は極めて高かったという。


 青年の去勢手術はようやく終わった。


 だが、ここからは約百日に及ぶ長い治療生活が始まるのであった。


 傷口が治るまでの百日の間に、青年の体は変化していった。


 まず、声が高くなった。女性的というよりは金切り音のようで、発する自分でさえ不快であった。

 また、チラホラと生えていた髭は抜け落ち、以降、全く生えてこなくなった。

 さらに、青年の痩せていた体に肉がつきやすくなり、段々と腹がたるんできた。その肉は柔らかく、締まりが無かった。


 そして、度々、おねしょをした。青年は陰茎を失って以降、尿意を上手く我慢が出来なくなっていた。このおねしょを治すには、ただ、本人が頑張るしかないようである。術後すぐは大目に見てもらえるが、朝廷への出仕後も繰り返すようであれば、厳しい折檻せっかんを受けるという。青年はその話を聞いて震え上がった。


 さらに感情も変化していた。不意に涙が流れ出すかと思えば、ちょっとしたことで腹を立てた。どうにも感情の抑制が効かなくなっていた。


 青年は数々の身体の変化に戸惑った。


 宦官かんがんになるための去勢手術の後の変化を女性的になると表現されることがある。髭が生えず、声が高くなるためである。この変化により、中には若い女性が男装しているかのような容貌の宦官かんがんもいたのは確かである。


 だが、それは元々、容姿が整っている者が宦官かんがんになった場合である。ほとんどの宦官かんがんは醜く変貌していた。

 ただ、歳を取れば老婆と区別がつかなくなる。


 そして、傷の治療が終わると、青年はいよいよ宦官かんがんとして出仕するようになる。


 青年にとってはこれからが本番であった。欲望渦巻く伏魔殿ふくまでんに、この日、新たな宦官かんがんが加わった。


《続く》


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