「お久しぶりですな、張常侍」
まだ少し肌寒さの残る春のとある一日、中宮(皇后のいる宮殿)の直ぐ側にある廊下で、老宦官同士の挨拶が行われていた。
声を掛けられている痩せこけた老宦官は中常侍・張譲。宦官の中心人物である。
張譲は話しかけてきた人物に返事をした。
「久しいですな、趙長秋」
張譲に話しかけたもう一人の老宦官の名は趙忠。字は士信。
張譲と並ぶ宦官の首魁の一人で、彼より位は高く、大長秋という役職に就く。
大長秋は、皇后に仕え、皇后の言葉を代わりに伝える役目を負う。また、皇后の外出時には同行する。元は張譲と同じ中常侍の職に就いていたが、八年前、前任者の曹節が亡くなったのを受け、この職に就いた。
彼の腰には青色の綬が下がっていた。
歳は五十を半ば過ぎた頃。髭はなく、頬には無数の皺があり、実年齢以上に老けて見える。老婆にも似たような顔つきである。目は垂れ下がり、顎は弛んでいる。腹の肉はでっぷりとしており、締まりが無い。その声は妙に甲高く、宦官特有の生臭い異臭を放っている。
肉が弛みやすい宦官において、張譲のような痩せた体型は珍しい。こちらの趙忠は、まさに典型的な宦官といった容姿をしていた。
「趙長秋、あなた、また屋敷を大きくしましたね。
この宮城からでもあなたの屋敷が良く見えますよ」
「ホホ、少し大きくしただけでございます。
あまりいじめてくださいますな」
趙忠は笑って答える。
張譲も趙忠も賄賂を好んだ。そして、派手な生活を送っていた。その中でも趙忠の生活の豪勢な様は、宦官の中でも頭一つ飛び抜けていた。彼は度々、その豪邸や華美な装飾が名士たちの槍玉に上げられていた。
「名士たちがいくら噛み付いたところで、私たちの手にかかればいくらでも葬れます。
しかし、最近、陛下は益々改革を熱心に行っております。陛下のご機嫌だけは損ねないようにお願いしますよ。
少なくともこの宮城より屋敷を高く造るのはお止めなさい」
張譲が気に掛けるのは霊帝一人であった。言い換えれば、陛下の機嫌さえ取っていれば、全ては思い通りになるという絶対の自信を持っていた。張譲たちにとって、名士さえも敵ではなかった。
「わかっておりますとも。
陛下あっての我らでございます」
趙忠も気持ちは同じであった。霊帝のご機嫌取りだけが彼の関心事であった。華美を好む彼も、霊帝の目にだけは止まらぬよう心を砕いていた。
そう言う趙忠に対し、張譲は両手を後ろでゆるりと組み、話し出した。
「まあ、暫くの辛抱ですよ。
史侯が御位に即けば、好きに改築できることでしょう」
その張譲の言葉に、趙忠は小さな目を見開いて、ギョッとする。張譲の言葉はまるで霊帝が死ぬことを望んでいるかのような話である。
趙忠は周囲をキョロキョロと見回し、小声で張譲に忠告した。
「ゴホン、張常侍、それはいささか不敬ではございませぬか。
どこで誰が聞き耳を立てているかわかりませんよ」
その言葉を張譲は笑い飛ばす。
「ホホ、告げ口されたところで、陛下を説得すれば良いだけのこと」
名士を歯牙にもかけない張譲は、その程度のことで狼狽えはしなかった。彼は今まで自分を讒言する人物を何人も粛清してきた。その経験が彼に絶対の自信を与えていた。
張譲の笑い声を聞き、趙忠も安心する。
張譲は宦官の中でも肝が太かった。だからこそ、彼は宦官のまとめ役になれたのである。趙忠も彼の肝の太さには何度も助けられた。
「それもそうですな。
しかし、陛下はご壮健であられる。すぐに史侯が即位されることはないでしょう」
だが、そうは言っても霊帝は御年まだ三十四歳。暇があれば車馬を乗り回すような精力的な人物である。すぐに亡くなるとは到底考えられないような相手だ。
だが、張譲は霊帝の別の一面を知っていた。
「そうでしょうかな。
私の義子から聞いた話ですが、最近の陛下の不摂生ぶりは目に余るようでございます。今はご壮健でも、五年後、十年後はわかりませんよ」
張譲は背筋を伸ばし、不適に笑った。
「ふむ、張常侍の御子息と言えば太医令(医者を統括する役職)を務めておられましたな。
それならば確かな情報かもしれません。
ならば、早く史侯を皇太子にしなければなりませんな」
霊帝には二人の皇子がいた。兄の劉弁は、何進の妹・何皇后との子であった。何皇后は元を正せば、張譲らの同僚・郭勝が見つけて、後宮に招いた人物であった。
そのため、張譲ら多くの宦官は何皇后と手を組み、その息子である劉弁を次期皇帝にしようと画策していた。
「ええ、史侯さえ皇太子になれば我らは安泰です。
全く、なにゆえ陛下は未だに皇太子を決めようとされないのか⋯⋯」
劉弁には劉協という異母弟がいた。張譲らは兄である劉弁を皇太子にすべきと度々進言した。だが、霊帝は未だに皇太子を立てず、周囲の者たちをヤキモキさせた。
そして、静かに後継者争いが勃発していた。
「これはこれは、張常侍に趙長秋、お久しぶりでございます」
二人が話していると、また一人、老宦官が向かってきた。彼は宦官独特の前屈みになって、ちょこちょこと小股で歩く歩法で近づいてきた。この歩き方は去勢した宦官が無意識によくやる歩き方であった。
歩み寄ってきた宦官の歳は張譲らよりわずかに若い。深い皺に、弛んだ腹。団子鼻が特徴の男であった。
「段常侍ですか、お久しいですな」
張譲は彼に挨拶をした。
やってきた彼は張譲と同じ中常侍を務める、段珪。字は公璋という人物であった。
張譲、趙忠、段珪、彼ら三人を含む十二人の宦官はかつて同時に中常侍の役職に就任し、権勢を振るった。
名士たちは彼ら十二人を総称して、『十常侍』と呼んだ。
今となっては、趙忠のように昇進したり、亡くなっている者も出てきているが、彼らは依然として絶大な権力を握っていた。
張譲はさらに、段珪の後ろに一人の見慣れぬ青年が付き従っているのが見えた。
「段常侍、その青年は何者ですか」
「この者は新人でございます。今、この宮城を案内して回っているところでございます。
ほら、張常侍に趙長秋だ。挨拶を」
段珪はそう言って後ろの青年に促した。青年は宦官になったばかりのようで、その挙動には初々しさがあった。
青年は少し肉は弛んでいるが、宦官としてだいぶ痩せていた。目は小さく、その顔に取り立てて特徴は無かったが、ただ、色白の多い宦官の中では珍しく、色黒の肌であった。
「お初にお目にかかります。私は尹逸、字は子安と申します。
御高名なお二人に会えて光栄でございます」
挨拶をした青年の目は、二人を仰ぎ見るようであった。その目には確かな野心が渦巻いていた。
この時、張譲ら四人の会話を物陰から密かに聞く者がいたが、まだ誰もその存在には気づいていなかった。
《続く》