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第六十一話 宦官(二)

「お久しぶりですな、張常侍ちょうじょう


 まだ少し肌寒さの残る春のとある一日、中宮(皇后のいる宮殿)の直ぐ側にある廊下で、老宦官かんがん同士の挨拶が行われていた。


 声を掛けられている痩せこけた老宦官かんがん中常侍ちゅうじょうじ張譲ちょうじょう宦官かんがんの中心人物である。


 張譲ちょうじょうは話しかけてきた人物に返事をした。


「久しいですな、趙長秋ちょうちゅう


 張譲ちょうじょうに話しかけたもう一人の老宦官かんがんの名は趙忠ちょうちゅうあざな士信ししん


 張譲ちょうじょうと並ぶ宦官かんがんの首魁の一人で、彼より位は高く、大長秋だいちょうしゅうという役職に就く。


 大長秋だいちょうしゅうは、皇后に仕え、皇后の言葉を代わりに伝える役目を負う。また、皇后の外出時には同行する。元は張譲ちょうじょうと同じ中常侍ちゅうじょうじの職に就いていたが、八年前、前任者の曹節そうせつが亡くなったのを受け、この職に就いた。


 彼の腰には青色のじゅが下がっていた。


 歳は五十を半ば過ぎた頃。髭はなく、頬には無数の皺があり、実年齢以上に老けて見える。老婆にも似たような顔つきである。目は垂れ下がり、顎は弛んでいる。腹の肉はでっぷりとしており、締まりが無い。その声は妙に甲高く、宦官かんがん特有の生臭い異臭を放っている。


 肉が弛みやすい宦官かんがんにおいて、張譲ちょうじょうのような痩せた体型は珍しい。こちらの趙忠ちょうちゅうは、まさに典型的な宦官かんがんといった容姿をしていた。


趙長秋ちょうちゅう、あなた、また屋敷を大きくしましたね。


 この宮城からでもあなたの屋敷が良く見えますよ」


「ホホ、少し大きくしただけでございます。


 あまりいじめてくださいますな」


 趙忠ちょうちゅうは笑って答える。


 張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅうも賄賂を好んだ。そして、派手な生活を送っていた。その中でも趙忠ちょうちゅうの生活の豪勢な様は、宦官かんがんの中でも頭一つ飛び抜けていた。彼は度々、その豪邸や華美な装飾が名士たちの槍玉に上げられていた。


「名士たちがいくら噛み付いたところで、私たちの手にかかればいくらでも葬れます。


 しかし、最近、陛下れいていは益々改革を熱心に行っております。陛下れいていのご機嫌だけは損ねないようにお願いしますよ。


 少なくともこの宮城より屋敷を高く造るのはお止めなさい」


 張譲ちょうじょうが気に掛けるのは霊帝れいてい一人であった。言い換えれば、陛下の機嫌さえ取っていれば、全ては思い通りになるという絶対の自信を持っていた。張譲ちょうじょうたちにとって、名士さえも敵ではなかった。


「わかっておりますとも。


 陛下れいていあっての我らでございます」


 趙忠ちょうちゅうも気持ちは同じであった。霊帝れいていのご機嫌取りだけが彼の関心事であった。華美を好む彼も、霊帝れいていの目にだけは止まらぬよう心を砕いていた。


 そう言う趙忠ちょうちゅうに対し、張譲ちょうじょうは両手を後ろでゆるりと組み、話し出した。


「まあ、暫くの辛抱ですよ。


 史侯りゅうべん御位みくらいに即けば、好きに改築できることでしょう」


 その張譲ちょうじょうの言葉に、趙忠ちょうちゅうは小さな目を見開いて、ギョッとする。張譲ちょうじょうの言葉はまるで霊帝れいていが死ぬことを望んでいるかのような話である。


 趙忠ちょうちゅうは周囲をキョロキョロと見回し、小声で張譲ちょうじょうに忠告した。


「ゴホン、張常侍ちょうじょう、それはいささか不敬ではございませぬか。


 どこで誰が聞き耳を立てているかわかりませんよ」


 その言葉を張譲ちょうじょうは笑い飛ばす。


「ホホ、告げ口されたところで、陛下を説得すれば良いだけのこと」


 名士を歯牙にもかけない張譲ちょうじょうは、その程度のことで狼狽うろたえはしなかった。彼は今まで自分を讒言ざんげんする人物を何人も粛清してきた。その経験が彼に絶対の自信を与えていた。


 張譲ちょうじょうの笑い声を聞き、趙忠ちょうちゅうも安心する。


 張譲ちょうじょう宦官かんがんの中でも肝が太かった。だからこそ、彼は宦官かんがんのまとめ役になれたのである。趙忠ちょうちゅうも彼の肝の太さには何度も助けられた。


「それもそうですな。


 しかし、陛下れいていはご壮健であられる。すぐに史侯りゅうべんが即位されることはないでしょう」


 だが、そうは言っても霊帝れいていは御年まだ三十四歳。暇があれば車馬を乗り回すような精力的な人物である。すぐに亡くなるとは到底考えられないような相手だ。


 だが、張譲ちょうじょう霊帝れいていの別の一面を知っていた。


「そうでしょうかな。


 私の義子むすこから聞いた話ですが、最近の陛下れいていの不摂生ぶりは目に余るようでございます。今はご壮健でも、五年後、十年後はわかりませんよ」


 張譲ちょうじょうは背筋を伸ばし、不適に笑った。


「ふむ、張常侍ちょうじょうの御子息と言えば太医令たいいれい(医者を統括する役職)を務めておられましたな。


 それならば確かな情報かもしれません。


 ならば、早く史侯りゅうべんを皇太子にしなければなりませんな」


 霊帝れいていには二人の皇子がいた。兄の劉弁りゅうべんは、何進かしんの妹・何皇后かこうごうとの子であった。何皇后かこうごうは元を正せば、張譲ちょうじょうらの同僚・郭勝かくしょうが見つけて、後宮に招いた人物であった。


 そのため、張譲ちょうじょうら多くの宦官かんがん何皇后かこうごうと手を組み、その息子である劉弁りゅうべんを次期皇帝にしようと画策していた。


「ええ、史侯りゅうべんさえ皇太子になれば我らは安泰です。


 全く、なにゆえ陛下れいていは未だに皇太子を決めようとされないのか⋯⋯」


 劉弁りゅうべんには劉協りゅうきょうという異母弟がいた。張譲ちょうじょうらは兄である劉弁りゅうべんを皇太子にすべきと度々進言した。だが、霊帝れいていは未だに皇太子を立てず、周囲の者たちをヤキモキさせた。


 そして、静かに後継者争いが勃発していた。


「これはこれは、張常侍ちょうじょう趙長秋ちょうちゅう、お久しぶりでございます」


 二人が話していると、また一人、老宦官かんがんが向かってきた。彼は宦官かんがん独特の前屈みになって、ちょこちょこと小股で歩く歩法で近づいてきた。この歩き方は去勢した宦官かんがんが無意識によくやる歩き方であった。


 歩み寄ってきた宦官かんがんの歳は張譲ちょうじょうらよりわずかに若い。深い皺に、弛んだ腹。団子鼻が特徴の男であった。


段常侍だんけいですか、お久しいですな」


 張譲ちょうじょうは彼に挨拶をした。


 やってきた彼は張譲ちょうじょうと同じ中常侍ちゅうじょうじを務める、段珪だんけいあざな公璋こうしょうという人物であった。


 張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅう段珪だんけい、彼ら三人を含む十二人の宦官かんがんはかつて同時に中常侍ちゅうじょうじの役職に就任し、権勢を振るった。


 名士たちは彼ら十二人を総称して、『十常侍じゅうじょうじ』と呼んだ。


 今となっては、趙忠ちょうちゅうのように昇進したり、亡くなっている者も出てきているが、彼らは依然として絶大な権力を握っていた。


 張譲ちょうじょうはさらに、段珪だんけいの後ろに一人の見慣れぬ青年が付き従っているのが見えた。


段常侍だんけい、その青年は何者ですか」


「この者は新人でございます。今、この宮城を案内して回っているところでございます。


 ほら、張常侍ちょうじょう趙長秋ちょうちゅうだ。挨拶を」


 段珪だんけいはそう言って後ろの青年に促した。青年は宦官かんがんになったばかりのようで、その挙動には初々しさがあった。


 青年は少し肉は弛んでいるが、宦官かんがんとしてだいぶ痩せていた。目は小さく、その顔に取り立てて特徴は無かったが、ただ、色白の多い宦官かんがんの中では珍しく、色黒の肌であった。


「お初にお目にかかります。私は尹逸いんいつあざな子安しあんと申します。


 御高名なお二人に会えて光栄でございます」


 挨拶をした青年の目は、二人を仰ぎ見るようであった。その目には確かな野心が渦巻いていた。


 この時、張譲ちょうじょうら四人の会話を物陰から密かに聞く者がいたが、まだ誰もその存在には気づいていなかった。


《続く》

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