宦官の長・張譲は自身の顎をつまみながら、新人と名乗る青年の挨拶を聞いていた。
「君はなかなか見どころがありそうだ。我らの仲間としてよく励みなさい。
ところで君には何か得意なことがありますか?」
張譲からの問いかけに、青年は張り切って答えた。
「はい、私には学がございません。
ですが、車馬の運転が出来ます」
その答えに、張譲は満足気に顎を高く上げて答えた。
「それは良い。
車馬の運転が出来るなら、貴人を乗せることもあるでしょう。その時、覚え目出度ければ、名を売る好機もあるやもしれません」
「はい、頑張ります!」
青年は張譲の言葉に希望を見い出し、身を乗り出して力強く返事をした。
張譲は頷きながら、続けて段珪に尋ねた。
「それにしても、あなたが新人の案内とは殊勝なことですな」
それに段珪は笑って答えた。
「いえいえ、手が空いておりましたもので。
同じ種族として当然のことでございます」
この段珪も例に漏れず、宦官というものは自分より強い者には尾を振り、媚び諂って、迎合する性分であった。
その一方で、女子供や小動物のようなか弱い者をかわいがる性分でもあった。例えば一見、非情に思える張譲も、自身の奴隷をよくかわいがっていた。
また、宦官は同じ宦官に対して強い仲間意識を持っていた。そのため、宦官の張譲に並ぶ幹部の段珪自らが、新人の案内を申し出たのである。
「さて、それではそろそろ⋯⋯」
そう言って、段珪が新人を連れて行こうとした時、一人の男が大股でカッカッと音を立てて彼らの元に近づいてきた。
「これはこれはお歴々。お久しぶりでございます」
「お前は⋯⋯蹇碩⋯⋯!」
張譲たちの元に近づいてきたのは、同じ宦官ではあるが、現在は軍部の上軍校尉を務める蹇碩であった。
彼の年齢はまだ三十代ほどで若く、また、宦官にしては逞しい肉体をしていた。そして、服装も武官の紅色の衣裳を着用していた。
張譲らは同じ宦官ではあったが、この蹇碩に関してはあまり良い感情を持っていなかった。しかし、それは蹇碩もよく理解していた。
「張常侍、私も同じ宦官ではございませぬか。そのような怪訝な顔をしないでください」
そう語る蹇碩であったが、その言葉には棘があり、目は嘲笑っているかのようであった。
「蹇碩⋯⋯いえ、蹇上軍。
あなたは最近、陛下を連れ回しているようですが、陛下には御公務があります。
あまり、お疲れにならぬよう、臣下であるならばお気をつけなさい」
張譲の言い方は遠回しであったが、要は霊帝の側近くにいるなという牽制であった。
それがわかっている蹇碩は、張譲相手に全く怯む様子を見せなかった。
「あれは陛下からの御命令でございます。私は陛下の命とあらばどこまでもついていく所存でございます」
そう答える蹇碩に、張譲はフンと鼻を鳴らす。蹇碩は気にする素振りも見せず、さらに得意気に話を続けた。
「それと、私はこの度、上軍のみならず、西園軍全体の指揮を仰せつかりました。
なので、これからは私のことは上軍ではなく、西園とでも呼んでもらいましょうか。
蹇西園、良い名でしょう」
そう言って蹇碩は不快な笑い声を上げる。当然、張譲らはピクリとも笑わなかった。
宦官も決して一枚岩ではなかった。張譲らのグループが最大派閥ではあったが、それに属さない宦官、反発する宦官も少なからずいた。そして、反発する宦官の中で、今最も勢いのあるのが、この蹇碩であった。
蹇碩は近頃、霊帝お気に入りの寵臣であった。宦官でありながら、西園軍の上軍校尉に任命されたのでさえ、異例の昇進であった。それなのに、最近は西園軍全体の指揮まで担い、今まさに絶頂期であった。
張譲、趙忠らももちろん、霊帝の寵臣であった。かつて、霊帝は「張譲は我が父、趙忠は我が母」と呼んだ。幼くして即位した霊帝にとって、彼らはまさに両親に等しいほどの頼りになる存在であった。
しかし、霊帝も年を取って壮年になると、いつまでも保護者任せにせず、自らの手で政治を行いたいと思うようになる。そうなると、頼りにするのは、張譲や趙忠ら親世代の保護者ではなく、同世代の友人である。それがまさに蹇碩であった。張譲らと蹇碩の対立は、旧世代と新世代の対立であった。
だが、双方の対立は世代間闘争だけに留まらなかった。
「そう言えば、声が聞こえましたが、この青年は新人だそうですね」
蹇碩はさらに新人の方に目を向けた。
「しかも、車馬の運転が出来るとか。それは是非とも我が西園軍に頂きたいですね」
そう言って蹇碩は、新人の青年に近づいた。青年はどうして良いか分からず、ただ、オロオロとしていた。
その間に段珪が入り込み、張譲が蹇碩の行状を窘めた。
「既にその子は我らの部署に所属している。
それを掠め取るような真似はお止めなさい。
軍部には軍部の人材が揃っているでしょう」
睨みつける張譲に対し、蹇碩はあくまでにこやかな表情で威圧的に答えた。
「掠め取るとは人聞きの悪い。
私は陛下肝いりの我が西園軍を強化しているだけでございますよ」
しかし、張譲はさらにより強い圧を蹇碩にかけた。
「西園軍は西園軍で塀を募っているでしょう。
わざわざ宦官から採用することも無いでのではないですか」
張譲の一言により、一触即発の空気が流れた。
《続く》