両者の間に一触即発の空気が流れたが、相手は大宦官・張譲。さすがの蹇碩もそれ以上の喧嘩は避けたかったと見え、事を荒立てるのを止めた。
「ま、まあ、私も忙しいのでこのぐらいで失礼いたします。
なにしろ、先ほどまで永楽宮(太后の住む宮殿)で永楽太后にお会いしてましたからね。今は陛下に呼ばれていますしね」
蹇碩は聞かれてもいないのに、ペラペラと自分の忙しさを語り出した。その中のとある人名に張譲らはピクリと反応する。
「永楽太后ですって⋯⋯」
永楽太后とは、つまり、霊帝の母である董太后のことである。彼女の住む宮殿名を取ってそう呼んだ。
その張譲の反応に、蹇碩もようやく一矢報いれたとばかりに優越感に浸りながら答えた。
「ええ、そうですよ。
皆様が永楽太后とお会いになられないので、私が相手を務めさせていただいております。
それでは、失礼しますよ」
そう言うと、蹇碩は大股で歩き、肩で風を切るように宮殿の方へと向かっていった。
その後ろ姿を張譲らは睨みつけるような目つきで見送った。
「蹇碩の奴め、最近は永楽宮へ出入りしていることを隠さなくなってきおったな」
張譲は明らかな警戒心を蹇碩に向けていた。彼へ向ける警戒心は、二人の宦官も同じである。趙忠は彼に尋ねた。
「張常侍どうなされますか。
このまま奴が永楽太后に接近するのは良からぬ事態でございますぞ」
その趙忠の言葉に、段珪が続く。
「まったくです。わざわざ中宮をけしかけて、王美人を殺させたというのに、これでは⋯⋯」
段珪から王美人の名が出た瞬間、張譲の目が光り、わざとらしく咳払いをした。
「ゴホン、段常侍、その話はここでは⋯⋯」
「これは失礼した」
段珪もすぐに自分の不用意な発言に気づき、謝った。
霊帝の子で劉弁の異母弟・劉協。彼が生まれてすぐ、その実母・王美人が、劉弁の母・何皇后によって毒殺された。これに霊帝は激怒したが、宦官たちの執り成しによって許された。
張譲たちは、何皇后、そしてその兄の何進と劉弁を次期皇帝にするために手を組んだ。
一方、赤子の劉協は、霊帝の母・董太后に引き取られ、養育された。
張譲たちは長子である劉弁が当然、皇太子になると思っていた。
しかし、ここにきて董太后の後ろ盾を得た劉協が存在感を増してきていた。
勢力では大将軍の何進、何皇后、そして張譲ら宦官の最大派閥を後ろ盾にした劉弁の方が圧倒的に優勢ではあった。
だが、それでも霊帝は未だに皇太子を定めなかった。それが張譲たちを不安にさせていた。
趙忠は思い出して眉をひそめながら、張譲に進言する。
「昨年、脩侯(董太后の甥・董重のこと)が驃騎将軍に任命されました。董氏の勢力は着実に増しています。
これに西園軍を掌握した蹇碩まで加われば、容易ならざる勢力になりますぞ」
現在、何進は軍部のトップである大将軍に就任している。これに加えて何進の弟・何苗は軍部の三等官である車騎将軍を務めていた。軍部は何氏が掌握したかに思えた。
だが、すぐに董太后の甥・董重が軍部の二等官である驃騎将軍に任命されてしまった。これに加えて、今や軍部で最も勢い盛んな西園軍まで、董太后派の蹇碩に握られてしまった。
わずか1年足らずの間に軍部の情勢は一変。今や、何氏と董氏の真っ二つに分断されていた。
この様子を思い返している最中、さらに段珪が続けて話し出した。
「これでもし、万一にでも董侯が皇太子にならば、董氏と蹇碩らの天下になるでしょう。
朝廷の勢力図は一変しますな」
張譲は悲痛な面持ちで目をゆっくりと閉じた。
もはや、張譲らと蹇碩の対立は宦官内の新旧世代の対立に留まらなくなっていた。
何氏と董氏、劉弁と劉協の対立と絡み合い、次期皇帝の座を賭けた一大政争へと発展していた。
今のところは宦官の大多数を味方に付け、さらに名士からの支持を受けている何氏の方が優勢ではある。
しかし、次の一手次第では状況がどう動くかわからない。もし、弟の劉協が皇太子になれば、大逆転されかねないほど危うい情勢であった。
張譲はゆっくりと目を開いた。
「何のために我らが単家(権勢のない家柄)の何氏を取り立ててきたのか。それは我らに都合の良い外戚を作り上げ、我らの権勢をより揺るぎないものにするためです。
それをここにきて董氏と蹇碩に横取りされてなるものですか!
大将軍との連携をより綿密にし、董氏と蹇碩がこれ以上力を得ないようにしましょう!」
張譲は昔の苦い記憶を思い出していた。かつて、外戚の竇武(先代・桓帝の皇后・竇妙の父)は名士の陳蕃らと計り、宦官一掃を計画していた。
宦官らは事前にその情報を得たことで、先手を取れ、反対に竇武らを倒すことに成功した。だが、一歩でも遅れていれば、今頃、自分たちは生きてはいなかったであろう。あれから二十年ほど経っていたが、張譲は昨日のことのように覚えていた。
外戚は時に宦官以上の権力を握る。だからこそ、しっかり手綱を握らねば、自分たちの身を危うくする。張譲はそれを身に沁みてわかっていた。
だが、趙忠は、さらに不穏なことを口走った。
「しかし、大将軍は最近、士大夫たちの意見に耳を傾け、我らに歯向かうようになってきましたぞ。
特に袁紹という孺子が問題です。あやつめ、今でこそ品行方正を装っているが、元は不良児の親玉。何をしでかすか分かりませんぞ」
趙忠の言葉は、かねてより張譲も気にかけている事案であった。何進の側近の袁紹らが最近、盛んに宦官との対立を煽るような発言を繰り返しているという。
否が応でも竇武の件が頭をよぎる張譲は、歯噛みしながら答えた。
「全く、使えぬ男だ。士大夫どもにいいように操られおって。
しかし、大将軍も甥の史侯が皇帝になることを望んでいるでしょう。とにかく、史侯を皇帝にするまではあやつと協力していくのです。
その後は⋯⋯我らには車騎将軍(何進の弟・何苗のこと)もいる。大将軍が言う事を聞かないようであれば、用済みです。その首をすげ替えましょう」
三人のやり取りを見て、新人の青年はとんでもないところに来たと恐怖した。だが、同時にこの人たちに付いていけば自分の道が切り開けるのではないかとも思い、気持ちが奮い立った。これこそ、彼が去勢してまで求めた世界でもあった。青年もまた、野心に燃えていた。
だが、すぐに歴史は大きく動き出すことになる。
「なんだと!
陛下がお倒れになられたのか!」
《続く》