目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第六十三話 宦官(四)

 両者の間に一触即発の空気が流れたが、相手は大宦官かんがん張譲ちょうじょう。さすがの蹇碩けんせきもそれ以上の喧嘩は避けたかったと見え、事を荒立てるのを止めた。


「ま、まあ、私も忙しいのでこのぐらいで失礼いたします。


 なにしろ、先ほどまで永楽宮えいらくきゅう(太后の住む宮殿)で永楽太后とうたいごうにお会いしてましたからね。今は陛下れいていに呼ばれていますしね」


 蹇碩けんせきは聞かれてもいないのに、ペラペラと自分の忙しさを語り出した。その中のとある人名に張譲ちょうじょうらはピクリと反応する。


永楽太后とうたいごうですって⋯⋯」


 永楽太后えいらくたいごうとは、つまり、霊帝れいていの母である董太后とうたいごうのことである。彼女の住む宮殿名を取ってそう呼んだ。


 その張譲ちょうじょうの反応に、蹇碩けんせきもようやく一矢報いれたとばかりに優越感に浸りながら答えた。


「ええ、そうですよ。


 皆様が永楽太后とうたいごうとお会いになられないので、私が相手を務めさせていただいております。


 それでは、失礼しますよ」


 そう言うと、蹇碩けんせきは大股で歩き、肩で風を切るように宮殿の方へと向かっていった。


 その後ろ姿を張譲ちょうじょうらは睨みつけるような目つきで見送った。


蹇碩けんせきの奴め、最近は永楽宮えいらくきゅうへ出入りしていることを隠さなくなってきおったな」


 張譲ちょうじょうは明らかな警戒心を蹇碩けんせきに向けていた。彼へ向ける警戒心は、二人の宦官かんがんも同じである。趙忠ちょうちゅうは彼に尋ねた。


張常侍ちょうじょうどうなされますか。


 このまま奴が永楽太后とうたいごうに接近するのは良からぬ事態でございますぞ」


 その趙忠ちょうちゅうの言葉に、段珪だんけいが続く。


「まったくです。わざわざ中宮かこうごうをけしかけて、王美人おうびじんを殺させたというのに、これでは⋯⋯」


 段珪だんけいから王美人おうびじんの名が出た瞬間、張譲ちょうじょうの目が光り、わざとらしく咳払いをした。


「ゴホン、段常侍だんけい、その話はここでは⋯⋯」


「これは失礼した」


 段珪だんけいもすぐに自分の不用意な発言に気づき、謝った。


 霊帝れいていの子で劉弁りゅうべんの異母弟・劉協りゅうきょう。彼が生まれてすぐ、その実母・王美人おうびじんが、劉弁りゅうべんの母・何皇后かこうごうによって毒殺された。これに霊帝れいていは激怒したが、宦官かんがんたちの執り成しによって許された。


 張譲ちょうじょうたちは、何皇后かこうごう、そしてその兄の何進かしん劉弁りゅうべんを次期皇帝にするために手を組んだ。


 一方、赤子の劉協りゅうきょうは、霊帝れいていの母・董太后とうたいごうに引き取られ、養育された。


 張譲ちょうじょうたちは長子である劉弁りゅうべんが当然、皇太子になると思っていた。


 しかし、ここにきて董太后とうたいごうの後ろ盾を得た劉協りゅうきょうが存在感を増してきていた。


 勢力では大将軍だいしょうぐん何進かしん何皇后かこうごう、そして張譲ちょうじょう宦官かんがんの最大派閥を後ろ盾にした劉弁りゅうべんの方が圧倒的に優勢ではあった。


 だが、それでも霊帝れいていは未だに皇太子を定めなかった。それが張譲ちょうじょうたちを不安にさせていた。


 趙忠ちょうちゅうは思い出して眉をひそめながら、張譲ちょうじょうに進言する。


「昨年、脩侯しゅうこう(董太后とうたいごうの甥・董重とうじゅうのこと)が驃騎将軍ひょうきしょうぐんに任命されました。董氏とうしの勢力は着実に増しています。


 これに西園軍せいえんぐんを掌握した蹇碩けんせきまで加われば、容易ならざる勢力になりますぞ」


 現在、何進かしんは軍部のトップである大将軍だいしょうぐんに就任している。これに加えて何進かしんの弟・何苗かびょうは軍部の三等官である車騎将軍しゃきしょうぐんを務めていた。軍部は何氏かしが掌握したかに思えた。


 だが、すぐに董太后とうたいごうの甥・董重とうじゅうが軍部の二等官である驃騎将軍ひょうきしょうぐんに任命されてしまった。これに加えて、今や軍部で最も勢い盛んな西園軍せいえんぐんまで、董太后とうたいごう派の蹇碩けんせきに握られてしまった。


 わずか1年足らずの間に軍部の情勢は一変。今や、何氏かし董氏とうしの真っ二つに分断されていた。


 この様子を思い返している最中、さらに段珪だんけいが続けて話し出した。


「これでもし、万一にでも董侯りゅうきょうが皇太子にならば、董氏とうし蹇碩けんせきらの天下になるでしょう。


 朝廷の勢力図は一変しますな」


 張譲ちょうじょうは悲痛な面持ちで目をゆっくりと閉じた。


 もはや、張譲ちょうじょうらと蹇碩けんせきの対立は宦官かんがん内の新旧世代の対立に留まらなくなっていた。


 何氏かし董氏とうし劉弁りゅうべん劉協りゅうきょうの対立と絡み合い、次期皇帝の座を賭けた一大政争へと発展していた。


 今のところは宦官かんがんの大多数を味方に付け、さらに名士からの支持を受けている何氏かしの方が優勢ではある。


 しかし、次の一手次第では状況がどう動くかわからない。もし、弟の劉協りゅうきょうが皇太子になれば、大逆転されかねないほど危うい情勢であった。


 張譲ちょうじょうはゆっくりと目を開いた。


「何のために我らが単家(権勢のない家柄)の何氏かしを取り立ててきたのか。それは我らに都合の良い外戚がいせきを作り上げ、我らの権勢をより揺るぎないものにするためです。


 それをここにきて董氏とうし蹇碩けんせきに横取りされてなるものですか!


 大将軍かしんとの連携をより綿密にし、董氏とうし蹇碩けんせきがこれ以上力を得ないようにしましょう!」


 張譲ちょうじょうは昔の苦い記憶を思い出していた。かつて、外戚がいせき竇武とうぶ(先代・桓帝かんていの皇后・竇妙とうみょうの父)は名士の陳蕃ちんばんらと計り、宦官かんがん一掃を計画していた。

 宦官かんがんらは事前にその情報を得たことで、先手を取れ、反対に竇武とうぶらを倒すことに成功した。だが、一歩でも遅れていれば、今頃、自分たちは生きてはいなかったであろう。あれから二十年ほど経っていたが、張譲ちょうじょうは昨日のことのように覚えていた。


 外戚がいせきは時に宦官かんがん以上の権力を握る。だからこそ、しっかり手綱を握らねば、自分たちの身を危うくする。張譲ちょうじょうはそれを身に沁みてわかっていた。


 だが、趙忠ちょうちゅうは、さらに不穏なことを口走った。


「しかし、大将軍かしんは最近、士大夫たちの意見に耳を傾け、我らに歯向かうようになってきましたぞ。


 特に袁紹えんしょうという孺子こぞうが問題です。あやつめ、今でこそ品行方正を装っているが、元は不良児の親玉。何をしでかすか分かりませんぞ」


 趙忠ちょうちゅうの言葉は、かねてより張譲ちょうじょうも気にかけている事案であった。何進かしんの側近の袁紹えんしょうらが最近、盛んに宦官かんがんとの対立を煽るような発言を繰り返しているという。


 否が応でも竇武とうぶの件が頭をよぎる張譲ちょうじょうは、歯噛みしながら答えた。


「全く、使えぬ男だ。士大夫どもにいいように操られおって。


 しかし、大将軍かしんも甥の史侯りゅうべんが皇帝になることを望んでいるでしょう。とにかく、史侯りゅうべんを皇帝にするまではあやつと協力していくのです。


 その後は⋯⋯我らには車騎将軍かびょう(何進かしんの弟・何苗かびょうのこと)もいる。大将軍かしんが言う事を聞かないようであれば、用済みです。その首をすげ替えましょう」


 三人のやり取りを見て、新人の青年はとんでもないところに来たと恐怖した。だが、同時にこの人たちに付いていけば自分の道が切り開けるのではないかとも思い、気持ちが奮い立った。これこそ、彼が去勢してまで求めた世界でもあった。青年もまた、野心に燃えていた。


 だが、すぐに歴史は大きく動き出すことになる。


「なんだと!


 陛下れいていがお倒れになられたのか!」


《続く》


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?