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第六十四話 崩御(一)

 四月一日、僕らが洛陽らくように着いたばかりの頃だ。


 市中は騒然とし、天変地異の前触れかと人々は騒いでいた。日食が始まったのが正午ということもあって、多くの人がこれを目にした。


 未来からきた僕からすれば滑稽だ。日食は月が太陽の前を通るために起きる自然現象だ。その証拠に三時間ほどで元に戻った。こういうので騒ぐのは、やはり、古代人なのだなと僕は胸の内で笑った。


 この時はまさか、そんなに早く世の中が変わってしまうとは思いもしていなかった。


 〜〜〜


 四月の十一日、まだ寒さが残る。その中をまるで春の訪れを告げるかのように、一羽の郭公かっこう洛陽らくようの上空を飛んでいった。


 その空の下、宮中では突然の出来事に見舞われていた。


 この世界の霊帝れいていと言えば、働き盛り、気力充満、改革に熱心な意欲的な皇帝であった。

 その霊帝れいていが突如、倒れたのだ。


 ここは宮殿の中、南宮・嘉徳殿かとくでん。その中にある霊帝れいていの寝室。彼が眠るとばりに囲われた寝台の横で、二人の男が並んで立っていた。


「倒れたと聞きましたが、お元気そうで何よりです」


 霊帝れいていの寝室に駆けつけた太医令たいいれい(医者を統括する役職)の張奉ちょうほうは細い目をさらに細めて寝台に腰掛ける霊帝れいていに答えた。この場には霊帝れいていの他、この張奉ちょうほう宦官かんがん蹇碩けんせきの二人のみが立っていた。


 霊帝れいていは寝台で横になり、上半身だけ起こして、その張奉ちょうほうに目を向けている。霊帝れいていの白い肌は青白く変色し、血色悪く、張奉ちょうほうに向けて差し出されたそのてのひらは小刻みに震えていた。ただ、その瞳だけは、なおも煌々こうこうと光を湛えていた。


「それで、わたしの容態はどうなんだ?」


 震える手を抑える霊帝れいていは、残る生気を眼力に注ぎ、張奉ちょうほうに尋ねた。


 張奉ちょうほうは額を指先で掻きながら、言いにくそうに答えた。


「うーむ、連日の暴飲が祟っておりますな。


 葡萄酒ワインなどを昼から嗜まれているようですが、もう少しお控えになることをお勧めいたします」


 その張奉ちょうほうの返答を聞き、それまで顔を曇らせていた霊帝れいていは思わず吹き出した。


「ハッハッハ、それをお前が言うか。元はと言えば葡萄酒ワインの味をわたしに教えたのはお前であろう。


 今でも朝から呑んでいるのであろう。この酒好きめ」


 笑う霊帝れいていに、張奉ちょうほうは思わず冷や汗をかく。医者の不養生とはよくいったもので、この張奉ちょうほうは大の酒好きで知られていた。それも酒に酔っては裸になってバカ騒ぎをし、招待客の靴を入れ替えて、転んで怪我をする様を見て楽しむといった、たちの悪い酔い方をする男であった。


「それを言われると痛いところですな。


 しかし、今の陛下れいていは体調を崩されています。これからはとにかく摂生に務め、気持ち穏やかにお過ごしください」


「⋯⋯わかった。心に留めておこう」


 とは言え、今、体を悪くしているのは霊帝れいていの方である。彼は張奉ちょうほうの言葉に、神妙な顔つきで答えた。


 その様子に一安心したようで、張奉ちょうほうも帰り支度を初めた。


「それでは私は失礼致します。何かあればいつでもお呼びください」


「お送りしましょう」


 一礼して立ち去る張奉ちょうほうに、宦官かんがん蹇碩けんせきが付いていき、扉を開いて出ていった。


 蹇碩けんせきは扉を閉めると、神妙な面持ちで、改めて張奉ちょうほうに尋ねた。


「それで、太医令ちょうほう陛下れいていのご容態は実のところどうなのだ?」


 蹇碩けんせきは長く霊帝れいていの側近を務めてきた宦官かんがんだ。彼は長い付き合いから、霊帝れいていの調子を見て、ただ事ではないと内心思っていた。


 だが、張奉ちょうほうからの返答は彼の予想を上回るものであった。


「大変よろしくありません。


 これはもしものことを覚悟せねばならぬかもしれません」


「そんなに悪いのか!」


 その言葉に、蹇碩けんせきは思わず声がうわずった。


 張奉ちょうほうはすぐさま静かにするよう、蹇碩けんせきに合図を送る。扉一枚を隔てた先の霊帝れいていに知られてはならない。


「お声を静かに。


 陛下れいていの御身体は連日の不摂生で急速に弱まっております。それなのに御意志ばかりは強く、常に気をたかぶらせて、御身体の方を振り回しております。


 あれでは御身体が衰弱するばかりでございます」


 張奉ちょうほうの言葉に頭を抱える蹇碩けんせき。彼は目の前が真っ暗になった気分であった。


 だが、彼はその暗闇の中に微かな光を見た。それは歪でドス黒いものであったが、確かに彼には光であった。蹇碩けんせきは心を切り替え、その光に手を伸ばそうと試みた。


「うむ、そうか⋯⋯。


 そういう事態であるならば、まずは中宮かこうごう、それに大将軍かしん張常侍ちょうじょうらにも伝えねばなるまい。


 陛下れいていの御側には私がついておくから、太医令ちょうほうは急いで皆の者に伝えてはくれないか」


 冷静さを取り出した蹇碩けんせきは、テキパキとした態度で、張奉ちょうほうに指示を出す。


 だが、それに張奉ちょうほうは待ったをかけた。


「それであるなら、太医令たいいれいであるこの私が陛下れいていの御側に残っていた方がよろしいのではありませんか?」


 いつ容態が急変するかもわからぬ霊帝れいていの側を離れることを、彼は良しとしなかった。


 しかし、躊躇ためら張奉ちょうほうに、蹇碩けんせきはさらに畳み掛ける。


「君の意見は一理ある。


 だが、お恥ずかしながら、私は日頃より張常侍ちょうじょうらとの仲がよろしくない。


 もし、私が行けば余計な憶測を呼び、話がこじれるかもしれない」


 蹇碩けんせきの言葉に、張奉ちょうほうも思わず頷く。蹇碩けんせき張譲ちょうじょうの険悪ぶりはこの宮中で働いていれば知らぬ者はいない。特にこの張奉ちょうほうもまた、この対立と無関係ではなかった。


 さらに蹇碩けんせきの話は続く。


「今、くにの一大事、そのような私情は捨てるべきと思うが、今すぐ信頼を得ることはできない。


 幸い、君は張常侍ちょうじょうの御令息であられる。さらに大将軍かしんとは義理の兄弟だ。


 君が行けば、話が円滑に進むことだろう」


 蹇碩けんせき、一世一代の熱弁であった。彼は手に汗握り、この国の行く末を案じ、終いには数条の涙を流して、張奉ちょうほうに訴えた。


 なお、この張奉ちょうほうという男は張譲ちょうじょうの養子であった。宦官かんがんは去勢しているので、子が成せない。だが、代わりに養子を取り、家を継がせてよいと認められていた。張譲ちょうじょうは遠縁の彼を養子とした。


 さらに張譲ちょうじょうは、何進かしん何皇后かこうごう兄妹の妹を嫁にと、この張奉ちょうほうに娶らせた。もちろん、張譲ちょうじょう何氏かしと強く結び付き、将来、何皇后かこうごうの子・劉弁りゅうべんが皇位に即いた時に、その恩恵に預かるためである。


 そのため、この張奉ちょうほうは、張譲ちょうじょうの義子で、何進かしんの義兄弟という双方と強い繋がりを持つ人物であった。


「わかりました。


 どうやら、私はあなたのことを誤解していた。義父ちょうじょうから聞いていた話とは違う。


 あなたはちゃんとこのくにのことを考えておられる」


 張奉ちょうほうは、蹇碩けんせきの言葉に目頭が熱くなるのを覚えた。彼は今まで養父・張譲ちょうじょう蹇碩けんせきの対立を傍目に見ていたが、改めて、蹇碩けんせきが国のことを第一に考える忠臣に思えて、心が衝き動かされた。


 張奉ちょうほうに強く手を握られた蹇碩けんせきは、爽やかな笑顔で答えた。


「私と張常侍ちょうじょうとの対立は小事です。今はくにの大事が関わっている時です。大事の前には我らのいがみ合いなどは些細な問題です。


 張常侍ちょうじょうらは先ほど永楽宮えいらくきゅうの前で見かけました。今から行けばまだ間に合うかもしれません。急いでください」


「はい。では、失礼致します。


 くれぐれも陛下れいていが激昂されないよう気をつけてください」


 張奉ちょうほうは、彼の頼みを快く受け、霊帝れいていの御身体を託して出ていった。


「わかりました。陛下れいていのことはこの私にお任せください」


 蹇碩けんせきは、先ほど自分が張譲ちょうじょうらを見かけた中宮と反対方向の永楽宮えいらくきゅうへと駆けていく張奉ちょうほうを見送り、ほくそ笑んだ。


「行ったか。愚かな男だ。せいぜい、遠回りして時間を稼いでくれ」


 蹇碩けんせきは、自身の懐に手を伸ばした。その手は懐中の竹簡に触れる。蹇碩けんせきはニヤリと笑い、霊帝れいていの眠る寝所への扉を開いた。


「この時こそ、最後にして最大の好機。


 私は必ず勝者になるぞ」


《続く》

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