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第六十五話 崩御(二)

 宦官かんがん蹇碩けんせきは今こそ乾坤一擲けんこんいってきの大勝負と、霊帝れいていの眠る寝所へと入っていった。彼の懐には、前もって用意されていた一巻の竹簡を忍ばせてあった。


 扉の向こう、霊帝れいていは眠ってはいなかった。寝台に腰掛け、腰まで布団をかぶってはいたが、上半身を起こし、しっかりと起きていた。


 思い詰めた顔で入って来た蹇碩けんせきを見て、霊帝れいていは彼より先に言葉を発した。


わたしはもう長くないのであろう」


 低くとも鋭いその言葉に、蹇碩けんせきは思わず身震いした。まるで自分の全てが見透かされているような気がして、すぐに懐の竹簡から手を離し、一礼して取り繕った。


「そ、そのようなことはありません。今は気をしっかりお持ちくださいませ」


 蹇碩けんせきは思わず下を向いて、言葉を詰まらせながらも、そう伝えた。


 だが、霊帝れいていはゆっくりと首を横に振る。


わたし張奉ちょうほうと付き合いは長い。お前ともだ。お前たちの顔を見ればわかる。


 それに身体が急速に衰弱するのを感じる」


 そう言って、霊帝れいていは静かに自身の腹の辺りを撫でた。


 その霊帝れいていの顔は穏やかに全てを受け入れているようにも見えれば、こみ上げる激情を抑えているようにも見えて、蹇碩けんせきにはなんと答えて良いかわからなかった。


「今はただ、御自愛ください」


 それが蹇碩けんせきがようやく絞り出した言葉であった。


わたしはもう死ぬ」


 ポツリと溢れた霊帝れいていの言葉に、思わず蹇碩けんせきは顔を見上げた。


わたしは死ぬのが怖い。


 勿論、死ぬこと自体の恐怖もある。


 だが、それ以上に、わたしの死で、わたしがやろうとしていた改革が半端に終わってしまうことが怖い」


 そう語り、下を向く霊帝れいてい蹇碩けんせきには彼が涙を流しているかのように思えた。


 さらに霊帝れいていは悲しみの籠った声を発する。


わたしは後世になんと言われるであろうか。


 このくにの中興の祖として永遠に名を残せるであろうか」


 それは今まで力強く、精力的に働いてきた霊帝れいていが初めて発した泣き言であった。


 その言葉に蹇碩けんせきも心を動かされて、せめてお慰めしようと言葉を振り絞った。


「もちろんでございます。


 陛下れいてい御名おんなはこのくに最高の賢帝として永遠に名を輝かせることでしょう」


 蹇碩けんせきは自身では力強く返したつもりであった。だが、その言葉は弱々しく震えていた。


 霊帝れいていは顔を上げ、一瞬、フッと笑った。


「いや、そうではない。


 わたしがここで死ねば、半端に世を乱した愚帝と、後世のそしりを受けるであろう」


 遠い目でそう語る霊帝れいていに、蹇碩けんせきは何も言うことが出来なかった。


 その瞬間、霊帝れいていの目はカッと見開かれ、彼の奥底に眠る激情が烈火のごとく湧き上がった。


「嫌だ! 死にたくない!」


 それは霊帝れいていの心からの叫びであった。


「今までくにのためにと邁進してきたのに、後世に悪名だけを残すなぞ耐えられぬ!


 蹇碩けんせき!」


 突然、名を呼ばれ、蹇碩けんせきはビクリとして返事をする。


 なおも霊帝れいていは激情に駆られて叫ぶ。


「他の者に伝えよ!


 決してわたしの改革を止めてはならんと!」


 その煌々こうこうと輝く瞳は、確かに蹇碩けんせきの知る霊帝れいていの輝きであった。


 始終、気圧される蹇碩けんせきであった。だが、彼には自分の人生を賭けてでもやらねばならぬ大仕事があった。


「⋯⋯わかりました。


 しかし、問題が一つございます」


 彼は自身の心臓の高鳴りを抑えながらも、霊帝れいていにそう告げた。


 霊帝れいていの瞳はまだ光が盛んだ。その光を蹇碩けんせきに向け、彼は尋ねた。


「何だ、その問題とは?」


 蹇碩けんせきは、声の震えを抑えながら答えた。


大将軍かしんのことでございます」


 強張こわばっていた霊帝れいていの顔は、その名を聞いて安堵の表情を浮かべる。


「あの者はわたしの忠臣だ。


 何も心配することはない。きっとわたしの意志を継いでくれるだろう」


 その言葉に蹇碩けんせきは、この方は周囲の者を口うるさく感じながらも、確かに信頼されていたのだなと感じ入った。


 だが、彼もここで引き下がることはできない。


 彼は口調厳しく言い放った。


「いえ、そうではございません。


 大将軍かしんは上辺ばかり取り繕う男で、その内心では陛下れいていの改革には反対しておりました。


 その証拠に、私が西園軍せいえんぐんの総指揮を執ることを反対しておりました」


 その言葉に霊帝れいていの顔はまたもみるみる険しくなっていった。一度火のついた激情を、霊帝れいてい自身も抑えることは出来なくなっていた。


「なんだと!


 確かに奴は最近、わたしに小言ばかり言っていたが、本心はそうであったのか」


 霊帝れいていの気は留められないほどにたかぶっていった。


 さらに畳み掛けるように蹇碩けんせきの言葉は続く。


「そうです。あの男はただ、自身が高い地位に就くことだけが望みなのです。


 もしも将来、史侯りゅうべんが皇位を継がれたとします。そうなれば、大将軍かしんが皇帝の伯父として君臨することになりましょう。


 かつての跋扈将軍・梁冀りょうき以上の悪臣となり、改革なぞ忘れてしまうことでしょう」


 蹇碩けんせきは全身全霊でもって、何進かしんおとしめ、熱弁をふるった。涙と汗の混じった彼の言葉に、霊帝れいていも思わず心を動かされた。


「では、どうすればわたしの改革を継いでもらえるのか」


 その霊帝れいていからの問いかけに、蹇碩けんせきは思わず身中で歓喜した。彼の人生を賭けた大芝居が実った瞬間であった。だが、ここで気を緩めてはいけない。蹇碩けんせきはより一層、深刻な顔を作り、声を低くして霊帝れいていに進言した。


董侯りゅうきょうを皇太子に即けるのです」


 この言葉こそ、蹇碩けんせきの実現したかった本願であった。彼はさらに続けて、霊帝れいていが口を開くよりも先に、その利点を述べだした。


董侯りゅうきょうが帝位にお即かれになれば、大将軍かしんも緊張感をもって仕事に当たり、改革に本腰を入れることでしょう。


 それに、すでに御母君を亡くされた董侯りゅうきょうなら、外戚がいせきの力はこれ以上増すことはなく、政権は益々安定致しましょう。


 これでより改革に専念することができます」


 霊帝れいてい劉協りゅうきょうの名を聞き、しばし考える。


「しかし、りゅうきょうには我が母、董太后とうたいごうとその一族がついておろう」


 確かに今はもう劉協りゅうきょうの母の一族は朝廷にいない。だが、彼には祖母の一族が後ろ盾になっていた。


 しかし、蹇碩けんせきからすれば、この程度の追求は想定済みだ。


「確かに永楽太后とうたいごう董侯りゅうきょうの祖母君。


 しかし、大将軍かしんは既に軍部の頂点におり、揺るぎない地位を得ております。今更、董氏とうしの独裁になるようなことはございません」


 そう語る蹇碩けんせきは、さらに膝を床に付け、自らの頭を地に伏せて、霊帝れいていに向かって啖呵を切った。


「それにおそれ多くもこの蹇碩けんせき西園軍せいえんぐんを率い、宦官かんがんという誰とも血縁を持たぬ公平な目で、両氏を監視致します。


 決して、改革への道を逸れたりはさせませぬ」


 その蹇碩けんせきの言葉を聞き、険しかった霊帝れいていの顔は若干、和らいだように見えた。


「そうか、そなたがいてくれるなら心強い。


 お前は幼き日、最も初めに我が改革を後押ししてくれたかけがえのない友であった」


 その言葉に、蹇碩けんせきの心は思わずズキリと痛む。かの天上人は、この卑しき身を『友』とお呼びくだされた。臣下としてこれほどの誉れは他にない。蹇碩けんせきは自身の涙が溢れるのを感じ、思わず顔を手に埋めた。


 蹇碩けんせきの心内は悲痛であった。霊帝れいていが自分を『友』と呼んでくれたように、おそれ多いことだが、自分も霊帝れいていに親しみを感じている。今、自分はその『友』を裏切ろうとしている。


 しかし、今、死に行く友と、生き行く己、どちらを取るかと言われれば、それは己だ。

 かつて、親に売られたあの日より、己より大事なものは他にない。己のことを第一に考えてくれる者なぞ、己以外に存在しない。このくによりも、帝よりも、蹇碩けんせきにとっては己こそが至上である。


「⋯⋯では、りゅうきょうを我が後継と定めよう。今、書をしたためる」


 霊帝れいていの言葉で、蹇碩けんせきはふと、我に返った。彼はすぐに自身の涙を拭うと、懐に忍ばせていた竹簡を掴んだ。


陛下れいてい、今は無理をしてはなりません。


 こんなこともあろうかと、私が草案をしたためておきました。これに後は御名と御璽ぎょじをいただければ体裁を整える事ができます。


 さあ、お早く!」


 蹇碩けんせきが懐より取り出した一巻の竹簡。そこには次の皇帝を劉協りゅうきょうと定める旨が既にしっかりと書き記されていた。


《続く》

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