宦官・蹇碩は今こそ乾坤一擲の大勝負と、霊帝の眠る寝所へと入っていった。彼の懐には、前もって用意されていた一巻の竹簡を忍ばせてあった。
扉の向こう、霊帝は眠ってはいなかった。寝台に腰掛け、腰まで布団をかぶってはいたが、上半身を起こし、しっかりと起きていた。
思い詰めた顔で入って来た蹇碩を見て、霊帝は彼より先に言葉を発した。
「朕はもう長くないのであろう」
低くとも鋭いその言葉に、蹇碩は思わず身震いした。まるで自分の全てが見透かされているような気がして、すぐに懐の竹簡から手を離し、一礼して取り繕った。
「そ、そのようなことはありません。今は気をしっかりお持ちくださいませ」
蹇碩は思わず下を向いて、言葉を詰まらせながらも、そう伝えた。
だが、霊帝はゆっくりと首を横に振る。
「朕も張奉と付き合いは長い。お前ともだ。お前たちの顔を見ればわかる。
それに身体が急速に衰弱するのを感じる」
そう言って、霊帝は静かに自身の腹の辺りを撫でた。
その霊帝の顔は穏やかに全てを受け入れているようにも見えれば、こみ上げる激情を抑えているようにも見えて、蹇碩にはなんと答えて良いかわからなかった。
「今はただ、御自愛ください」
それが蹇碩がようやく絞り出した言葉であった。
「朕はもう死ぬ」
ポツリと溢れた霊帝の言葉に、思わず蹇碩は顔を見上げた。
「朕は死ぬのが怖い。
勿論、死ぬこと自体の恐怖もある。
だが、それ以上に、朕の死で、朕がやろうとしていた改革が半端に終わってしまうことが怖い」
そう語り、下を向く霊帝。蹇碩には彼が涙を流しているかのように思えた。
さらに霊帝は悲しみの籠った声を発する。
「朕は後世になんと言われるであろうか。
この漢の中興の祖として永遠に名を残せるであろうか」
それは今まで力強く、精力的に働いてきた霊帝が初めて発した泣き言であった。
その言葉に蹇碩も心を動かされて、せめてお慰めしようと言葉を振り絞った。
「もちろんでございます。
陛下の御名はこの漢最高の賢帝として永遠に名を輝かせることでしょう」
蹇碩は自身では力強く返したつもりであった。だが、その言葉は弱々しく震えていた。
霊帝は顔を上げ、一瞬、フッと笑った。
「いや、そうではない。
朕がここで死ねば、半端に世を乱した愚帝と、後世の誹りを受けるであろう」
遠い目でそう語る霊帝に、蹇碩は何も言うことが出来なかった。
その瞬間、霊帝の目はカッと見開かれ、彼の奥底に眠る激情が烈火のごとく湧き上がった。
「嫌だ! 死にたくない!」
それは霊帝の心からの叫びであった。
「今まで漢のためにと邁進してきたのに、後世に悪名だけを残すなぞ耐えられぬ!
蹇碩!」
突然、名を呼ばれ、蹇碩はビクリとして返事をする。
なおも霊帝は激情に駆られて叫ぶ。
「他の者に伝えよ!
決して朕の改革を止めてはならんと!」
その煌々と輝く瞳は、確かに蹇碩の知る霊帝の輝きであった。
始終、気圧される蹇碩であった。だが、彼には自分の人生を賭けてでもやらねばならぬ大仕事があった。
「⋯⋯わかりました。
しかし、問題が一つございます」
彼は自身の心臓の高鳴りを抑えながらも、霊帝にそう告げた。
霊帝の瞳はまだ光が盛んだ。その光を蹇碩に向け、彼は尋ねた。
「何だ、その問題とは?」
蹇碩は、声の震えを抑えながら答えた。
「大将軍のことでございます」
強張っていた霊帝の顔は、その名を聞いて安堵の表情を浮かべる。
「あの者は朕の忠臣だ。
何も心配することはない。きっと朕の意志を継いでくれるだろう」
その言葉に蹇碩は、この方は周囲の者を口うるさく感じながらも、確かに信頼されていたのだなと感じ入った。
だが、彼もここで引き下がることはできない。
彼は口調厳しく言い放った。
「いえ、そうではございません。
大将軍は上辺ばかり取り繕う男で、その内心では陛下の改革には反対しておりました。
その証拠に、私が西園軍の総指揮を執ることを反対しておりました」
その言葉に霊帝の顔はまたもみるみる険しくなっていった。一度火のついた激情を、霊帝自身も抑えることは出来なくなっていた。
「なんだと!
確かに奴は最近、朕に小言ばかり言っていたが、本心はそうであったのか」
霊帝の気は留められないほどに昂っていった。
さらに畳み掛けるように蹇碩の言葉は続く。
「そうです。あの男はただ、自身が高い地位に就くことだけが望みなのです。
もしも将来、史侯が皇位を継がれたとします。そうなれば、大将軍が皇帝の伯父として君臨することになりましょう。
かつての跋扈将軍・梁冀以上の悪臣となり、改革なぞ忘れてしまうことでしょう」
蹇碩は全身全霊でもって、何進を貶め、熱弁をふるった。涙と汗の混じった彼の言葉に、霊帝も思わず心を動かされた。
「では、どうすれば朕の改革を継いでもらえるのか」
その霊帝からの問いかけに、蹇碩は思わず身中で歓喜した。彼の人生を賭けた大芝居が実った瞬間であった。だが、ここで気を緩めてはいけない。蹇碩はより一層、深刻な顔を作り、声を低くして霊帝に進言した。
「董侯を皇太子に即けるのです」
この言葉こそ、蹇碩の実現したかった本願であった。彼はさらに続けて、霊帝が口を開くよりも先に、その利点を述べだした。
「董侯が帝位にお即かれになれば、大将軍も緊張感をもって仕事に当たり、改革に本腰を入れることでしょう。
それに、すでに御母君を亡くされた董侯なら、外戚の力はこれ以上増すことはなく、政権は益々安定致しましょう。
これでより改革に専念することができます」
霊帝は劉協の名を聞き、しばし考える。
「しかし、協には我が母、董太后とその一族がついておろう」
確かに今はもう劉協の母の一族は朝廷にいない。だが、彼には祖母の一族が後ろ盾になっていた。
しかし、蹇碩からすれば、この程度の追求は想定済みだ。
「確かに永楽太后は董侯の祖母君。
しかし、大将軍は既に軍部の頂点におり、揺るぎない地位を得ております。今更、董氏の独裁になるようなことはございません」
そう語る蹇碩は、さらに膝を床に付け、自らの頭を地に伏せて、霊帝に向かって啖呵を切った。
「それに畏れ多くもこの蹇碩が西園軍を率い、宦官という誰とも血縁を持たぬ公平な目で、両氏を監視致します。
決して、改革への道を逸れたりはさせませぬ」
その蹇碩の言葉を聞き、険しかった霊帝の顔は若干、和らいだように見えた。
「そうか、そなたがいてくれるなら心強い。
お前は幼き日、最も初めに我が改革を後押ししてくれたかけがえのない友であった」
その言葉に、蹇碩の心は思わずズキリと痛む。かの天上人は、この卑しき身を『友』とお呼びくだされた。臣下としてこれほどの誉れは他にない。蹇碩は自身の涙が溢れるのを感じ、思わず顔を手に埋めた。
蹇碩の心内は悲痛であった。霊帝が自分を『友』と呼んでくれたように、畏れ多いことだが、自分も霊帝に親しみを感じている。今、自分はその『友』を裏切ろうとしている。
しかし、今、死に行く友と、生き行く己、どちらを取るかと言われれば、それは己だ。
かつて、親に売られたあの日より、己より大事なものは他にない。己のことを第一に考えてくれる者なぞ、己以外に存在しない。この漢よりも、帝よりも、蹇碩にとっては己こそが至上である。
「⋯⋯では、協を我が後継と定めよう。今、書を認める」
霊帝の言葉で、蹇碩はふと、我に返った。彼はすぐに自身の涙を拭うと、懐に忍ばせていた竹簡を掴んだ。
「陛下、今は無理をしてはなりません。
こんなこともあろうかと、私が草案を認めておきました。これに後は御名と御璽をいただければ体裁を整える事ができます。
さあ、お早く!」
蹇碩が懐より取り出した一巻の竹簡。そこには次の皇帝を劉協と定める旨が既にしっかりと書き記されていた。
《続く》