目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第六十六話 崩御(三)

 蹇碩けんせき霊帝れいていに差し出したもの。それは彼があらかじめ竹簡に書いておいた詔書しょうしょであった。


 皇帝の命令書である詔書しょうしょを発給するには幾つかの手順がいる。この竹簡はその手順を踏んではいない。言うなれば見た目だけそれらしくした偽の詔書しょうしょである。だが、蹇碩けんせきは、皇帝の御名御璽ぎょじ(署名と実印)さえ貰えば、後はどうとでもなると考えていた。なにより、今は非常時だ。それぐらいのことは許されるだろうと。


「いやに準備が良いな。しかし、筆が⋯⋯」


 霊帝れいていが周囲を見回すと、すぐさま蹇碩けんせきは耳にかけていた筆を差し出す。


「筆ならこちらに!」


「何から何まで準備がよいな」


 流れるように筆を渡す蹇碩けんせきに、霊帝れいていは思わず苦笑した。


 だが、立て続けに起こった気のたかぶりで、既に霊帝れいていの体は疲弊し、目はかすみ、手は震え、筆を使うのでさえおぼつかない有り様であった。


「ダメだ⋯⋯手が揺れて上手く書けぬ⋯⋯」


 思った以上の霊帝れいていの症状の進み具合に、蹇碩けんせきは内心焦った。


 彼の書き記すものは、ひょろひょろの蚯蚓みみずの這ったような線で、とても文字と呼べる代物ではなかった。


 蹇碩けんせきはこんな字を証拠として残すべきか迷った。だが、蹇碩けんせきは今さら引き返すことはできない。次の機会があるかもわからないのに、悠長なことも言えない。それに、御璽ぎょじさえ貰えれば、名が読めなくても、どうにか出来るだろうと彼は判断した。


「いえ、陛下れいてい、十分でございます。後はここに御璽ぎょじを⋯⋯」


 そう言って、蹇碩けんせき印璽いんじを求めたまさにその時。


陛下れいてい、ご無事ですか!」


 扉が勢いよく解き放たれ、何進かしん張譲ちょうじょうら数人の宦官かんがんがなだれ込むように寝所へと入って来た。


「この何進かしん、ただいま参上致しましたぞ」


 いの一番に前に飛び出したのは何進かしんであった。彼は蹇碩けんせきには目もくれず、霊帝れいていの寝台まで駆け寄った。


「お前たち、良いところに来た」


 霊帝れいていは彼らをにこやかに迎え入れると、にわかにその場に立ち上がった。駆け付けた何進かしんたちはギョッとするが、あまりの突然のことに止める暇もなかった。


 霊帝れいていはカッと目を見開き、病人とは思えぬ大音声を発した。


わたしの遺言だ! しかと聞け!」


 その言葉に、周囲の動きは止まった。一瞬にして室内は静寂に包まれ、ただ、霊帝れいていの言葉のみが響いた。


「このくに中興の祖・れいていの最期の言葉だ!


 わたしが初めた改革の火を決して絶やしてはならん!


 が改革を受け継ぎ、このくにを千年先、万年先まで富み栄えさせよ!


 わかったな!」


 その言葉に、家臣一同はただ、はいと答える他はなかった。


 彼らの返答を聞くやいなや、霊帝れいていは頭を真上へ向け、力を振り絞って再び叫んだ。


「後継者をりゅうきょうとする。


 励め!」


 その言葉を最期に、力を失ったように霊帝れいていの体は大きく後ろへとのけぞり、そのまま寝台へと倒れていった。


 一拍の間の後、何進かしんたちは事態に気づき、慌てて霊帝れいていの周りに駆け寄った。


陛下れいてい!」「陛下れいてい!」「陛下れいてい!」


 彼らは口々に霊帝れいていに呼びかけたが、返事が返ってくることはなかった。


 霊帝れいていは既に亡くなっていた。


「なんということだ⋯⋯。


 あの意気盛んな陛下れいていがこんなにも若くしてお隠れになるとは⋯⋯」


 何進かしんは物言わぬ霊帝れいていの遺体に顔を近づけ、涙を流した。


 後ろに控える張譲ちょうじょう以下数名の宦官かんがんたちも、その早すぎる死を悼み、袖で目を覆い、嗚咽おえつを漏らす。


 皆が悲しみに暮れる中、ただ一人、蹇碩けんせきはそのただ中に飛び込み、鼻息荒く彼らを制した。


「皆様、悲しみは分かります。


 しかし、我らはいつまでも嘆いている暇はありません! 我らはこのくにのために次の行動を起こさねばならないのです!


 我らは陛下れいていの御遺言に従い、次の皇帝をお迎えせねばならないのです。


 そう、董侯りゅうきょうに即位していただくのです!」


 この蹇碩けんせきの言葉に、何進かしんたちは目の色が変わった。何進かしんは激しい怒りを露わにし、今にも掴みかからんばかりの勢いで、蹇碩けんせきに詰め寄った。


「貴様、病床の陛下れいていに何を吹き込んだ!


 何故、董侯りゅうきょうが後継者という話になっているのだ!」


 何進かしんの怒りは凄まじく、鼓膜が張り裂けんばかりの大音声であった。張譲ちょうじょうらも何進かしんに同調し、蹇碩けんせきへ怒りを向けている。


 だが、蹇碩けんせきは何食わぬ顔で彼らの怒りを受け流す。


「前にも申し上げたでしょう。


 私はあくまで意見を述べただけです。決められたのは陛下れいていの御意志。


 あなた方も聞かれたでしょう。陛下れいていの最期の御言葉を!


 あなた方はあの御言葉に逆らうのですか!」


「うぐ⋯⋯それは⋯⋯っ!」


 蹇碩けんせきの鋭い言葉に、何進かしんは思わず声を詰まらせる。彼らは確かに聞いた。霊帝れいていの最期の言葉を。彼は確かに後継を劉協りゅうきょうにすると言っていた。それはここにいる皆が聞いていた。


「それにここに陛下れいてい遺詔いしょうもございます」


 そう言って蹇碩けんせきが出してきたのは、先ほど霊帝れいていに署名させた竹簡であった。その竹簡にも確かに後継者を劉協りゅうきょうと定めると明記されていた。


「そ、そんなものまで⋯⋯!


 貴様、やはり企んでおったか!」


 何進かしんの怒号が辺りに響く。だが、蹇碩けんせきも負けてはいない。


「濡れ衣はやめていただきたい!


 あなたは遺詔いしょうにまでケチをつけるのか!」


 しかし、この間に張譲ちょうじょうが割り込んで、蹇碩けんせきを追求する。


「待ちなさい蹇碩けんせき! それが陛下れいてい遺詔いしょうだというのか!


 署名もなく墨の線が波打ち、御璽ぎょじもないそんなものが!」


「うむ⋯⋯」


 痛いところを突かれたと蹇碩けんせきも思った。時間がなかったとはいえ、印璽いんじを貰えなかったのは失態であった。だが、彼も今さら引くわけにはいかない。


「そ、それは陛下れいていの容態がよろしくなかった故!


 あなた方はあの最期の御言葉を聞いて、この遺詔いしょうが間違っていると言われるのか!」


 これには張譲ちょうじょうも黙らざるを得ない。いくら遺詔いしょうの不備を突いたところで、あの霊帝れいていの最期の言葉を聞いた事実を変えることはできない。


 ここにいる皆が、あの最期の言葉を聞いてしまったために、蹇碩けんせきに強く出られずにいた。


「さあ、これで皆様も文句もないでしょう。


 これから忙しくなりますよ。新たな皇帝に即位してもらわねばならないのですからね。


 さあ、即位式の準備を初めましょう。ハハハ!」


 蹇碩けんせきは笑いながら霊帝れいていの寝所を後にした。後に残された何進かしんたちはただ歯噛みするばかりであった。


 この日、後漢十三代目の皇帝・劉宏りゅうこうは崩御(皇帝が死ぬこと)した。享年三十四歳。


 改革に励み、死後の評価を案じた彼に、後に贈られた諡号しごうは『孝霊皇帝こうれいこうてい(“孝”は歴代皇帝に贈られる字。普段は省略される)』。

 彼に贈られた『霊』の字は「国を乱したが、滅ぼすまでには至らなかった」者に贈られる字であった。


 それが同時代の人々が彼に贈った評価であった。彼が生涯を賭けて行った業績は評価されることはなかった。


 そして、彼の死は新たな争いの火種を生むことになった。その火種は後に、この後漢全土を焼き尽くすほどの大火となった。


《続く》

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?