蹇碩が霊帝に差し出したもの。それは彼があらかじめ竹簡に書いておいた詔書であった。
皇帝の命令書である詔書を発給するには幾つかの手順がいる。この竹簡はその手順を踏んではいない。言うなれば見た目だけそれらしくした偽の詔書である。だが、蹇碩は、皇帝の御名御璽(署名と実印)さえ貰えば、後はどうとでもなると考えていた。なにより、今は非常時だ。それぐらいのことは許されるだろうと。
「いやに準備が良いな。しかし、筆が⋯⋯」
霊帝が周囲を見回すと、すぐさま蹇碩は耳にかけていた筆を差し出す。
「筆ならこちらに!」
「何から何まで準備がよいな」
流れるように筆を渡す蹇碩に、霊帝は思わず苦笑した。
だが、立て続けに起こった気の昂りで、既に霊帝の体は疲弊し、目はかすみ、手は震え、筆を使うのでさえおぼつかない有り様であった。
「ダメだ⋯⋯手が揺れて上手く書けぬ⋯⋯」
思った以上の霊帝の症状の進み具合に、蹇碩は内心焦った。
彼の書き記すものは、ひょろひょろの蚯蚓の這ったような線で、とても文字と呼べる代物ではなかった。
蹇碩はこんな字を証拠として残すべきか迷った。だが、蹇碩は今さら引き返すことはできない。次の機会があるかもわからないのに、悠長なことも言えない。それに、御璽さえ貰えれば、名が読めなくても、どうにか出来るだろうと彼は判断した。
「いえ、陛下、十分でございます。後はここに御璽を⋯⋯」
そう言って、蹇碩が印璽を求めたまさにその時。
「陛下、ご無事ですか!」
扉が勢いよく解き放たれ、何進と張譲ら数人の宦官がなだれ込むように寝所へと入って来た。
「この何進、ただいま参上致しましたぞ」
いの一番に前に飛び出したのは何進であった。彼は蹇碩には目もくれず、霊帝の寝台まで駆け寄った。
「お前たち、良いところに来た」
霊帝は彼らをにこやかに迎え入れると、にわかにその場に立ち上がった。駆け付けた何進たちはギョッとするが、あまりの突然のことに止める暇もなかった。
霊帝はカッと目を見開き、病人とは思えぬ大音声を発した。
「朕の遺言だ! しかと聞け!」
その言葉に、周囲の動きは止まった。一瞬にして室内は静寂に包まれ、ただ、霊帝の言葉のみが響いた。
「この漢中興の祖・宏の最期の言葉だ!
朕が初めた改革の火を決して絶やしてはならん!
朕が改革を受け継ぎ、この漢を千年先、万年先まで富み栄えさせよ!
わかったな!」
その言葉に、家臣一同はただ、はいと答える他はなかった。
彼らの返答を聞くやいなや、霊帝は頭を真上へ向け、力を振り絞って再び叫んだ。
「後継者を協とする。
励め!」
その言葉を最期に、力を失ったように霊帝の体は大きく後ろへとのけぞり、そのまま寝台へと倒れていった。
一拍の間の後、何進たちは事態に気づき、慌てて霊帝の周りに駆け寄った。
「陛下!」「陛下!」「陛下!」
彼らは口々に霊帝に呼びかけたが、返事が返ってくることはなかった。
霊帝は既に亡くなっていた。
「なんということだ⋯⋯。
あの意気盛んな陛下がこんなにも若くしてお隠れになるとは⋯⋯」
何進は物言わぬ霊帝の遺体に顔を近づけ、涙を流した。
後ろに控える張譲以下数名の宦官たちも、その早すぎる死を悼み、袖で目を覆い、嗚咽を漏らす。
皆が悲しみに暮れる中、ただ一人、蹇碩はそのただ中に飛び込み、鼻息荒く彼らを制した。
「皆様、悲しみは分かります。
しかし、我らはいつまでも嘆いている暇はありません! 我らはこの漢のために次の行動を起こさねばならないのです!
我らは陛下の御遺言に従い、次の皇帝をお迎えせねばならないのです。
そう、董侯に即位していただくのです!」
この蹇碩の言葉に、何進たちは目の色が変わった。何進は激しい怒りを露わにし、今にも掴みかからんばかりの勢いで、蹇碩に詰め寄った。
「貴様、病床の陛下に何を吹き込んだ!
何故、董侯が後継者という話になっているのだ!」
何進の怒りは凄まじく、鼓膜が張り裂けんばかりの大音声であった。張譲らも何進に同調し、蹇碩へ怒りを向けている。
だが、蹇碩は何食わぬ顔で彼らの怒りを受け流す。
「前にも申し上げたでしょう。
私はあくまで意見を述べただけです。決められたのは陛下の御意志。
あなた方も聞かれたでしょう。陛下の最期の御言葉を!
あなた方はあの御言葉に逆らうのですか!」
「うぐ⋯⋯それは⋯⋯っ!」
蹇碩の鋭い言葉に、何進は思わず声を詰まらせる。彼らは確かに聞いた。霊帝の最期の言葉を。彼は確かに後継を劉協にすると言っていた。それはここにいる皆が聞いていた。
「それにここに陛下の遺詔もございます」
そう言って蹇碩が出してきたのは、先ほど霊帝に署名させた竹簡であった。その竹簡にも確かに後継者を劉協と定めると明記されていた。
「そ、そんなものまで⋯⋯!
貴様、やはり企んでおったか!」
何進の怒号が辺りに響く。だが、蹇碩も負けてはいない。
「濡れ衣はやめていただきたい!
あなたは遺詔にまでケチをつけるのか!」
しかし、この間に張譲が割り込んで、蹇碩を追求する。
「待ちなさい蹇碩! それが陛下の遺詔だというのか!
署名もなく墨の線が波打ち、御璽もないそんなものが!」
「うむ⋯⋯」
痛いところを突かれたと蹇碩も思った。時間がなかったとはいえ、印璽を貰えなかったのは失態であった。だが、彼も今さら引くわけにはいかない。
「そ、それは陛下の容態がよろしくなかった故!
あなた方はあの最期の御言葉を聞いて、この遺詔が間違っていると言われるのか!」
これには張譲も黙らざるを得ない。いくら遺詔の不備を突いたところで、あの霊帝の最期の言葉を聞いた事実を変えることはできない。
ここにいる皆が、あの最期の言葉を聞いてしまったために、蹇碩に強く出られずにいた。
「さあ、これで皆様も文句もないでしょう。
これから忙しくなりますよ。新たな皇帝に即位してもらわねばならないのですからね。
さあ、即位式の準備を初めましょう。ハハハ!」
蹇碩は笑いながら霊帝の寝所を後にした。後に残された何進たちはただ歯噛みするばかりであった。
この日、後漢十三代目の皇帝・劉宏は崩御(皇帝が死ぬこと)した。享年三十四歳。
改革に励み、死後の評価を案じた彼に、後に贈られた諡号は『孝霊皇帝(“孝”は歴代皇帝に贈られる字。普段は省略される)』。
彼に贈られた『霊』の字は「国を乱したが、滅ぼすまでには至らなかった」者に贈られる字であった。
それが同時代の人々が彼に贈った評価であった。彼が生涯を賭けて行った業績は評価されることはなかった。
そして、彼の死は新たな争いの火種を生むことになった。その火種は後に、この後漢全土を焼き尽くすほどの大火となった。
《続く》