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第六十七話 遺詔(一)

 車馬から降りた何進かしんは、赤く塗り固めた地面を踏みしめ、門をくぐり、靴を脱いで建物の中へと入っていった。


 この建物は大将軍府だいしょうぐんふ大将軍だいしょうぐんである何進かしんが政務を執る役所だ。


 回廊を速歩で進む彼の顔には明らかに苛立ちが見える。すれ違う属吏たちはその形相に恐れて、誰も不用意に近づこうとしない。


 何進かしんは誰とも挨拶を交わすこともなく、堂と呼ばれる彼の執務室へと入っていった。彼はそのまま自分の席につき、誰もいないのをいいことにつくえに突っ伏した。


蹇碩けんせきの奴⋯⋯。


 まさか、こんな土壇場で全てを奴に持っていかれてしまうとは⋯⋯」


 何進かしんの怒りの原因は宦官かんがん蹇碩けんせきであった。彼に出し抜かれ、次の皇帝を自分の甥の劉弁りゅうべんではなく、劉協りゅうきょうにされてしまった。


 今からでも霊帝れいていに直談判して変えてもらいたいところであった。だが、肝心の霊帝れいていが亡くなってしまった。後継の遺言だけ残されてしまっては今さらどうすることも出来なかった。


「ここに来て我が悲願が潰えるとは⋯⋯」


 今はまだ、霊帝れいていの崩御は伏せられている。しかし、いつまでも隠してはおれない。いずれ公表しなければならない。


 だが、公表してしまうということは、次の皇帝が劉協りゅうきょうであることも公表しなければならない。


「やはり、どうあっても董侯りゅうきょうの即位は覆らぬか。


 それならばすぐにでも陛下れいていの崩御を公表するのが臣下の務めか。


 公表しなければ陛下れいていの葬儀も執り行えぬ。これから暖かくなり、御遺体の腐敗は進む一方だ」


 一先ずは葬儀の準備のためという建前で、張譲ちょうじょうらとしばらくは霊帝れいていの崩御を伏せることを蹇碩けんせきらに認めさせた。だが、それは少しでも劉協りゅうきょうの即位を引き延ばしたいという悪足掻わるあがきであることは、皆は心の内で知っていた。


 意味のない引き伸ばしなら、すぐにでも止めるべきではないか。何進かしんの心の中は、諦めの気持ちが多くを占めるようになっていた。


大将軍かしん!」


 自身の執務室の座床いすに腰掛け、俯く何進かしんに、声掛ける者がいた。


 何進かしんはその言葉に頭を上げた。


 誰も声を掛けようとしなかった何進かしんに、進んで声を掛ける者、そして、それに続く者。二人の男性が彼の元に歩み寄ってきた。


 声を掛けたのは、年は四十四歳。鋭い眼光に、豊かな顎髭あごひげを生やした威厳のある顔つき。艶やかな装飾を細部に施した武官の衣裳を身に纏った男。


 彼の名は袁紹えんしょうあざな本初ほんしょ


 そして、その袁紹えんしょうの後に続くのは、彼より一回りほど小柄で細身な外見。年は三十五歳。切れ長の目には光りをたたえ、眉は細長く、知的な顔つき。簡素だが、機能的な改良が施された武官の衣裳を身につけていた。


 彼の名は曹操そうそうあざな孟徳もうとくであった。


 彼ら二人は今現在は西園軍せいえんぐんに所属していた。しかし、本を正せば何進かしんの部下であった。特に袁紹えんしょう何進かしんの側近として、頭角を現していた。そんな二人であったから、大将軍府だいしょうぐんふへの出入りも日頃から頻繁に行っていた。


大将軍かしん、尋常ならざる事態のようですが、いかがなされましたか」


 袁紹えんしょう何進かしんに尋ねる。誰も近づかないほど苛立ちを見せる何進かしん相手に話しかけられるのも、彼がそれだけ信頼されている証と言えた。


 事実、何進かしん袁紹えんしょうの来訪を喜んだ。彼は席から立ち上がって、すがるような気持ちで彼に尋ねた。


袁紹えんしょう、大変なことになった。


 先ほど、陛下れいていがお亡くなりになったのだ」


 この情報には思わず袁紹えんしょうも驚き、声を震わせた。


「な、なんですって⋯⋯陛下れいていが⋯⋯。


 それで⋯⋯」


 袁紹えんしょうはさらに話を続けようとするが、その間に曹操そうそうが咳払いをして割り込んだ。


「ゴホン、大将軍かしん


 陛下れいていの崩御は国家の大事ではございませんか?


 それをおいそれと我ら家臣にお話になるべきではございません」


 曹操そうそうの冷静な正論に、何進かしんも思わず怯んだ。


「そ、そうか。それもそうであったな⋯⋯」


 確かに部下とは言え、まだ非公表の話をするのは不用意であった。何進かしん曹操そうそうの意見に納得し、話を切り上げようとした。


 だが、今度はそれに袁紹えんしょうが待ったをかけた。


「待て、孟徳そうそうよ。


 お前はこの話を他所に漏らそうというのか」


 袁紹えんしょうは凄んで曹操そうそうに詰め寄る。元より曹操そうそうも話して回ろうなんてつもりはない。


「いや、そういうわけではないが⋯⋯」


 彼はそう言いながら言葉を詰まらせた。


 すると、袁紹えんしょう、得意な顔で腕を組み、大袈裟に頷いた。


「そうであろう。


 大将軍かしん、ご安心を。


 確かにその話は国家の大事ではございますが、ここにいる者もまた国家を担う重臣でございます。それに私も孟徳そうそうも、他所で吹聴するような不埒者ふらちものではございません。


 どうか、安心してお話をお聞かせください」


 袁紹えんしょうは腕を広げ、自身の胸を力強く叩いた。彼の態度に何進かしんもすっかり機嫌を良くし、気を許して話し始めた。


「うむ、そうであったな。


 確かにこの話はおいそれとすべき話ではない。


 だが、お前たちは信頼している部下だ。特別に話を聞かせてやろう」


 そう何進かしんに言われれば、袁紹えんしょうかしこまって「は、ありがとうございます」と答える。


 曹操そうそうもこうなっては最早どうすることもできず、ただ成り行きを見守るしかなかった。


 そうとなれば何進かしんは安心して滔々とうとうと機密情報の霊帝れいていの死について語り出した。


「先ほど言った通り、陛下れいていの容態がにわかに悪くなり、今し方、お隠れになった。


 それは悲しむべきことではあるが、今はその先の話をしなければならない。


 陛下れいていは亡くなられる直前、こう遺言を残された。『わたしが初めた改革の火を決して絶やしてはならん!』と。そして『後継者を董侯りゅうきょうとする』とも」


 この話に袁紹えんしょうは驚愕して聞き返した。


「なんと!


 董侯りゅうきょうを次期皇帝にですと!」


 霊帝れいていには二人の皇子がいた。兄が史侯しこう劉弁りゅうべん、弟が董侯とうこう劉協りゅうきょう。しかし、長らく霊帝れいていは皇太子(皇子の中で跡継ぎと定められた者)を立てずにいた。だが、何進かしんの甥で、有力宦官かんがん張譲ちょうじょうらの支持もある劉弁りゅうべんが優勢なのではないかと見られていた。


 それを霊帝れいていは死の間際に劉協りゅうきょうを後継者と定めた。


 これに何進かしんは憤慨した。


「そうだ、今際の際に蹇碩けんせきそそのかしたのだ!


 奴め、用意周到なことに、遺詔いしょうまで書かせていた!


 これで我が甥・史侯りゅうべんの即位する道がついえた!」


 何進かしんは今にも泣き出さんばかりの勢いで、地団駄を踏んだ。


 何進かしんにとって甥・劉弁りゅうべんを次の皇帝にするのは悲願であった。彼を皇帝とするために張譲ちょうじょうらと共に長らく尽力してきた。それを最期の一瞬、蹇碩けんせきに遅れを取ったために、その尽力が全て水泡に帰してしまった。


 だが、その話に曹操そうそうが疑問を持ち、尋ねた。


遺詔いしょうですか?


 蹇上軍けんせきあらかじめ用意していたということですか?」


 聞く限り霊帝れいていの死は突然であった。とても正規の手続きを踏んで詔書しょうしょを発給させる時間があったように思えない。


「きっとそうに違いない!」


 何進かしんは憤慨して答えた。


 ということは、その遺詔いしょうの本文は、蹇碩けんせきが事前に用意していた非正規の文書であろう。


 それに気づいた袁紹えんしょうは、さらにある事を何進かしんに確認した。


蹇碩けんせきが用意した遺詔いしょう⋯⋯。


 大将軍だいしょうぐん、その遺詔いしょうには御名御璽ぎょめいぎょじが成されておりましたか?」


 その言葉に何進かしんはすぐに頭を巡らして思い返す。


「確か⋯⋯御名ぎょめいは何やら書いてあるようであったが、波打つ線のようでよくわからなかった。御璽ぎょじはなかったはずだ」


 それを聞くや否や、袁紹えんしょうはニヤリと笑って、何進かしんに近寄った。


「それならば、まだ手はございますぞ」


《続く》

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