車馬から降りた何進は、赤く塗り固めた地面を踏みしめ、門をくぐり、靴を脱いで建物の中へと入っていった。
この建物は大将軍府。大将軍である何進が政務を執る役所だ。
回廊を速歩で進む彼の顔には明らかに苛立ちが見える。すれ違う属吏たちはその形相に恐れて、誰も不用意に近づこうとしない。
何進は誰とも挨拶を交わすこともなく、堂と呼ばれる彼の執務室へと入っていった。彼はそのまま自分の席につき、誰もいないのをいいことに卓に突っ伏した。
「蹇碩の奴⋯⋯。
まさか、こんな土壇場で全てを奴に持っていかれてしまうとは⋯⋯」
何進の怒りの原因は宦官の蹇碩であった。彼に出し抜かれ、次の皇帝を自分の甥の劉弁ではなく、劉協にされてしまった。
今からでも霊帝に直談判して変えてもらいたいところであった。だが、肝心の霊帝が亡くなってしまった。後継の遺言だけ残されてしまっては今さらどうすることも出来なかった。
「ここに来て我が悲願が潰えるとは⋯⋯」
今はまだ、霊帝の崩御は伏せられている。しかし、いつまでも隠してはおれない。いずれ公表しなければならない。
だが、公表してしまうということは、次の皇帝が劉協であることも公表しなければならない。
「やはり、どうあっても董侯の即位は覆らぬか。
それならばすぐにでも陛下の崩御を公表するのが臣下の務めか。
公表しなければ陛下の葬儀も執り行えぬ。これから暖かくなり、御遺体の腐敗は進む一方だ」
一先ずは葬儀の準備のためという建前で、張譲らとしばらくは霊帝の崩御を伏せることを蹇碩らに認めさせた。だが、それは少しでも劉協の即位を引き延ばしたいという悪足掻きであることは、皆は心の内で知っていた。
意味のない引き伸ばしなら、すぐにでも止めるべきではないか。何進の心の中は、諦めの気持ちが多くを占めるようになっていた。
「大将軍!」
自身の執務室の座床に腰掛け、俯く何進に、声掛ける者がいた。
何進はその言葉に頭を上げた。
誰も声を掛けようとしなかった何進に、進んで声を掛ける者、そして、それに続く者。二人の男性が彼の元に歩み寄ってきた。
声を掛けたのは、年は四十四歳。鋭い眼光に、豊かな顎髭を生やした威厳のある顔つき。艶やかな装飾を細部に施した武官の衣裳を身に纏った男。
彼の名は袁紹、字は本初。
そして、その袁紹の後に続くのは、彼より一回りほど小柄で細身な外見。年は三十五歳。切れ長の目には光りを湛え、眉は細長く、知的な顔つき。簡素だが、機能的な改良が施された武官の衣裳を身につけていた。
彼の名は曹操、字は孟徳であった。
彼ら二人は今現在は西園軍に所属していた。しかし、本を正せば何進の部下であった。特に袁紹は何進の側近として、頭角を現していた。そんな二人であったから、大将軍府への出入りも日頃から頻繁に行っていた。
「大将軍、尋常ならざる事態のようですが、いかがなされましたか」
袁紹は何進に尋ねる。誰も近づかないほど苛立ちを見せる何進相手に話しかけられるのも、彼がそれだけ信頼されている証と言えた。
事実、何進も袁紹の来訪を喜んだ。彼は席から立ち上がって、縋るような気持ちで彼に尋ねた。
「袁紹、大変なことになった。
先ほど、陛下がお亡くなりになったのだ」
この情報には思わず袁紹も驚き、声を震わせた。
「な、なんですって⋯⋯陛下が⋯⋯。
それで⋯⋯」
袁紹はさらに話を続けようとするが、その間に曹操が咳払いをして割り込んだ。
「ゴホン、大将軍。
陛下の崩御は国家の大事ではございませんか?
それをおいそれと我ら家臣にお話になるべきではございません」
曹操の冷静な正論に、何進も思わず怯んだ。
「そ、そうか。それもそうであったな⋯⋯」
確かに部下とは言え、まだ非公表の話をするのは不用意であった。何進も曹操の意見に納得し、話を切り上げようとした。
だが、今度はそれに袁紹が待ったをかけた。
「待て、孟徳よ。
お前はこの話を他所に漏らそうというのか」
袁紹は凄んで曹操に詰め寄る。元より曹操も話して回ろうなんてつもりはない。
「いや、そういうわけではないが⋯⋯」
彼はそう言いながら言葉を詰まらせた。
すると、袁紹、得意な顔で腕を組み、大袈裟に頷いた。
「そうであろう。
大将軍、ご安心を。
確かにその話は国家の大事ではございますが、ここにいる者もまた国家を担う重臣でございます。それに私も孟徳も、他所で吹聴するような不埒者ではございません。
どうか、安心してお話をお聞かせください」
袁紹は腕を広げ、自身の胸を力強く叩いた。彼の態度に何進もすっかり機嫌を良くし、気を許して話し始めた。
「うむ、そうであったな。
確かにこの話はおいそれとすべき話ではない。
だが、お前たちは信頼している部下だ。特別に話を聞かせてやろう」
そう何進に言われれば、袁紹も畏まって「は、ありがとうございます」と答える。
曹操もこうなっては最早どうすることもできず、ただ成り行きを見守るしかなかった。
そうとなれば何進は安心して滔々と機密情報の霊帝の死について語り出した。
「先ほど言った通り、陛下の容態が俄に悪くなり、今し方、お隠れになった。
それは悲しむべきことではあるが、今はその先の話をしなければならない。
陛下は亡くなられる直前、こう遺言を残された。『朕が初めた改革の火を決して絶やしてはならん!』と。そして『後継者を董侯とする』とも」
この話に袁紹は驚愕して聞き返した。
「なんと!
董侯を次期皇帝にですと!」
霊帝には二人の皇子がいた。兄が史侯・劉弁、弟が董侯・劉協。しかし、長らく霊帝は皇太子(皇子の中で跡継ぎと定められた者)を立てずにいた。だが、何進の甥で、有力宦官の張譲らの支持もある劉弁が優勢なのではないかと見られていた。
それを霊帝は死の間際に劉協を後継者と定めた。
これに何進は憤慨した。
「そうだ、今際の際に蹇碩が唆したのだ!
奴め、用意周到なことに、遺詔まで書かせていた!
これで我が甥・史侯の即位する道が潰えた!」
何進は今にも泣き出さんばかりの勢いで、地団駄を踏んだ。
何進にとって甥・劉弁を次の皇帝にするのは悲願であった。彼を皇帝とするために張譲らと共に長らく尽力してきた。それを最期の一瞬、蹇碩に遅れを取ったために、その尽力が全て水泡に帰してしまった。
だが、その話に曹操が疑問を持ち、尋ねた。
「遺詔ですか?
蹇上軍が予め用意していたということですか?」
聞く限り霊帝の死は突然であった。とても正規の手続きを踏んで詔書を発給させる時間があったように思えない。
「きっとそうに違いない!」
何進は憤慨して答えた。
ということは、その遺詔の本文は、蹇碩が事前に用意していた非正規の文書であろう。
それに気づいた袁紹は、さらにある事を何進に確認した。
「蹇碩が用意した遺詔⋯⋯。
大将軍、その遺詔には御名御璽が成されておりましたか?」
その言葉に何進はすぐに頭を巡らして思い返す。
「確か⋯⋯御名は何やら書いてあるようであったが、波打つ線のようでよくわからなかった。御璽はなかったはずだ」
それを聞くや否や、袁紹はニヤリと笑って、何進に近寄った。
「それならば、まだ手はございますぞ」
《続く》