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第八十四話 太学(四)

 王允おういんの言葉に部屋の空気が一瞬、重くなるのを感じた。だが、その空気を打ち破るように鐘の音のような盧植ろしょくの声が辺りに響いた。


新帝陛下しょうていは即位されて、広く恩赦を施された。君は既に罪人ではない」


 王允おういんは自身の藍色の袖を振り払い、鋭い目を盧植ろしょくに向けた。


「ふん、恩赦か」


 王允おういんの声は低くくぐもっていたが、盧植ろしょくの声をはね退けるほどの力強さがあった。


「今や朝廷は宦官かんがんという病魔にむしばまれてしまった。


 例え恩赦を受けようとも、私はその宦官かんがんに、それも張譲ちょうじょうに睨まれているんだぞ。


 罪は許されようとも、彼らの恨みからは逃れられないだろう」


 憤る王允おういんに、盧植ろしょくは襟を正して、威厳ある顔つきに微かに笑みを浮かべた。


王子師おういん、君が宦官かんがんに対して思うところがあるのは知っている。私だってある。


 だが、今の朝廷は大将軍かしんが運営しておる」


 盧植ろしょくの声は落ち着いており、威厳に満ち、その言葉だけで説得力があった。


 だが、王允おういんはまだ訝しんでいる。


 盧植ろしょくは教え諭すように話しを続けた


大将軍かしんはかねてより君のことを高く評価していた。それに彼は今、人材を幅広く集めている。きっと、君なら歓迎されるだろう。私も推薦しよう」


 王允おういんは鼻を鳴らし、盧植ろしょくをジロリと睨んで、低く唸るように答えた。


大将軍かしん張譲ちょうじょう昵懇じっこんであろう」


 王允おういんのその一言で部屋中の空気がピリピリと震えた。まるで何進かしん宦官かんがんも何も信じていない、そんな態度であった。


 それを聞いた盧植ろしょくは一瞬、目を細めた。


王子師おういんよ、時代は変わりつつある」


 盧植ろしょくはゆっくりと、だが、力強く答えた。


「君がいない間に事情が変わったのだ。


 大将軍かしんの権力は、今や宦官かんがんを上回る。それに党錮とうこの禁も解除され、名士の力も盛り返しつつある」


 王允おういんは腕を組み、眉をひそめた。「ふむ」と唸ると、思案するように黙った。


「たとえ我らが権力を握ったとしても、宦官かんがんを完全に無視することはできんだろう」


 その王允おういんの一言には重みがあった。今までの経験からくる諦観が、彼にはあった。


 部屋の中に重苦しい空気が流れる。遠くからの学生による読経の声だけが辺りに響いた。


 盧植ろしょくは一歩前に踏み出すと、声を低めて話し始めた。


「これは秘中の秘であるが、お前に伝えておこう」


 そう話し始めた盧植ろしょくは、警戒するように辺りをキョロキョロと見回し始めた。さらに周囲にいる僕や李文優りぶんゆうに目配せした。その動きは今までのゆっくりと厳かなものとは変わり、俊敏なものとなっていた。


李博士りぶんゆうには既に大喪の時に確認は取っている。


 劉星りゅうせいよ、ここまで来たんだ。悪いが付き合ってもらうぞ」


 僕は慌てて頷いた。


「は、はい、盧先生ろしょく


 もちろんです!」


 思わず声が少し上ずってしまった。僕はもしかしたら歴史の動く瞬間を目撃するのかもしれないと期待してしまった。


 僕が頷いたのを見て、盧植ろしょくは黒々とした瞳を光らせ、王允おういんに向かって話し始めた。


「実は今、宦官かんがんを除こうと密かに計画が動いている。


 王子師おういん、かつて王佐おうさの才(王者を補佐する才能)とうたわれた君の力が欲しい。


 是非、計画に参加してくれ。


 そして、新帝陛下しょうていの下、新たな国造りに尽力してくれ」


 王允おういんは目を丸くして、一笑に付した。


「ハハ、宦官かんがんを除くだと?


 かつて聞喜侯ぶんきこう(外戚がいせき竇武とうぶのこと。昔、宦官かんがん一掃を計画したが失敗した)が失敗して自死したことを忘れたわけではあるまい」


 彼はさらに顔を険しくして、盧植ろしょくにぐいと顔を近づけた。


「そんな愚かな計画、誰が考えた?」


 盧植ろしょくは静かに、それでいてしっかりとした口調で答えた。


袁本初えんしょうだ」


 彼の口から語られた名前は名家の御曹司・袁紹えんしょうであった。


 未来から来た僕は知っている。確かに袁紹えんしょうは後に宦官かんがんを一掃するために動くことになる。どうやら、既に秘密裏に計画は動いていたようだ。そして、盧植ろしょくもまた、彼の計画に参画していたのだ。


 王允おういんの顔が一瞬、凍りつくのを感じた。


袁本初えんしょうだと!」


 彼の言葉には怒りが込められていた。


彼奴あやつ蛾賊の蜂起黄巾の乱の折に、疾うの昔に死んだ父親の喪に服すと言って引きもった臆病者だぞ。


 あんな奴に何ができる!」


 どうやら袁紹えんしょうは過去の黄巾賊の討伐に参加していなかったらしい。それも何年も昔に亡くなった父の喪に服すためという理由であった。王允おういんはそれが許せなかったようだ。


 盧植ろしょくはゆっくりと首を横に振った。


王子師おういん、いつの時代の話をしている。あの頃の彼とは違う。


 今や彼は大将軍かしんの最側近となり、宦官かんがんを朝廷より一掃せんと密かに動いているのだ」


 王允おういんは一瞬黙った。だが、カッと目を見開き、盧植ろしょくに詰め寄った。 


「確かにこのくに宿痾しゅくあ宦官かんがんを除くことは我らの悲願であった。


 しかし、それをあの若僧に任せようというのか?」


 王允おういんはまるで詰問でもするように、盧植ろしょくに問いかけた。


 しかし、盧植ろしょくは静かに答えた。


聞喜侯ぶんきこう(竇武とうぶ)の敗退、党錮とうこの禁⋯⋯誰もが宦官かんがんを憎みながら、続く粛清の嵐に牙を抜かれ、戦うことを諦めていた。


 そんな中、袁本初えんしょうは立ち上がったのだ。本当の臆病者は我らの方ではないか?」


 盧植ろしょくのその言葉に、王允おういんは押し黙った。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「あの若僧がな⋯⋯。


 私は見誤っていたのかもしれないな」


 その言葉に、盧植ろしょくも頷いて答える。


「そうだ。そのためにも貴殿の力を借りたいんだ」


 王允おういんは深く息を吐いた。再び顔を上げた時、彼の目は輝きを増していた。


「わかった。お前がそこまで言うのなら信じよう。


 私を大将軍かしんに紹介してくれ」


 彼は胸を張ってそう答えた。


 盧植ろしょくは満足げに頷き、厳格な顔にほのかな笑みを浮かべていた。


「よく決断してくれた。早速、大将軍かしんに取り合おう」


 僕は今、盧植ろしょく王允おういんという後漢を代表する名臣が、袁紹えんしょうの下、宦官かんがん一掃のために立ち上がる歴史的な瞬間に立ち会った。


 袁紹えんしょうと言えば、初対面の時にこう少年を殺そうとした人物だ。さらに彼は将来、滅びることになる人物だ。初対面の印象と、その後の歴史上での彼の行状のために、僕の中での彼の印象は悪いものとなっていた。


 だが、それはあまりに一面的な見方だったのかもしれない。


 実際には盧植ろしょくらが一目置くような、リーダーシップを発揮する人物のようだ。思えば河北で一時は最大勢力を築いた人物だ。ただの愚者ではないのだろう。 


 盧植ろしょくは、李文優りぶんゆうの方に向き直って話し出した。


李博士りぶんゆう、今回の話は内密に頼む」


 李文優りぶんゆう進賢冠しんけんかんを軽く傾け、手早く盧植ろしょく王允おういんに目配せした。


「お任せください。私は非力な博士はくしでありますが、このくにの窮状を憂いる者の一人でございます。


 私には社会を変える力はございません。そんな身が、高名なお二人に協力できて、光栄でございます。ぜひ、我がくにの病巣・宦官かんがんを一掃し、より良い社会に導いてください」


 盧植ろしょく李文優りぶんゆうに向かって軽く頭を下げた。


「非力と謙遜することはない。


 王子師おういんを匿い、引き合わせてくれただけで、世を変えるに十分な働きだ」


 李文優りぶんゆうは微笑みながら答えた。


「勿体なきお言葉でございます。


 しかし、それも蔡伯喈さいよう様のお導きでございます」


蔡伯喈さいよう!」


 彼の出した名に、盧植ろしょくは即座に反応した。蔡伯喈さいはくかいと言えば後漢の学者・蔡邕さいようのことだ。この太学たいがくの前の碑文を書いた先生だ。まさか、こんなにも早くまた名前を聞くとは思わなかった。


 なるほど、李文優りぶんゆう太学たいがくの先生だ。同じ学者仲間の縁で蔡邕さいようとも交流があったのだろう。


 盧植ろしょくは身を乗り出して、李文優りぶんゆうに尋ねた。


「そうか、王子師おういんを君に託したのは蔡伯喈さいようであったか。


 彼は今どこに?」


 この問いに李文優りぶんゆうは淡々と答えた。


「今は揚州ようしゅう(中国の東南部)の地で隠棲されているという話です」


揚州ようしゅうか⋯⋯」


 盧植ろしょくは眉をひそめ、静かに呟いた。


「あの御仁にもいずれ、朝廷に戻ってきていただきたいものだ」


 李文優りぶんゆうは目を細めながら答えた。


「難しいかもしれません。あの方は宦官かんがんに命を狙われ、讒言ざんげんに遭い、その結果、自らの意思で隠遁されましたから」


 彼はどこか遠い目をしていた。


 盧植ろしょくは顔を上げ、決然とした態度で答えた。


「そうか、だが、いずれあの方にも参内いただかねばならぬ。大将軍かしんに召集してもらえるよう働きかけよう」


 まもなく、盧植ろしょくの推薦を受けた王允おういん何進かしんに仕えた。


 何進かしん王允おういんの参内を喜び、彼を従事中郎じゅうじちゅうろうに命じた。従事中郎じゅうじちゅうろうとは、将軍の配下で謀議に参加する幕僚。つまり、参謀である。


 〜〜〜


 袁紹えんしょう盧植ろしょくを通じて、王允おういんが自分の計画に加わったことを知り、一人、ほくそ笑む。


「ふふふ、王子師おういんが我が計画に加わったか。


 このくには本当に愚かなことをした。宦官かんがんに権力を与え、恨みを買いすぎた。


 おかげで宦官かんがんを粛清すると言えば、盧子幹ろしょく王子師おういんら高名な名士を我が手駒として使うことができる。


 本当に愚かなくにだ。


 それで身を滅ぼすとも知らずにな⋯⋯」


 他に誰もいない一室で、袁紹えんしょうの高笑いだけが響いていた。


《続く》

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