王允の言葉に部屋の空気が一瞬、重くなるのを感じた。だが、その空気を打ち破るように鐘の音のような盧植の声が辺りに響いた。
「新帝陛下は即位されて、広く恩赦を施された。君は既に罪人ではない」
王允は自身の藍色の袖を振り払い、鋭い目を盧植に向けた。
「ふん、恩赦か」
王允の声は低くくぐもっていたが、盧植の声をはね退けるほどの力強さがあった。
「今や朝廷は宦官という病魔に蝕まれてしまった。
例え恩赦を受けようとも、私はその宦官に、それも張譲に睨まれているんだぞ。
罪は許されようとも、彼らの恨みからは逃れられないだろう」
憤る王允に、盧植は襟を正して、威厳ある顔つきに微かに笑みを浮かべた。
「王子師、君が宦官に対して思うところがあるのは知っている。私だってある。
だが、今の朝廷は大将軍が運営しておる」
盧植の声は落ち着いており、威厳に満ち、その言葉だけで説得力があった。
だが、王允はまだ訝しんでいる。
盧植は教え諭すように話しを続けた
「大将軍はかねてより君のことを高く評価していた。それに彼は今、人材を幅広く集めている。きっと、君なら歓迎されるだろう。私も推薦しよう」
王允は鼻を鳴らし、盧植をジロリと睨んで、低く唸るように答えた。
「大将軍は張譲と昵懇であろう」
王允のその一言で部屋中の空気がピリピリと震えた。まるで何進も宦官も何も信じていない、そんな態度であった。
それを聞いた盧植は一瞬、目を細めた。
「王子師よ、時代は変わりつつある」
盧植はゆっくりと、だが、力強く答えた。
「君がいない間に事情が変わったのだ。
大将軍の権力は、今や宦官を上回る。それに党錮の禁も解除され、名士の力も盛り返しつつある」
王允は腕を組み、眉をひそめた。「ふむ」と唸ると、思案するように黙った。
「たとえ我らが権力を握ったとしても、宦官を完全に無視することはできんだろう」
その王允の一言には重みがあった。今までの経験からくる諦観が、彼にはあった。
部屋の中に重苦しい空気が流れる。遠くからの学生による読経の声だけが辺りに響いた。
盧植は一歩前に踏み出すと、声を低めて話し始めた。
「これは秘中の秘であるが、お前に伝えておこう」
そう話し始めた盧植は、警戒するように辺りをキョロキョロと見回し始めた。さらに周囲にいる僕や李文優に目配せした。その動きは今までのゆっくりと厳かなものとは変わり、俊敏なものとなっていた。
「李博士には既に大喪の時に確認は取っている。
劉星よ、ここまで来たんだ。悪いが付き合ってもらうぞ」
僕は慌てて頷いた。
「は、はい、盧先生!
もちろんです!」
思わず声が少し上ずってしまった。僕はもしかしたら歴史の動く瞬間を目撃するのかもしれないと期待してしまった。
僕が頷いたのを見て、盧植は黒々とした瞳を光らせ、王允に向かって話し始めた。
「実は今、宦官を除こうと密かに計画が動いている。
王子師、かつて王佐の才(王者を補佐する才能)と謳われた君の力が欲しい。
是非、計画に参加してくれ。
そして、新帝陛下の下、新たな国造りに尽力してくれ」
王允は目を丸くして、一笑に付した。
「ハハ、宦官を除くだと?
かつて聞喜侯(外戚・竇武のこと。昔、宦官一掃を計画したが失敗した)が失敗して自死したことを忘れたわけではあるまい」
彼はさらに顔を険しくして、盧植にぐいと顔を近づけた。
「そんな愚かな計画、誰が考えた?」
盧植は静かに、それでいてしっかりとした口調で答えた。
「袁本初だ」
彼の口から語られた名前は名家の御曹司・袁紹であった。
未来から来た僕は知っている。確かに袁紹は後に宦官を一掃するために動くことになる。どうやら、既に秘密裏に計画は動いていたようだ。そして、盧植もまた、彼の計画に参画していたのだ。
王允の顔が一瞬、凍りつくのを感じた。
「袁本初だと!」
彼の言葉には怒りが込められていた。
「彼奴は蛾賊の蜂起の折に、疾うの昔に死んだ父親の喪に服すと言って引き籠もった臆病者だぞ。
あんな奴に何ができる!」
どうやら袁紹は過去の黄巾賊の討伐に参加していなかったらしい。それも何年も昔に亡くなった父の喪に服すためという理由であった。王允はそれが許せなかったようだ。
盧植はゆっくりと首を横に振った。
「王子師、いつの時代の話をしている。あの頃の彼とは違う。
今や彼は大将軍の最側近となり、宦官を朝廷より一掃せんと密かに動いているのだ」
王允は一瞬黙った。だが、カッと目を見開き、盧植に詰め寄った。
「確かにこの漢の宿痾・宦官を除くことは我らの悲願であった。
しかし、それをあの若僧に任せようというのか?」
王允はまるで詰問でもするように、盧植に問いかけた。
しかし、盧植は静かに答えた。
「聞喜侯(竇武)の敗退、党錮の禁⋯⋯誰もが宦官を憎みながら、続く粛清の嵐に牙を抜かれ、戦うことを諦めていた。
そんな中、袁本初は立ち上がったのだ。本当の臆病者は我らの方ではないか?」
盧植のその言葉に、王允は押し黙った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「あの若僧がな⋯⋯。
私は見誤っていたのかもしれないな」
その言葉に、盧植も頷いて答える。
「そうだ。そのためにも貴殿の力を借りたいんだ」
王允は深く息を吐いた。再び顔を上げた時、彼の目は輝きを増していた。
「わかった。お前がそこまで言うのなら信じよう。
私を大将軍に紹介してくれ」
彼は胸を張ってそう答えた。
盧植は満足げに頷き、厳格な顔にほのかな笑みを浮かべていた。
「よく決断してくれた。早速、大将軍に取り合おう」
僕は今、盧植・王允という後漢を代表する名臣が、袁紹の下、宦官一掃のために立ち上がる歴史的な瞬間に立ち会った。
袁紹と言えば、初対面の時に郃少年を殺そうとした人物だ。さらに彼は将来、滅びることになる人物だ。初対面の印象と、その後の歴史上での彼の行状のために、僕の中での彼の印象は悪いものとなっていた。
だが、それはあまりに一面的な見方だったのかもしれない。
実際には盧植らが一目置くような、リーダーシップを発揮する人物のようだ。思えば河北で一時は最大勢力を築いた人物だ。ただの愚者ではないのだろう。
盧植は、李文優の方に向き直って話し出した。
「李博士、今回の話は内密に頼む」
李文優は進賢冠を軽く傾け、手早く盧植と王允に目配せした。
「お任せください。私は非力な博士でありますが、この漢の窮状を憂いる者の一人でございます。
私には社会を変える力はございません。そんな身が、高名なお二人に協力できて、光栄でございます。ぜひ、我が漢の病巣・宦官を一掃し、より良い社会に導いてください」
盧植も李文優に向かって軽く頭を下げた。
「非力と謙遜することはない。
王子師を匿い、引き合わせてくれただけで、世を変えるに十分な働きだ」
李文優は微笑みながら答えた。
「勿体なきお言葉でございます。
しかし、それも蔡伯喈様のお導きでございます」
「蔡伯喈!」
彼の出した名に、盧植は即座に反応した。蔡伯喈と言えば後漢の学者・蔡邕のことだ。この太学の前の碑文を書いた先生だ。まさか、こんなにも早くまた名前を聞くとは思わなかった。
なるほど、李文優も太学の先生だ。同じ学者仲間の縁で蔡邕とも交流があったのだろう。
盧植は身を乗り出して、李文優に尋ねた。
「そうか、王子師を君に託したのは蔡伯喈であったか。
彼は今どこに?」
この問いに李文優は淡々と答えた。
「今は揚州(中国の東南部)の地で隠棲されているという話です」
「揚州か⋯⋯」
盧植は眉をひそめ、静かに呟いた。
「あの御仁にもいずれ、朝廷に戻ってきていただきたいものだ」
李文優は目を細めながら答えた。
「難しいかもしれません。あの方は宦官に命を狙われ、讒言に遭い、その結果、自らの意思で隠遁されましたから」
彼はどこか遠い目をしていた。
盧植は顔を上げ、決然とした態度で答えた。
「そうか、だが、いずれあの方にも参内いただかねばならぬ。大将軍に召集してもらえるよう働きかけよう」
まもなく、盧植の推薦を受けた王允は何進に仕えた。
何進は王允の参内を喜び、彼を従事中郎に命じた。従事中郎とは、将軍の配下で謀議に参加する幕僚。つまり、参謀である。
〜〜〜
袁紹は盧植を通じて、王允が自分の計画に加わったことを知り、一人、ほくそ笑む。
「ふふふ、王子師が我が計画に加わったか。
この漢は本当に愚かなことをした。宦官に権力を与え、恨みを買いすぎた。
おかげで宦官を粛清すると言えば、盧子幹や王子師ら高名な名士を我が手駒として使うことができる。
本当に愚かな漢だ。
それで身を滅ぼすとも知らずにな⋯⋯」
他に誰もいない一室で、袁紹の高笑いだけが響いていた。
《続く》