僕らは案内を頼んだ学生に教えてもらった方向へと、太学の中を進んで行く。
整然と並ぶ竹藪から風が吹き抜け、葉擦れの音ばかりが辺りに響く。
その道中、いくつかの石碑が立ち並んでいた。石碑はまだ真新しく、泥汚れや苔はほとんど見られない。格調高い漢文が整然と並び、無教養な僕でもこれが相当な一品であることがわかる。
僕はこの碑文の文字を見た。僕は未来からの転生者だが、この時代の言葉が理解できるように、この時代の文字も読むことができる。しかし、相手は最高学府の太学に建てられた碑文。さながら、大学の専門書を読まされているようなものだ。いくら文字が読めても、自分の学力以上の文章は理解することができない。
それでも気になった僕は盧植に尋ねた。
「盧先生、この碑文は何ですか」
盧植は軽く石碑を一瞥すると、淡々と説明を始めた。
「これは『熹平石経』。
蔡邕、字は伯喈という高名な学者がおられた。彼は、今から十四年前の熹平四年(一七五年)に、古代より伝わる経書には、長い時代を経たために異同や誤りが多くなったために、正しく校勘したいと奏上した。
学問を好んだ先帝陛下はそれをお許しになり、馬日磾ら当時有数の学者と経書の文字を校訂した。
そして、蔡伯喈自ら文字を書き、工人に刻ませて碑文とした。その碑文は太学に設立された。それがこれだ。
これにより今まで異本の多かった経書が統一されたのだ」
僕は盧植の簡略ながらも丁寧な説明に感心しつつも、質問を口にした。
「なるほど。⋯⋯ちなみに経書ってなんですか?」
よほど、初歩的なことを聞いてしまったのか。盧植ジロリと僕を睨むと、「うむ」と唸り声をあげ、冠を斜めに傾けながらも答えてくれた。
「君の乗馬の腕や車馬の運転の覚えの早さは見事であった。だが、それ以外のことももっと勉強しておくべきだな。
経書とは儒学の経典のことだ。そのうち碑文に書かれているのは、『易(易経)』、『詩(詩経)』、『書(書経)』、『儀礼』、『春秋』、『公羊伝』、そして、『論語』だ。
今、君の目の前にあるのは『詩』の一文だ」
盧植の 説明を受け、僕はじっくり石碑を見ながら石畳を進んだ。字体はこの時代では一般的な隷書で書かれている。
そういえば、蔡邕という人名にも聞き覚えがある。確か、董卓と関わる学者さんだったかな。どうにも三国志の知識が曖昧で困る。転生することがわかっていたら、もっと頑張って勉強しておくんだったな。
だが、この校勘が未来にも受け継がれているかもしれないなと、思いを馳せながら奥へと進んだ。
僕らは先ほどの学生が指し示した建物の前へとやってきた。年季の入った木造建ての建物だ。盧植が言うには約六十年前に大規模な増改築が行われたのだという。年季の入り方から見るに、この建物なんかはその増改築の時に建てられたものだろうか。
正面には朱色の扉のついている。この一棟の中では、いくつかの部屋に分かれている。その中の一室に盧植の会いたがっている人物がいるのだという。
何でも盧植の会いたがっている人物は、彼の旧友なのだという。過去に宦官の恨みを買い、名を変えて身を隠していた。それが今、ここ太学に滞在しているのだという。
盧植は扉の前で一度立ち止まり、頭にかぶる四角い進賢冠を軽く整えた。
「劉星、この中で会う人物は私の旧友だ。失礼のないよう礼を尽くせよ」
彼はそういつもの厳格な口調で言った。僕は慌てて頭巾を整え、背筋を伸ばした。盧植先生の旧友とは、果たしてどんな人物であろうか。僕の知っている人物なのだろうか。
「その李博士という方がご友人の所在をご存知なのですか?」
「ああ、李文優という男はこの太学の博士を務め、普段は経書を教えている。だが、学識ばかりではなく、政治に強い関心を持ち、頭もキレる。
だからこそ、宦官に追われた我が旧友を助けて、匿ってくれた。
私は先日の大喪の折にその話を聞いた」
僕は盧植とそんな会話を交わしながら、その李文優という博士のいる部屋を訪ねた。
部屋の中は簡素だが小綺麗に整えられ、塵一つ落ちてはいない。書架には竹簡の束が整然と並んでいる。周囲には墨の香りがかすかに漂っている。奥の筵に座っていた男は、僕らを見かけるとすぐに立ち上がり、こちらに向かってきた。
やって来たのは、歳は四十代前後、細長い顔立ちに切れ長の目、鼻は高く、色は青白い。学者先生だけあっていかにも頭の良さそうな人物だ。僕は文優という名には聞き覚えがないが、彼も有名人だったりするんだろうか。後で名を聞いておこうか。
頭には進賢冠と呼ばれる帽子に直角の屋根を付けたような黒い冠をかぶり、袖の広い灰色の長衣を着ている。
彼は両手を胸の前で合わせ、盧植に深々と頭を下げた。
「これは盧尚書、大喪の時以来でございます」
彼が李文優のようだ。彼は丁寧な態度で盧植に接した。
「あのお方はこちらにおられます。
さあ、どうぞ」
李文優に誘導され、僕らは奥の間へと移動した。その移動した先に目的の人物はいた。彼を一目見るなり、射抜くような鋭い眼光がいきなり僕らを貫いた。
歳は盧植と同年代の五十代ほど。頬の張った四角い顔に鋭い眼光を放つ小さな目。長く身を潜めていたという話だが、深く刻まれた皺が彼の長年の苦労を偲ばせる。だが、そんな生活でもよく生い茂った白い髭は綺麗に整えられ、彼の実直さを表しているようだ。
頭には幘と呼ばれる簡易な黒い帽子をかぶり、藍色の衣裳を身に付けている。その服装は随分使い込まれてくたびれてはいるが、袖や裾に簡素ながら精緻な雲文の刺繍が施されており、元は上質であったことを窺わせる。腰の剣は未使用のような美しさがあった。
「盧子幹、久しいな」
男は低くくぐもった声でそう発した。高名な盧植を字で呼ぶ当たり、かなり親しい間柄であるようだ。
「それはこちらの台詞だ。
貴殿も元気そうでないよりだ」
普段は厳格な盧植も、いささか砕けた口調で彼に返した。
「なに、宦官ごときに捕まる私ではないよ」
そう言うと男はカラカラと笑った。
初見時は怖そうな印象であったが、どうやらそこまでお硬い人物ではないようだ。僕は盧植に改めて尋ねた。
「盧先生、こちらの方が会いたかった方ですか」
盧植は僕の方へと振り向くと、彼を指し示しながら紹介を初めた。
「ああ、紹介しておこう。
こちらは私の古い友人で王允、字は子師という。」
男は盧植に合わせるように自己紹介をした。
彼が王允か。僕は思わず目を見開いた。
王允といえば後漢を代表する臣下。そして、将来、あの董卓に引導を渡す人物だ。
僕は思わず、彼がいたかと心の中で叫んだ。僕は董卓の乱を生き延びるために、確実にそれ以降も生きている袁紹や曹操らとどうにかして親しくなれないかと考えていた。
だが、他に王允がいた。彼は董卓にトドメを刺す存在。ならば、確実に生き残れる一人だ。幸い、彼は既に盧植と親しい間柄にある。僕は董卓の災いから生き残るために、王允と親しくなろうと決めた。
「彼は劉星。馬が使えるので今、うちで雇っている。
今後、連絡を取る時は彼に書簡を頼むことになるだろうから、顔を覚えておいてくれ」
盧植は僕を王允に紹介してくれた。僕は少しでも王允に好印象を持ってもらおうと、腰を低くして丁寧に挨拶をした。
僕の挨拶に対して王允もまた丁寧に返してくれた。
「劉君、よろしく頼む。
盧子幹がわざわざ書簡を任せるとは、なかなか見どころがある。覚えておこう」
挨拶が終わると、盧植は真剣な顔で王允に詰め寄った。
「それで、王子師よ。
そろそろ朝廷に戻るつもりはないか」
盧植の言葉に、王允は肩をすくめて答える。
「ふふ、私は罪人だぞ」
彼は自嘲気味にそう語った。
《続く》