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第八十三話 太学(三)

 僕らは案内を頼んだ学生に教えてもらった方向へと、太学たいがくの中を進んで行く。


 整然と並ぶ竹藪から風が吹き抜け、葉擦れの音ばかりが辺りに響く。


 その道中、いくつかの石碑が立ち並んでいた。石碑はまだ真新しく、泥汚れや苔はほとんど見られない。格調高い漢文が整然と並び、無教養な僕でもこれが相当な一品であることがわかる。


 僕はこの碑文の文字を見た。僕は未来からの転生者だが、この時代の言葉が理解できるように、この時代の文字も読むことができる。しかし、相手は最高学府の太学たいがくに建てられた碑文。さながら、大学の専門書を読まされているようなものだ。いくら文字が読めても、自分の学力以上の文章は理解することができない。


 それでも気になった僕は盧植ろしょくに尋ねた。


盧先生ろしょく、この碑文は何ですか」


 盧植ろしょくは軽く石碑を一瞥すると、淡々と説明を始めた。


「これは『熹平石経きへいせきけい』。


 蔡邕さいようあざな伯喈はくかいという高名な学者がおられた。彼は、今から十四年前の熹平きへい四年(一七五年)に、古代より伝わる経書には、長い時代を経たために異同や誤りが多くなったために、正しく校勘したいと奏上した。


 学問を好んだ先帝陛下れいていはそれをお許しになり、馬日磾ばじつていら当時有数の学者と経書の文字を校訂した。


 そして、蔡伯喈さいよう自ら文字を書き、工人に刻ませて碑文とした。その碑文は太学たいがくに設立された。それがこれだ。


 これにより今まで異本の多かった経書が統一されたのだ」


 僕は盧植ろしょくの簡略ながらも丁寧な説明に感心しつつも、質問を口にした。


「なるほど。⋯⋯ちなみに経書ってなんですか?」


 よほど、初歩的なことを聞いてしまったのか。盧植ろしょくジロリと僕を睨むと、「うむ」と唸り声をあげ、冠を斜めに傾けながらも答えてくれた。


「君の乗馬の腕や車馬の運転の覚えの早さは見事であった。だが、それ以外のことももっと勉強しておくべきだな。


 経書とは儒学の経典のことだ。そのうち碑文に書かれているのは、『えき(易経えききょう)』、『詩(詩経しきょう)』、『書(書経しょきょう)』、『儀礼ぎらい』、『春秋しゅんじゅう』、『公羊伝くようでん』、そして、『論語ろんご』だ。


 今、君の目の前にあるのは『詩』の一文だ」


 盧植ろしょくの 説明を受け、僕はじっくり石碑を見ながら石畳を進んだ。字体はこの時代では一般的な隷書れいしょで書かれている。


 そういえば、蔡邕さいようという人名にも聞き覚えがある。確か、董卓とうたくと関わる学者さんだったかな。どうにも三国志の知識が曖昧で困る。転生することがわかっていたら、もっと頑張って勉強しておくんだったな。


 だが、この校勘が未来にも受け継がれているかもしれないなと、思いを馳せながら奥へと進んだ。


 僕らは先ほどの学生が指し示した建物の前へとやってきた。年季の入った木造建ての建物だ。盧植ろしょくが言うには約六十年前に大規模な増改築が行われたのだという。年季の入り方から見るに、この建物なんかはその増改築の時に建てられたものだろうか。


 正面には朱色の扉のついている。この一棟の中では、いくつかの部屋に分かれている。その中の一室に盧植ろしょくの会いたがっている人物がいるのだという。


 何でも盧植ろしょくの会いたがっている人物は、彼の旧友なのだという。過去に宦官かんがんの恨みを買い、名を変えて身を隠していた。それが今、ここ太学たいがくに滞在しているのだという。


 盧植ろしょくは扉の前で一度立ち止まり、頭にかぶる四角い進賢冠しんけんかんを軽く整えた。


 「劉星りゅうせい、この中で会う人物は私の旧友だ。失礼のないよう礼を尽くせよ」


 彼はそういつもの厳格な口調で言った。僕は慌てて頭巾を整え、背筋を伸ばした。盧植先生の旧友とは、果たしてどんな人物であろうか。僕の知っている人物なのだろうか。


「その李博士りぶんゆうという方がご友人の所在をご存知なのですか?」


「ああ、李文優りぶんゆうという男はこの太学たいがく博士はくしを務め、普段は経書を教えている。だが、学識ばかりではなく、政治に強い関心を持ち、頭もキレる。


 だからこそ、宦官かんがんに追われた我が旧友を助けて、匿ってくれた。


 私は先日の大喪の折にその話を聞いた」


 僕は盧植ろしょくとそんな会話を交わしながら、その李文優りぶんゆうという博士はくしのいる部屋を訪ねた。


 部屋の中は簡素だが小綺麗に整えられ、塵一つ落ちてはいない。書架には竹簡の束が整然と並んでいる。周囲には墨の香りがかすかに漂っている。奥のむしろに座っていた男は、僕らを見かけるとすぐに立ち上がり、こちらに向かってきた。


 やって来たのは、歳は四十代前後、細長い顔立ちに切れ長の目、鼻は高く、色は青白い。学者先生だけあっていかにも頭の良さそうな人物だ。僕は文優ぶんゆうという名には聞き覚えがないが、彼も有名人だったりするんだろうか。後で名を聞いておこうか。


 頭には進賢冠しんけんかんと呼ばれる帽子に直角の屋根を付けたような黒い冠をかぶり、袖の広い灰色の長衣を着ている。


 彼は両手を胸の前で合わせ、盧植ろしょくに深々と頭を下げた。


「これは盧尚書ろしょく、大喪の時以来でございます」


 彼が李文優りぶんゆうのようだ。彼は丁寧な態度で盧植ろしょくに接した。


「あのお方はこちらにおられます。


 さあ、どうぞ」


 李文優りぶんゆうに誘導され、僕らは奥の間へと移動した。その移動した先に目的の人物はいた。彼を一目見るなり、射抜くような鋭い眼光がいきなり僕らを貫いた。


 歳は盧植ろしょくと同年代の五十代ほど。頬の張った四角い顔に鋭い眼光を放つ小さな目。長く身を潜めていたという話だが、深く刻まれた皺が彼の長年の苦労を偲ばせる。だが、そんな生活でもよく生い茂った白い髭は綺麗に整えられ、彼の実直さを表しているようだ。


 頭にはさくと呼ばれる簡易な黒い帽子をかぶり、藍色の衣裳を身に付けている。その服装は随分使い込まれてくたびれてはいるが、袖やすそに簡素ながら精緻な雲文の刺繍が施されており、元は上質であったことを窺わせる。腰の剣は未使用のような美しさがあった。


盧子幹ろしょく、久しいな」


 男は低くくぐもった声でそう発した。高名な盧植ろしょくあざなで呼ぶ当たり、かなり親しい間柄であるようだ。


「それはこちらの台詞だ。


 貴殿も元気そうでないよりだ」


 普段は厳格な盧植ろしょくも、いささか砕けた口調で彼に返した。


「なに、宦官かんがんごときに捕まる私ではないよ」


 そう言うと男はカラカラと笑った。


 初見時は怖そうな印象であったが、どうやらそこまでお硬い人物ではないようだ。僕は盧植ろしょくに改めて尋ねた。


盧先生ろしょく、こちらの方が会いたかった方ですか」


 盧植ろしょくは僕の方へと振り向くと、彼を指し示しながら紹介を初めた。


「ああ、紹介しておこう。


 こちらは私の古い友人で王允おういん、字は子師ししという。」


 男は盧植ろしょくに合わせるように自己紹介をした。


 彼が王允おういんか。僕は思わず目を見開いた。


 王允おういんといえば後漢を代表する臣下。そして、将来、あの董卓とうたくに引導を渡す人物だ。


 僕は思わず、彼がいたかと心の中で叫んだ。僕は董卓とうたくの乱を生き延びるために、確実にそれ以降も生きている袁紹えんしょう曹操そうそうらとどうにかして親しくなれないかと考えていた。


 だが、他に王允おういんがいた。彼は董卓とうたくにトドメを刺す存在。ならば、確実に生き残れる一人だ。幸い、彼は既に盧植ろしょくと親しい間柄にある。僕は董卓とうたくの災いから生き残るために、王允おういんと親しくなろうと決めた。


「彼は劉星りゅうせい。馬が使えるので今、うちで雇っている。


 今後、連絡を取る時は彼に書簡を頼むことになるだろうから、顔を覚えておいてくれ」


 盧植ろしょくは僕を王允おういんに紹介してくれた。僕は少しでも王允おういんに好印象を持ってもらおうと、腰を低くして丁寧に挨拶をした。


 僕の挨拶に対して王允おういんもまた丁寧に返してくれた。


劉君りゅうせい、よろしく頼む。


 盧子幹ろしょくがわざわざ書簡を任せるとは、なかなか見どころがある。覚えておこう」


 挨拶が終わると、盧植ろしょくは真剣な顔で王允おういんに詰め寄った。


「それで、王子師おういんよ。


 そろそろ朝廷に戻るつもりはないか」


 盧植ろしょくの言葉に、王允おういんは肩をすくめて答える。


「ふふ、私は罪人だぞ」


 彼は自嘲気味にそう語った。


《続く》

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