目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第八十九話 蹇碩(五)

 蹇碩けんせきの血まみれの死体を片付けるよう黄門令こうもんれいに命じた袁紹えんしょうは、静かに何進かしんの方へと振り返った。


大将軍かしん、お疲れのところ申し訳ありません。


 ですが、我々は早く董氏とうしの対して手を打たねばなりません」


 袁紹えんしょうの声は落ち着きながらも、底知れぬ扇動力を帯びていた。彼はまるで無二の忠臣という面で何進かしんに接する。だが、その瞳には冷酷な野心が宿っていた。


 袁紹えんしょうの言葉に、何進かしんは重々しく頷いた。董氏とうしの尖兵である蹇碩けんせきを殺した今、全面対決はもう避けられない。回廊の床には、蹇碩けんせきの血が冷たく光り、朝日の影が宮中の重苦しい空気を映し出していた。


 それをよく理解しながらも、なおも何進かしんは踏ん切りがつかないでいた。彼の大柄な体は甲冑に包まれ、堂々たる威圧感を放つが、顔には皇族との対決への躊躇が伺われた。


「確かにそうだ。


 だが、相手は太后たいごうだぞ」


 何進かしんの声には、決意と迷いが交錯していた。


 董氏とうしを率いるのは、霊帝れいていの母・董太后とうたいごうだ。董氏とうしと対決するということは、この董太后とうたいごうと敵対することを意味する。外戚がいせきとはいえ、皇族に刃を向けることに、何進かしんは深い戸惑いを抱えていた。


 だが、袁紹えんしょうは狡猾に言葉を重ね何進かしんを急かした。


「だからこそ急がねばならないのです。


 蹇碩けんせきの死んだ今、奴らがどんな強硬策に出るかわかりません。もはや、もう後戻りは出来ないのです。


 今ならまだ、奴らも蹇碩けんせきの死を知りません」


 鬼気迫る袁紹えんしょうの言葉に、回廊の空気が一層重くなった。蹇碩けんせきの死は、もはや後戻りを許さない。何進かしんの胸には董氏とうしとの対決を覚悟する炎が灯り始めた。


「確かにその通りだ。ここまで来たからには董氏とうしと決着を付けるぞ!」


 何進かしんは拳を握りしめ、力強く宣言した。彼の瞳から迷いが消え、戦士の眼光が宿っていた。


「よくぞ、ご決心なされました。


 この場は私が処理しておきます。大将軍かしん董氏とうしのもとにお急ぎください」


 袁紹えんしょうは一礼し、恭しく頭を下げた。


 下げた顔に冷酷な笑みを湛えた袁紹えんしょうの真意を、何進かしんは知る由もなかった。回廊の柱の影が彼の顔を半分覆い、底知れぬ野心を隠していた。


 何進かしん袁紹えんしょうの堂々とした態度に、かえって安心を覚えた。彼には、袁紹えんしょうの忠義が揺るぎないものに映っていた。


「そ、そうか。では、蹇碩けんせきの死体を頼むぞ」


 何進かしん袁紹えんしょうに一任し、甲冑の音を響かせながら部下を率いて回廊を去った。


 袁紹えんしょうの傍らには、一人の男が静かに残っていた。細面で目の小さなその男は、逢紀ほうき袁紹えんしょうが信頼する側近であり、冷静な策謀家であった。


 袁紹えんしょうは彼に命じた。


逢紀ほうき、お前はここにいる西園軍せいえんぐんの兵士を率いて帰っておけ。


 私は潘司馬はんいんと少し話がある」


「お任せください」


 袁紹えんしょうの命を受けた逢紀ほうきは、かつて蹇碩けんせきの部下であった西園軍せいえんぐんの兵士たちを率いて去った。彼らは袁紹えんしょうの指示に唯々諾々と従い、甲冑の音を響かせながら回廊を後にした。


 回廊には袁紹えんしょう潘隠はんいん、そして蹇碩けんせきの血が冷たく固まった床だけが残った。朝日の光が血痕を照らし、宮中の冷徹な現実を映し出していた。


 袁紹えんしょう潘隠はんいんを連れ、回廊の物陰に潜む闇へと誘った。柱の影が二人を包み、朝の光から隔絶された空間を作り出していた。


潘司馬はんいん、前回は暗殺の危機を知らせ、そして今回は蹇碩けんせきに最初の一撃を与えていただきありがとうございました。


 おかげで何進かしんも躊躇なく蹇碩けんせきを斬りつけてくれました」


 袁紹えんしょうの言葉は穏やかだったが、その背後には底知れぬ計算が潜んでいた。


 袁紹えんしょうからの労いの言葉に、潘隠はんいんは得意げに胸を張った。彼の中では約束された出世が現実のものとなりつつあった。


「お役に立てて光栄です。


 それで、約束の件は如何様になりますでしょうか?


 好きな土地の県令にしていただけるという話でしたね」


 潘隠はんいんは目を輝かせ、前のめりに袁紹えんしょうに尋ねた。


「もちろん、覚えておりますよ。


 しかし、あなたが軍から離れるというのは寂しいものですかな」


 袁紹えんしょうの声は穏やかだったが、その目には冷たい光が宿り、底知れぬ企みを隠していた。


「いや、軍隊の生活は気が休まらない。誰の部下になるかも分かりませんしな。


 県令となり、財を貯めて安泰な老後を送らせていただきます」


 潘隠はんいんは笑顔で答え、目の前の出世に思いを馳せた。彼の顔には、軍の重圧から解放される安堵が浮かんでいた。


 その瞬間、背後から何者かが潘隠はんいんに襲いかかった。鋭い剣が彼の背中から腹まで貫き、鮮血が闇に飛び散った。


 潘隠はんいんの背中から鮮血が溢れ、彼はよろめいた。


「な、何っ⋯⋯!」


 潘隠はんいんは咄嗟に腰の剣に手を伸ばしたが、さやは空だった。


「しまった!


 あの時、渡してしまって⋯⋯」


 潘隠はんいんは顔を上げ、袁紹えんしょうの方へと見やった。ここにきてまだ彼は事態を計りかねていた。


 袁紹えんしょうは刺された潘隠はんいんに冷ややかな笑みを浮かべ、動揺の欠片も見せなかった。


「すみませんね。あなたの役目は終わりました」


 袁紹えんしょうの声は、氷のように冷たかった。


 潘隠はんいんはその言葉で、全てが袁紹えんしょうの掌の上だったことを悟った。怒りに体が震え、血が床に滴った。


袁紹えんしょう! 貴様か!」


 潘隠はんいんは腹を押さえ、うずくまりながら血を吐いて叫んだ。目は霞み、足は力を失っていた。


「私はあなたに尽くしてきたぞ。


 何故、殺そうとする!」


 潘隠はんいんは声を振り絞り、袁紹えんしょうを問い詰めた。


「あなたは知り過ぎた。あなたの口から余計なことが漏れるのは困るのだ。


 軍隊に未練のないあなたにはいよいよ使い所もない」


 袁紹えんしょうは無表情で言い放ち、背後の男に目配せした。


司馬しばの私が消えれば、西園軍せいえんぐんは不審に思うぞ」


 潘隠はんいんはキッと睨んでそう返した。


 だが、袁紹えんしょうは微塵も焦る様子を見せなかった。


蹇碩けんせきの死んだ今、西園軍せいえんぐん大将軍かしんの傘下に入る。


 そうなれば当然、軍は再編される。


 その過程で司馬しばの一人がいなくなったところで、誰が気にするものか。


 ましてや、あなたは世間的には蹇碩けんせきの側近であったのだからな。ハッハッハ」


 袁紹えんしょうはそうせせら笑い、酷薄な眼光で潘隠はんいんを見下ろした。


 潘隠はんいんは目を怒らせ、歯を食いしばった。憎しみが彼の最後の力を振り絞らせた。


「貴様、碌な死に方せんぞ!」


 潘隠はんいんの声は、憎しみに震えていた。


 だが、潘隠はんいんの振り絞った言葉にも、袁紹えんしょうは眉一つ動かさなかった。


「思い上がるな。


 お前如きの死で、私の人生が左右されるものか。


 殺れ!」


 袁紹えんしょうの命令は、鋭く闇に響いた。


 袁紹えんしょうの命令に、背後に控える男は情け容赦なく剣を振り下ろした。潘隠はんいんは断末魔の叫び上げ、床に崩れ落ちて絶命した。


 潘隠はんいんの死を確認し終え、物陰から男が姿を現した。


 現れた三十代後半の男は、紅色のうわぎには返り血が飛び散り、剣には血が滴っていた。


 大きな目は鋭い光を放ち、高い鼻に薄い唇が冷血な雰囲気を漂わせていた。顔つきは整っているが、どこか非情な印象を与えた。


「終わりました。袁本初えんしょう殿」


 男は動揺一つ見せず、血で汚れたうわぎを脱ぎ、淡々と剣の血を拭った。


 その堂々とした姿に袁紹えんしょうは称賛した。


「さすが許攸きょゆうだ。


 お前は豪胆で、躊躇ためらいがない。


 頼りにしているぞ」


 袁紹えんしょうは満足げに笑い、許攸きょゆうの肩を叩いた。


「お任せを」


 許攸きょゆうは一礼し、静かに剣をさやに収めた。


 この男の名は許攸きょゆうあざな子遠しえん袁紹えんしょうが若き日から信頼する部下だった。彼は何進かしん招聘しょうへいを受けなかったが、密かに袁紹えんしょうに招かれ、彼の手足として暗躍していた。


 袁紹えんしょうは、宮中の混乱を見据え、闇の中で呟いた。


「ふふ、今回の件で大将軍かしん董氏とうしの対立はいよいよ避けては通れなくなった。このままなら大将軍かしんが勝つだろう。


 本番はそれからだ。


 董氏とうしという共通の敵がいなくなれば必ず大将軍かしん宦官かんがんたちは対立する。


 ハッハッハ、皆、殺し合え!


 宦官かんがん外戚がいせきも皆根絶やしになってしまえ!」


 袁紹えんしょうの笑い声は、回廊の闇に冷たく響いた。


 昇る朝日が洛陽らくようの城壁を照らし、宮殿の屋根に長い影を落とした。まもなく、蹇碩けんせきは牢獄で「自殺」したと発表されたが、洛陽らくようの民はヒソヒソと何進かしんの誅殺を噂した。


 だが、袁紹えんしょうにとって蹇碩けんせきの死は些末な出来事に過ぎなかった。何進かしん董氏とうしとの対決を決意した。


 だが、張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅう宦官かんがんたちは依然として宮廷に強い影響力を保持していた。袁紹えんしょう宦官かんがんたちを滅ぼすため、さらなる策を巡らせていた。洛陽らくようの情勢は、彼の望む混乱の淵へと静かに滑り始めていた。


《続く》

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?