蹇碩の血まみれの死体を片付けるよう黄門令に命じた袁紹は、静かに何進の方へと振り返った。
「大将軍、お疲れのところ申し訳ありません。
ですが、我々は早く董氏の対して手を打たねばなりません」
袁紹の声は落ち着きながらも、底知れぬ扇動力を帯びていた。彼はまるで無二の忠臣という面で何進に接する。だが、その瞳には冷酷な野心が宿っていた。
袁紹の言葉に、何進は重々しく頷いた。董氏の尖兵である蹇碩を殺した今、全面対決はもう避けられない。回廊の床には、蹇碩の血が冷たく光り、朝日の影が宮中の重苦しい空気を映し出していた。
それをよく理解しながらも、なおも何進は踏ん切りがつかないでいた。彼の大柄な体は甲冑に包まれ、堂々たる威圧感を放つが、顔には皇族との対決への躊躇が伺われた。
「確かにそうだ。
だが、相手は太后だぞ」
何進の声には、決意と迷いが交錯していた。
董氏を率いるのは、霊帝の母・董太后だ。董氏と対決するということは、この董太后と敵対することを意味する。外戚とはいえ、皇族に刃を向けることに、何進は深い戸惑いを抱えていた。
だが、袁紹は狡猾に言葉を重ね何進を急かした。
「だからこそ急がねばならないのです。
蹇碩の死んだ今、奴らがどんな強硬策に出るかわかりません。もはや、もう後戻りは出来ないのです。
今ならまだ、奴らも蹇碩の死を知りません」
鬼気迫る袁紹の言葉に、回廊の空気が一層重くなった。蹇碩の死は、もはや後戻りを許さない。何進の胸には董氏との対決を覚悟する炎が灯り始めた。
「確かにその通りだ。ここまで来たからには董氏と決着を付けるぞ!」
何進は拳を握りしめ、力強く宣言した。彼の瞳から迷いが消え、戦士の眼光が宿っていた。
「よくぞ、ご決心なされました。
この場は私が処理しておきます。大将軍は董氏のもとにお急ぎください」
袁紹は一礼し、恭しく頭を下げた。
下げた顔に冷酷な笑みを湛えた袁紹の真意を、何進は知る由もなかった。回廊の柱の影が彼の顔を半分覆い、底知れぬ野心を隠していた。
何進は袁紹の堂々とした態度に、かえって安心を覚えた。彼には、袁紹の忠義が揺るぎないものに映っていた。
「そ、そうか。では、蹇碩の死体を頼むぞ」
何進は袁紹に一任し、甲冑の音を響かせながら部下を率いて回廊を去った。
袁紹の傍らには、一人の男が静かに残っていた。細面で目の小さなその男は、逢紀。袁紹が信頼する側近であり、冷静な策謀家であった。
袁紹は彼に命じた。
「逢紀、お前はここにいる西園軍の兵士を率いて帰っておけ。
私は潘司馬と少し話がある」
「お任せください」
袁紹の命を受けた逢紀は、かつて蹇碩の部下であった西園軍の兵士たちを率いて去った。彼らは袁紹の指示に唯々諾々と従い、甲冑の音を響かせながら回廊を後にした。
回廊には袁紹と潘隠、そして蹇碩の血が冷たく固まった床だけが残った。朝日の光が血痕を照らし、宮中の冷徹な現実を映し出していた。
袁紹は潘隠を連れ、回廊の物陰に潜む闇へと誘った。柱の影が二人を包み、朝の光から隔絶された空間を作り出していた。
「潘司馬、前回は暗殺の危機を知らせ、そして今回は蹇碩に最初の一撃を与えていただきありがとうございました。
おかげで何進も躊躇なく蹇碩を斬りつけてくれました」
袁紹の言葉は穏やかだったが、その背後には底知れぬ計算が潜んでいた。
袁紹からの労いの言葉に、潘隠は得意げに胸を張った。彼の中では約束された出世が現実のものとなりつつあった。
「お役に立てて光栄です。
それで、約束の件は如何様になりますでしょうか?
好きな土地の県令にしていただけるという話でしたね」
潘隠は目を輝かせ、前のめりに袁紹に尋ねた。
「もちろん、覚えておりますよ。
しかし、あなたが軍から離れるというのは寂しいものですかな」
袁紹の声は穏やかだったが、その目には冷たい光が宿り、底知れぬ企みを隠していた。
「いや、軍隊の生活は気が休まらない。誰の部下になるかも分かりませんしな。
県令となり、財を貯めて安泰な老後を送らせていただきます」
潘隠は笑顔で答え、目の前の出世に思いを馳せた。彼の顔には、軍の重圧から解放される安堵が浮かんでいた。
その瞬間、背後から何者かが潘隠に襲いかかった。鋭い剣が彼の背中から腹まで貫き、鮮血が闇に飛び散った。
潘隠の背中から鮮血が溢れ、彼はよろめいた。
「な、何っ⋯⋯!」
潘隠は咄嗟に腰の剣に手を伸ばしたが、鞘は空だった。
「しまった!
あの時、渡してしまって⋯⋯」
潘隠は顔を上げ、袁紹の方へと見やった。ここにきてまだ彼は事態を計りかねていた。
袁紹は刺された潘隠に冷ややかな笑みを浮かべ、動揺の欠片も見せなかった。
「すみませんね。あなたの役目は終わりました」
袁紹の声は、氷のように冷たかった。
潘隠はその言葉で、全てが袁紹の掌の上だったことを悟った。怒りに体が震え、血が床に滴った。
「袁紹! 貴様か!」
潘隠は腹を押さえ、蹲りながら血を吐いて叫んだ。目は霞み、足は力を失っていた。
「私はあなたに尽くしてきたぞ。
何故、殺そうとする!」
潘隠は声を振り絞り、袁紹を問い詰めた。
「あなたは知り過ぎた。あなたの口から余計なことが漏れるのは困るのだ。
軍隊に未練のないあなたにはいよいよ使い所もない」
袁紹は無表情で言い放ち、背後の男に目配せした。
「司馬の私が消えれば、西園軍は不審に思うぞ」
潘隠はキッと睨んでそう返した。
だが、袁紹は微塵も焦る様子を見せなかった。
「蹇碩の死んだ今、西園軍は大将軍の傘下に入る。
そうなれば当然、軍は再編される。
その過程で司馬の一人がいなくなったところで、誰が気にするものか。
ましてや、あなたは世間的には蹇碩の側近であったのだからな。ハッハッハ」
袁紹はそうせせら笑い、酷薄な眼光で潘隠を見下ろした。
潘隠は目を怒らせ、歯を食いしばった。憎しみが彼の最後の力を振り絞らせた。
「貴様、碌な死に方せんぞ!」
潘隠の声は、憎しみに震えていた。
だが、潘隠の振り絞った言葉にも、袁紹は眉一つ動かさなかった。
「思い上がるな。
お前如きの死で、私の人生が左右されるものか。
殺れ!」
袁紹の命令は、鋭く闇に響いた。
袁紹の命令に、背後に控える男は情け容赦なく剣を振り下ろした。潘隠は断末魔の叫び上げ、床に崩れ落ちて絶命した。
潘隠の死を確認し終え、物陰から男が姿を現した。
現れた三十代後半の男は、紅色の袍には返り血が飛び散り、剣には血が滴っていた。
大きな目は鋭い光を放ち、高い鼻に薄い唇が冷血な雰囲気を漂わせていた。顔つきは整っているが、どこか非情な印象を与えた。
「終わりました。袁本初殿」
男は動揺一つ見せず、血で汚れた袍を脱ぎ、淡々と剣の血を拭った。
その堂々とした姿に袁紹は称賛した。
「さすが許攸だ。
お前は豪胆で、躊躇いがない。
頼りにしているぞ」
袁紹は満足げに笑い、許攸の肩を叩いた。
「お任せを」
許攸は一礼し、静かに剣を鞘に収めた。
この男の名は許攸。字は子遠。袁紹が若き日から信頼する部下だった。彼は何進の招聘を受けなかったが、密かに袁紹に招かれ、彼の手足として暗躍していた。
袁紹は、宮中の混乱を見据え、闇の中で呟いた。
「ふふ、今回の件で大将軍と董氏の対立はいよいよ避けては通れなくなった。このままなら大将軍が勝つだろう。
本番はそれからだ。
董氏という共通の敵がいなくなれば必ず大将軍と宦官たちは対立する。
ハッハッハ、皆、殺し合え!
宦官も外戚も皆根絶やしになってしまえ!」
袁紹の笑い声は、回廊の闇に冷たく響いた。
昇る朝日が洛陽の城壁を照らし、宮殿の屋根に長い影を落とした。まもなく、蹇碩は牢獄で「自殺」したと発表されたが、洛陽の民はヒソヒソと何進の誅殺を噂した。
だが、袁紹にとって蹇碩の死は些末な出来事に過ぎなかった。何進は董氏との対決を決意した。
だが、張譲や趙忠ら宦官たちは依然として宮廷に強い影響力を保持していた。袁紹は宦官たちを滅ぼすため、さらなる策を巡らせていた。洛陽の情勢は、彼の望む混乱の淵へと静かに滑り始めていた。
《続く》