少帝の即位から十日余り、洛陽の宮廷は重苦しい雰囲気に包まれていた。日中の日の光が嘉徳殿の回廊に影を落とす。ここの冷たい床は先刻行われた蹇碩の惨劇を知らぬまま静寂を保っていた。
この嘉徳殿では、霊帝の母・董太后と、少帝(劉弁)の母・何太后による権力争いが、密かに火花を散らしていた。
少帝が即位して以来、何太后は董太后の政治への参与をことごとく妨げ、一切の口出しを許さなかった。彼女の鋭い眼光と冷徹な采配は、宮廷に新たな権力の風を吹き込んでいた。皇帝の交代とともに、権力の中心もまた移り変わっていた。
嘉徳殿に続く回廊を、長い白髪を後ろで結び、絹の袍に身を包み、綺羅びやかな貴金属を身に着けた女性が長い裾を侍婢に持たせ、早足で進む。彼女こそが董太后であった。
六十ほどの彼女は、顔に深い皺が刻まれていたが、かつての美貌の名残を留めていた。上質な絹の袿衣と金の装飾が、彼女の威厳を際立たせていた。
「待ちなさい!」
董太后の声は、回廊の床に鋭く響き、侍婢たちが息を呑んだ。
その声を受け、長身で、黒髪を流れるように垂らし、透き通る白い肌に高貴な気品を漂わせる女性が振り返った。
「あら、なんでしょう義母上?」
彼女は涼やかな声で答え、微笑に挑発的な余裕を滲ませていた。
彼女こそが何太后であった。七尺一寸(約百六十四センチ)の長身は当時の女性では際立ち、細い腰と長い手足が優雅さを際立たせていた。黒髪は輝き、肌は透き通るように白く、湾曲した眉と長い睫毛が整った顔に鋭い眼光を添えていた。
髪は椎髻に結い、黄金の歩揺(黄金の台座に珠玉を付けた頭飾り)が輝いていた。
黄褐色の羅地に長寿刺繍が施された真綿の曲裾(地に届くほど長い裾が広がるスカート状になっているワンピースタイプの服)は、裾が地に広がり、耳や首元の豪奢な装飾と腰の香嚢が彼女の高貴さを際立たせていた。
「なんでしょうとは白々しいわね!
妾を政治の場から引き離すなんてどういうつもりよ!」
董太后の上品な顔は怒りで紅潮し、袿衣の袖を握りしめて詰め寄った。
何太后は泰然自若とした表情で、曲裾の袖を軽く振って受け流した。
「義母上、あなたが政治に参与したのは先帝陛下の御母堂であったが故。
今の陛下の母は妾です。
代が替わったことをご理解くださいませ」
何太后は袖を翻し、鋭い眼光で答えた。
その態度に董太后は体を震わせ、怒りに声が裏返りながら叫んだ。
「なんと生意気な小娘でしょう!
あなたが今、偉そうにしているのは、お前の兄の大将軍のおかげでしょう!
驃騎将軍に命じて何進の首を刎ねて持ってきますよ!」
董太后の言葉は、回廊の床に反響した。その発言に、侍婢たちは怯えた目で互いの顔を見合わせた。
「まあ、なんと恐ろしい言葉でしょう。
それが河間(冀州にある国。現在の河北省滄州市辺り。董太后の故郷)の風俗なのでしょうか」
何太后は唇を歪めて笑い、曲裾の袖を軽く振った。
「妾を僻地の出と言いたいの!
あなただって南陽(荊州にある郡。現在の河南省南陽市を中心とした場所)の生まれでしょう!」
董太后は拳を握り、声を荒げ、足を踏みしめた。
「まあまあ、義母上は南陽を鄙俚の地と仰りたいのですか?
畏れ多くも東漢(後漢のこと)の始まりの地・南陽(後に後漢を建国する光武帝らは当初、南陽を勢力基盤とした)を?」
何太后の言葉は、鋭い刃のように董太后を切りつけた。彼女は袖で口元を隠して、冷笑を浮かべた。
「むむ⋯⋯。
覚えてらっしゃい!」
董太后は顔を真っ赤にし、|袿衣の裾を翻して回廊を去った。彼女の足音が、静寂に重く響いた。
「フン、時代遅れの媼め!
自分の金の心配だけしてればいいものを!」
何太后は小さく笑い、回廊の闇に声を溶かした。侍婢たちが怯えた目で俯いた。
〜〜〜
何太后は長楽宮に戻った。彼女は天蓋付きの大床の前に並べて置かれた凳に腰掛け、隣の塀風にもたれてかかった。燭台の灯りが白い肌を照らし、妖艶な瞳に残酷な光が宿っていた。
「⋯⋯ということなのよ。
兄上、あの媼に鉄槌を加えてくださいまし。
妾たちの力を見せてやりましょう」
何太后の瞳が怪しく光る。
彼女の前に立つのは、兄であり、大将軍の何進であった。武官の紅色の袍をまとい、厳しい顔で話を聞いていた彼は、先刻行った蹇碩の誅殺で、董氏との対決を決めたばかりであった。今の何進にとって、何太后からもたらされた話はまさに、渡りに船であった。
「そうか、私の首を刎ねるか。よい口実が出来た。
三公や車騎将軍と協議し、永楽太后を追い出す旨を奏上しよう」
何進は豊かな口髭を撫で、手にした手版(メモ用の木の板、笏)になにやらしたため始めた。
「そんなまどろっこしいことしなくていいわよ。
さっさと捕まえて処刑してちょうだい」
何太后は凭几を叩き、声を尖らせた。
「相手は太后だぞ。そういうわけにはいかん。手順というものがあるんだ」
何進は眉を寄せ、額に汗を浮かべながら、慎重に答えた。
「本当に融通が効かないわね」
対する何太后は唇を尖らせ、軽蔑の視線を投げた。
〜〜〜
一方、永楽宮では、董太后が何進を討つ策を練った。そのために彼女は床に腰掛け、凭几に手を置き、甥の董重ら側近を集めていた。薄暗い宮殿の奥、燭台の灯りが憔悴した顔を照らしていた。夕陽が血のように赤く窓を染めた。
遅れて董重が永楽宮に入ってくる。遅くなった彼を董太后は鋭く睨んだ。
「遅かったですね。蹇碩はまだ来ないのかしら」
董太后の声には焦りが滲み、手が震えていた。
「それどころではありません。
蹇碩が何進に捕まったそうです」
董重は汗を拭い、袍の袖を握りしめながら、声を震わせた。
「なんですって!
それで、どうなったんですか? まさか、殺されたんじゃ⋯⋯」
董太后は凭几に手を置き、体を支えた。
「捕まったとしかまだ情報が流れておりません。どうなったのか⋯⋯」
董重は目を伏せ、言葉を濁した。
この時、何進らは蹇碩の死を隠していた。ただ、捕らえたとのみ公式発表として行っていた。董重ものれ以上の情報は掴めずにいた。
「承、すぐに様子を見に行きなさい」
董太后は同じく甥で奉車都尉の董承に鋭い言葉で命じた。
「わかりました」
命を受けた董承は一礼し、急いで永楽宮を後にした。
董太后の胸には暗雲が立ち込めた。宮中の静寂が彼女の不安を増幅していた。だが、その暗雲の深さを、彼女はまだ理解できていなかった。
《続く》