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第九十話 董太后(一)

 少帝しょうていの即位から十日余り、洛陽らくようの宮廷は重苦しい雰囲気に包まれていた。日中の日の光が嘉徳殿かとくでんの回廊に影を落とす。ここの冷たい床は先刻行われた蹇碩けんせきの惨劇を知らぬまま静寂を保っていた。


 この嘉徳殿かとくでんでは、霊帝れいていの母・董太后とうたいごうと、少帝しょうてい(劉弁りゅうべん)の母・何太后かたいごうによる権力争いが、密かに火花を散らしていた。


 少帝しょうていが即位して以来、何太后かたいごう董太后とうたいごうの政治への参与をことごとく妨げ、一切の口出しを許さなかった。彼女の鋭い眼光と冷徹な采配は、宮廷に新たな権力の風を吹き込んでいた。皇帝の交代とともに、権力の中心もまた移り変わっていた。


 嘉徳殿かとくでんに続く回廊を、長い白髪を後ろで結び、絹のうわぎに身を包み、綺羅びやかな貴金属を身に着けた女性が長い裾を侍婢に持たせ、早足で進む。彼女こそが董太后とうたいごうであった。


 六十ほどの彼女は、顔に深い皺が刻まれていたが、かつての美貌の名残を留めていた。上質な絹の袿衣うちかけと金の装飾が、彼女の威厳を際立たせていた。


「待ちなさい!」


 董太后とうたいごうの声は、回廊の床に鋭く響き、侍婢たちが息を呑んだ。


 その声を受け、長身で、黒髪を流れるように垂らし、透き通る白い肌に高貴な気品を漂わせる女性が振り返った。


「あら、なんでしょう義母上とうたいごう?」


 彼女は涼やかな声で答え、微笑に挑発的な余裕を滲ませていた。


 彼女こそが何太后かたいごうであった。七尺一寸(約百六十四センチ)の長身は当時の女性では際立ち、細い腰と長い手足が優雅さを際立たせていた。黒髪は輝き、肌は透き通るように白く、湾曲した眉と長い睫毛まつげが整った顔に鋭い眼光を添えていた。


 髪は椎髻ついけいに結い、黄金の歩揺ほよう(黄金の台座に珠玉を付けた頭飾り)が輝いていた。

 黄褐色の羅地に長寿刺繍が施された真綿の曲裾きょくきょ(地に届くほど長い裾が広がるスカート状になっているワンピースタイプの服)は、裾が地に広がり、耳や首元の豪奢な装飾と腰の香嚢においぶくろが彼女の高貴さを際立たせていた。


「なんでしょうとは白々しいわね!


 わたしを政治の場から引き離すなんてどういうつもりよ!」


 董太后とうたいごうの上品な顔は怒りで紅潮し、袿衣うちかけの袖を握りしめて詰め寄った。


 何太后かたいごうは泰然自若とした表情で、曲裾きょくきょの袖を軽く振って受け流した。


義母上とうたいごう、あなたが政治に参与したのは先帝陛下れいていの御母堂であったが故。


 今の陛下しょうていの母はわたしです。


 代が替わったことをご理解くださいませ」


 何太后かたいごうは袖を翻し、鋭い眼光で答えた。


 その態度に董太后とうたいごうは体を震わせ、怒りに声が裏返りながら叫んだ。


「なんと生意気な小娘でしょう!


 あなたが今、偉そうにしているのは、お前の兄の大将軍かしんのおかげでしょう!


 驃騎将軍とうじゅうに命じて何進かしんの首をねて持ってきますよ!」


 董太后とうたいごうの言葉は、回廊の床に反響した。その発言に、侍婢たちは怯えた目で互いの顔を見合わせた。


「まあ、なんと恐ろしい言葉でしょう。


 それが河間かかん(冀州きしゅうにある国。現在の河北省かほくしょう滄州市そうしゅうし辺り。董太后とうたいごうの故郷)の風俗なのでしょうか」


 何太后かたいごうは唇を歪めて笑い、曲裾きょくきょの袖を軽く振った。


わたしを僻地の出と言いたいの!


 あなただって南陽なんよう(荊州けいしゅうにある郡。現在の河南省かなんしょう南陽市なんようしを中心とした場所)の生まれでしょう!」


 董太后とうたいごうは拳を握り、声を荒げ、足を踏みしめた。


「まあまあ、義母上とうたいごう南陽なんよう鄙俚ひりの地と仰りたいのですか?


 おそれ多くも東漢とうかん(後漢のこと)の始まりの地・南陽なんよう(後に後漢を建国する光武帝こうぶていらは当初、南陽なんようを勢力基盤とした)を?」


 何太后かたいごうの言葉は、鋭い刃のように董太后とうたいごうを切りつけた。彼女は袖で口元を隠して、冷笑を浮かべた。


「むむ⋯⋯。


 覚えてらっしゃい!」


 董太后とうたいごうは顔を真っ赤にし、|袿衣うちかけの裾を翻して回廊を去った。彼女の足音が、静寂に重く響いた。


「フン、時代遅れのばばあめ!


 自分の金の心配だけしてればいいものを!」


 何太后かたいごうは小さく笑い、回廊の闇に声を溶かした。侍婢たちが怯えた目で俯いた。


 〜〜〜


 何太后かたいごう長楽宮ちょうらくきゅうに戻った。彼女は天蓋付きの大床ベッドの前に並べて置かれた長いすに腰掛け、隣の塀風にもたれてかかった。燭台の灯りが白い肌を照らし、妖艶な瞳に残酷な光が宿っていた。


「⋯⋯ということなのよ。


 兄上かしん、あのばばあに鉄槌を加えてくださいまし。


 わたしたちの力を見せてやりましょう」


 何太后かたいごうの瞳が怪しく光る。


 彼女の前に立つのは、兄であり、大将軍だいしょうぐん何進かしんであった。武官の紅色のうわぎをまとい、厳しい顔で話を聞いていた彼は、先刻行った蹇碩けんせきの誅殺で、董氏とうしとの対決を決めたばかりであった。今の何進かしんにとって、何太后かたいごうからもたらされた話はまさに、渡りに船であった。


「そうか、私の首をねるか。よい口実が出来た。


 三公や車騎将軍かびょうと協議し、永楽太后とうたいごうを追い出す旨を奏上しよう」


 何進かしんは豊かな口髭を撫で、手にした手版しゅはん(メモ用の木の板、こつ)になにやらしたため始めた。


「そんなまどろっこしいことしなくていいわよ。


 さっさと捕まえて処刑してちょうだい」


 何太后かたいごう凭几ひじおきを叩き、声を尖らせた。


「相手は太后たいごうだぞ。そういうわけにはいかん。手順というものがあるんだ」


 何進かしんは眉を寄せ、額に汗を浮かべながら、慎重に答えた。


「本当に融通が効かないわね」


 対する何太后かたいごうは唇を尖らせ、軽蔑の視線を投げた。


 〜〜〜


 一方、永楽宮えいらくきゅうでは、董太后とうたいごう何進かしんを討つ策を練った。そのために彼女はだいざに腰掛け、凭几ひじおきに手を置き、甥の董重とうじゅうら側近を集めていた。薄暗い宮殿の奥、燭台の灯りが憔悴した顔を照らしていた。夕陽が血のように赤く窓を染めた。


 遅れて董重とうじゅう永楽宮えいらくきゅうに入ってくる。遅くなった彼を董太后とうたいごうは鋭く睨んだ。


「遅かったですね。蹇碩けんせきはまだ来ないのかしら」


 董太后とうたいごうの声には焦りが滲み、手が震えていた。


「それどころではありません。


 蹇碩けんせき何進かしんに捕まったそうです」


 董重とうじゅうは汗を拭い、うわぎの袖を握りしめながら、声を震わせた。


「なんですって!


 それで、どうなったんですか? まさか、殺されたんじゃ⋯⋯」


 董太后とうたいごう凭几ひじおきに手を置き、体を支えた。


「捕まったとしかまだ情報が流れておりません。どうなったのか⋯⋯」


 董重とうじゅうは目を伏せ、言葉を濁した。


 この時、何進かしんらは蹇碩けんせきの死を隠していた。ただ、捕らえたとのみ公式発表として行っていた。董重とうじゅうものれ以上の情報は掴めずにいた。


とうしょう、すぐに様子を見に行きなさい」


 董太后とうたいごうは同じく甥で奉車都尉ほうしゃとい董承とうしょうに鋭い言葉で命じた。


「わかりました」


 命を受けた董承とうしょうは一礼し、急いで永楽宮えいらくきゅうを後にした。


 董太后とうたいごうの胸には暗雲が立ち込めた。宮中の静寂が彼女の不安を増幅していた。だが、その暗雲の深さを、彼女はまだ理解できていなかった。


《続く》


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