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第九十一話 董太后(二)

 董承とうしょうが戻る前に、永楽宮えいらくきゅう何進かしんの手勢により包囲された。甲冑の音が夜の静寂を破り、燈火あかりの炎が闇を切り裂いた。兵士たちの影が格子窓を通して室内に入り込み、冷たく不気味な空気を漂わせた。


 董太后とうたいごう袿衣うちかけの裾を侍婢に持たせ、杖を手に立ち上がった。薄暗い永楽宮えいらくきゅうしきがわらを歩く彼女の足音が重く響いた。窓の外では兵士たちの燈火あかりが揺れ、赤々とした光が宮殿の壁を不気味に染めた。侍婢たちは怯えた目で顔を見合わせ、沈黙を守った。


 董太后とうたいごう永楽宮えいらくきゅうの前まで進み出ると、包囲する兵士たちに向けて叫んだ。


「何事ですか! 無礼者!


 わたし太后たいごうですよ!


 早く兵を解きなさい!」


 董太后とうたいごうは声を張り上げると、震える手で杖を地面に突いた。彼女の袿衣うちかけが兵士の燈火あかりに照らされ、赤く燃え上がるような姿を見せた。


「我ら董氏とうしに刃を向けて、無事で済むと思いでないでしょうね!」


 彼女は空に言葉を重ね、兵士たちを睨みつけた。


 何進かしんは甲冑を鳴らし、重々しく前に進み出た。彼は黒い甲冑の上から紅色の戦袍せんぽうをまとい、まるで戦場のような出で立ちであった。その背後には長矛を構えた無数の兵士たちが控えている。彼らの鎧が燈火あかりによって緋色に輝き、宮殿を包む緊張を高めた。


「そうはいかない。


 我が奏上が通った。


 永楽太后とうたいごう、あなたの帰国が決まった。


 この永楽宮えいらくきゅうを明け渡してもらおう」


 何進かしんの声は、宮殿の中を反響して駆け巡った。その言葉に侍婢たちは息を呑んだ。


「なんですって!」


 董太后とうたいごうは目を大きく見開き、怒りに体を震わせた。杖で再び床を叩き、その鋭い音が静寂を破った。


大将軍かしん、あなたは外戚がいせきの力を利用して陛下しょうていを動かしたのですか!


 なんたる野心家か!」


 彼女は声を荒げ、何進かしんなじった。


 何進かしん董太后とうたいごうの言葉に返事することなく、懐から一通の書状を取り出し、燈火あかりに照らして読み上げ始めた。


「『制して曰く』!」


 何進かしんの口からこの言葉が出た瞬間、董太后とうたいごうは思わず身構えた。その字面は皇帝直々の命令を示す詔勅しょうちょくに用いられる文言であった。何進かしん詔勅しょうちょくまで用意してきたことに、董太后とうたいごうは内心、恐怖を覚えた。彼女の侍婢たちは一層怯え、互いに身を寄せ合った。


 何進かしんは泰然と読み続けた。


「⋯⋯『孝仁太后とうたいごうは、元の中常侍ちゅうじょうじ夏惲かうん永楽太僕えいらくたいぼく封諝ほうしょ(ともに宦官かんがんで故人)らを使い、州郡と結託させ、各地の珍宝や賄賂を独り占めにし、全て永楽宮えいらくきゅうに納めさせた。


 また、藩后ばんこう(前漢の平帝へいていの母・衛姫えいきのこと。彼女の専制を恐れた王莽おうもうによって長安ちょうあん(前漢の首都)から追い出された)の故事に倣えば、太后たいこう京師しゅとに留まることを許されない。


 なお、輿服よふく(車と衣裳)及び食事の支給は規定に定められた通りとする


 どうか、永楽后とうたいごう南宮なんきゅうより本国である河間国(冀州きしゅうにある国。現在の河北省かほくしょう滄州市そうしゅうし辺り。)へとうつされますように。


 これを可とし、孝仁太后とうたいごうに下す云々⋯⋯』


 以上、永楽太后とうたいごうはこの詔勅しょうちょくに従い、速やかに本国に帰還されたし!」


 董太后とうたいごうは唖然とし、杖を握る手に力がこもった。彼女の瞳には、屈辱と怒りが渦巻いていた。


わたし陛下しょうていの祖母ですよ!


 そのわたしを宮殿より追い出そうというのか!」


 彼女は声を振り絞り、何進かしんを睨んだ。


 対して何進かしんは、苛立ちを抑えて、声を張り上げた。


永楽太后とうたいごう、移動に差し支えあるのであれば、我らでお助け致しましょう。


 お前たち、永楽太后とうたいごうを外にお連れしろ!」


 何進かしんの指示を受けると、武装した兵士たちが董太后とうたいごうの周りを取り囲んだ。


 兵士たちの手が伸びてきた瞬間、董太后とうたいごうの怒声が響いた。


「無礼者! わたしに触れるな!


 例え詔勅しょうちょくがあろうとも、わたし太后たいごうであることに変わりはないのですよ!」


 董太后とうたいごうは杖を振り上げて兵士たちを威嚇し、叫んだ。侍婢たちは恐怖でその場にうずくまり、耳目を閉じた。


 その時、甥の董重とうじゅう董太后とうたいごうを守ろうと、門外に飛び出した。彼は剣を抜いて兵士たちの前に立ちはだかった。


「離れよ!


 太后殿下とうたいごうへの無礼は許さん!」


 董重とうじゅうは声を震わしながらも、剣先を兵士たちに向けた。


 取り囲む兵士たちは、董太后とうたいごうに加えて、驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうじゅうという大物の登場に怯み、歩みを止めた。長矛を肩に担ぎ、互いの顔を見合わせた。


 そこへ何進かしんの大声が鋭く響いた。


脩侯とうじゅう


 お前が永楽太后とうたいごうと結託して、不正に金銭を懐に入れていたことはすでに調べがついている。


 お前にもちょくが下っているぞ!


驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうじゅうに告ぐ。


 そなたの驃騎将軍ひょうきしょうぐんの任を解く。


 故事の如くせよ云々⋯⋯』


 董重とうじゅう、おとなしく縛につけ!


 さあ、お前たち、奴はもう驃騎将軍ひょうきしょうぐんではないぞ! 遠慮せずに捕らえよ!」


 何進かしんは剣を握って掲げ、声を張り上げた。


董重とうじゅう


 お前の権勢もこれまでだ!」


「な、なんだと!


 貴様、私の地位まで剥奪するのか!」


 彼の言葉に董重とうじゅうは青ざめ、剣を手より落とした。


 兵士たちが董重とうじゅうに群がり、彼を縛り上げた。永楽宮えいらくきゅうの回廊に敷き詰められたしきがわらに、剣の落ちる音が虚しく響いた。


とうじゅう


 そなたたち! とうじゅうを! 驃騎将軍とうじゅうを離しなさい!」


 董太后とうたいごうは焦りを滲ませ、甥の董重とうじゅうを助けようと一歩前に進み出る。


 だが、董太后とうたいごうの歩みはたった一歩で止まった。兵士たちの矛のほこさきが彼女に向けられていたからだ。


 董太后とうたいごうは身を震わしながらも、気丈に叫ぶ。


「この永楽宮えいらくきゅうわたしの居城です!


 わたしはここから一歩も動きませんよ!」


 彼女の迫力に、兵士たちは二の足を踏んだ。董太后とうたいごうが依然、太后たいごうであることに変わりはない。一兵卒ごときがとても手を出せる相手ではない。


「やむを得んか⋯⋯」


 兵士たちの様子を見て、何進かしんもこれ以上の強行を諦めた。


永楽太后とうたいごう、この場は引きましょう。


 ですが、陛下しょうてい直々に帰国命令を出されていることを、努々ゆめゆめお忘れなく!」


 何進かしんは兵士たちに命じて、董重とうじゅうを拘束し、永楽宮えいらくきゅうから退去した。董太后とうたいごうは連行される董重とうじゅうを見ていることしか出来なかった。


 〜〜〜


 董重とうじゅうはそのまま監獄に連行され、冷たい石の床に投げ出された。燭台の灯りが彼の憔悴しょうすいした顔を照らし、鎖の音が不気味に響いた。獄吏たちは無言で彼を囲み、鉄の鎖で手足を拘束した。これより彼には苛烈な拷問が待ち受けていた。


 董重とうじゅうは仰向けにに寝かされ、手足を鎖で括り付けられた。彼の腹目掛け、獄吏たちは棍棒で打ち据えていく。皮膚が破れ、血が飛散したが、なおも打擲ちょうちゃくは続けられた。


「正直に吐け!


 大将軍かしんの誅殺を謀ったのは、永楽太后とうたいごうとお前であろう!」


 獄吏の鋭い追及が、暗い獄中に響いた。


「私は無実だ! 太后殿下とうたいごうも潔白だ!」


 手足を鎖で縛られた董重とうじゅうは、必死に叫んだ。


「あれは蹇碩けんせきのやったことだ!


 蹇碩けんせきを呼べ!


 あいつならそう答えるはずだ!」


 未だ蹇碩けんせきの死を知らぬ董重とうじゅうは一縷の希望を託して彼の名を叫んだ。彼なら罪を一身にかぶってくれると信じていた。


 だが、蹇碩けんせきは既にこの世にいない。獄吏たちは冷笑し、董重とうじゅうの言葉を無視した。彼らは事前に袁紹えんしょうから指示を受け、苛烈な拷問の準備を進めていた。


《続く》

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