董承が戻る前に、永楽宮は何進の手勢により包囲された。甲冑の音が夜の静寂を破り、燈火の炎が闇を切り裂いた。兵士たちの影が格子窓を通して室内に入り込み、冷たく不気味な空気を漂わせた。
董太后は袿衣の裾を侍婢に持たせ、杖を手に立ち上がった。薄暗い永楽宮の磚を歩く彼女の足音が重く響いた。窓の外では兵士たちの燈火が揺れ、赤々とした光が宮殿の壁を不気味に染めた。侍婢たちは怯えた目で顔を見合わせ、沈黙を守った。
董太后は永楽宮の前まで進み出ると、包囲する兵士たちに向けて叫んだ。
「何事ですか! 無礼者!
妾は太后ですよ!
早く兵を解きなさい!」
董太后は声を張り上げると、震える手で杖を地面に突いた。彼女の袿衣が兵士の燈火に照らされ、赤く燃え上がるような姿を見せた。
「我ら董氏に刃を向けて、無事で済むと思いでないでしょうね!」
彼女は空に言葉を重ね、兵士たちを睨みつけた。
何進は甲冑を鳴らし、重々しく前に進み出た。彼は黒い甲冑の上から紅色の戦袍をまとい、まるで戦場のような出で立ちであった。その背後には長矛を構えた無数の兵士たちが控えている。彼らの鎧が燈火によって緋色に輝き、宮殿を包む緊張を高めた。
「そうはいかない。
我が奏上が通った。
永楽太后、あなたの帰国が決まった。
この永楽宮を明け渡してもらおう」
何進の声は、宮殿の中を反響して駆け巡った。その言葉に侍婢たちは息を呑んだ。
「なんですって!」
董太后は目を大きく見開き、怒りに体を震わせた。杖で再び床を叩き、その鋭い音が静寂を破った。
「大将軍、あなたは外戚の力を利用して陛下を動かしたのですか!
なんたる野心家か!」
彼女は声を荒げ、何進を詰った。
何進は董太后の言葉に返事することなく、懐から一通の書状を取り出し、燈火に照らして読み上げ始めた。
「『制して曰く』!」
何進の口からこの言葉が出た瞬間、董太后は思わず身構えた。その字面は皇帝直々の命令を示す詔勅に用いられる文言であった。何進が詔勅まで用意してきたことに、董太后は内心、恐怖を覚えた。彼女の侍婢たちは一層怯え、互いに身を寄せ合った。
何進は泰然と読み続けた。
「⋯⋯『孝仁太后は、元の中常侍の夏惲や永楽太僕の封諝(ともに宦官で故人)らを使い、州郡と結託させ、各地の珍宝や賄賂を独り占めにし、全て永楽宮に納めさせた。
また、藩后(前漢の平帝の母・衛姫のこと。彼女の専制を恐れた王莽によって長安(前漢の首都)から追い出された)の故事に倣えば、太后は京師に留まることを許されない。
なお、輿服(車と衣裳)及び食事の支給は規定に定められた通りとする
どうか、永楽后を南宮より本国である河間国(冀州にある国。現在の河北省滄州市辺り。)へと遷されますように。
これを可とし、孝仁太后に下す云々⋯⋯』
以上、永楽太后はこの詔勅に従い、速やかに本国に帰還されたし!」
董太后は唖然とし、杖を握る手に力がこもった。彼女の瞳には、屈辱と怒りが渦巻いていた。
「妾は陛下の祖母ですよ!
その妾を宮殿より追い出そうというのか!」
彼女は声を振り絞り、何進を睨んだ。
対して何進は、苛立ちを抑えて、声を張り上げた。
「永楽太后、移動に差し支えあるのであれば、我らでお助け致しましょう。
お前たち、永楽太后を外にお連れしろ!」
何進の指示を受けると、武装した兵士たちが董太后の周りを取り囲んだ。
兵士たちの手が伸びてきた瞬間、董太后の怒声が響いた。
「無礼者! 妾に触れるな!
例え詔勅があろうとも、妾が太后であることに変わりはないのですよ!」
董太后は杖を振り上げて兵士たちを威嚇し、叫んだ。侍婢たちは恐怖でその場にうずくまり、耳目を閉じた。
その時、甥の董重は董太后を守ろうと、門外に飛び出した。彼は剣を抜いて兵士たちの前に立ちはだかった。
「離れよ!
太后殿下への無礼は許さん!」
董重は声を震わしながらも、剣先を兵士たちに向けた。
取り囲む兵士たちは、董太后に加えて、驃騎将軍の董重という大物の登場に怯み、歩みを止めた。長矛を肩に担ぎ、互いの顔を見合わせた。
そこへ何進の大声が鋭く響いた。
「脩侯!
お前が永楽太后と結託して、不正に金銭を懐に入れていたことはすでに調べがついている。
お前にも勅が下っているぞ!
『驃騎将軍・董重に告ぐ。
そなたの驃騎将軍の任を解く。
故事の如くせよ云々⋯⋯』
董重、おとなしく縛につけ!
さあ、お前たち、奴はもう驃騎将軍ではないぞ! 遠慮せずに捕らえよ!」
何進は剣を握って掲げ、声を張り上げた。
「董重!
お前の権勢もこれまでだ!」
「な、なんだと!
貴様、私の地位まで剥奪するのか!」
彼の言葉に董重は青ざめ、剣を手より落とした。
兵士たちが董重に群がり、彼を縛り上げた。永楽宮の回廊に敷き詰められた磚に、剣の落ちる音が虚しく響いた。
「重!
そなたたち! 重を! 驃騎将軍を離しなさい!」
董太后は焦りを滲ませ、甥の董重を助けようと一歩前に進み出る。
だが、董太后の歩みはたった一歩で止まった。兵士たちの矛の鋒が彼女に向けられていたからだ。
董太后は身を震わしながらも、気丈に叫ぶ。
「この永楽宮は妾の居城です!
妾はここから一歩も動きませんよ!」
彼女の迫力に、兵士たちは二の足を踏んだ。董太后が依然、太后であることに変わりはない。一兵卒ごときがとても手を出せる相手ではない。
「やむを得んか⋯⋯」
兵士たちの様子を見て、何進もこれ以上の強行を諦めた。
「永楽太后、この場は引きましょう。
ですが、陛下直々に帰国命令を出されていることを、努々お忘れなく!」
何進は兵士たちに命じて、董重を拘束し、永楽宮から退去した。董太后は連行される董重を見ていることしか出来なかった。
〜〜〜
董重はそのまま監獄に連行され、冷たい石の床に投げ出された。燭台の灯りが彼の憔悴した顔を照らし、鎖の音が不気味に響いた。獄吏たちは無言で彼を囲み、鉄の鎖で手足を拘束した。これより彼には苛烈な拷問が待ち受けていた。
董重は仰向けにに寝かされ、手足を鎖で括り付けられた。彼の腹目掛け、獄吏たちは棍棒で打ち据えていく。皮膚が破れ、血が飛散したが、なおも打擲は続けられた。
「正直に吐け!
大将軍の誅殺を謀ったのは、永楽太后とお前であろう!」
獄吏の鋭い追及が、暗い獄中に響いた。
「私は無実だ! 太后殿下も潔白だ!」
手足を鎖で縛られた董重は、必死に叫んだ。
「あれは蹇碩のやったことだ!
蹇碩を呼べ!
あいつならそう答えるはずだ!」
未だ蹇碩の死を知らぬ董重は一縷の希望を託して彼の名を叫んだ。彼なら罪を一身にかぶってくれると信じていた。
だが、蹇碩は既にこの世にいない。獄吏たちは冷笑し、董重の言葉を無視した。彼らは事前に袁紹から指示を受け、苛烈な拷問の準備を進めていた。
《続く》