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第九十三話 董太后(四)

 一方、大将軍府だいしょうぐんふでは、何進かしんが書案の前で考え込んでいた。燭台の灯りが彼の疲れた顔を照らし、窓の外では夜風が冷たく吹いた。


「うーむ⋯⋯。


 太后たいごうを殺すなど、畏れ多くてとてもできん。


 だが、このまま放置すれば、董氏とうしに復興の機会を与えるやもしれん⋯⋯」


 何進かしんは額を押さえ、ため息をついた。彼の頭の中には何氏かしの天下と国家の安寧が渦巻いていた。そして、そのために何をするのが最善か、彼は頭を悩ましていた。


 そこに訪ねてきたのは、彼の側近・袁紹えんしょうであった。


大将軍かしん、何をお悩みですかな?」


 袁紹えんしょうは静かに一礼して、彼に尋ねた。


「おお、袁紹えんしょうか」


 何進かしんの言葉に若干の明るさが戻った。


「いや、永楽太后とうたいごうの処遇についてだ。


 蹇碩けんせきと違って相手は太后たいごうだ。迂闊に手出しはできん。


 とは言え、このまま居座られても困る。やはり、強引にでも河間かかんに帰ってもらうしかないのか⋯⋯」


 何進かしんの声には、疲労と葛藤が滲んでいた。


「お前ならどうする?」


 何進かしんはすがるような目で、袁紹えんしょうに尋ねた。


 それに袁紹えんしょうは力強く答えた。


「それでしたら、私にお任せください。


 永楽太后とうたいごうを説得してきます!」


 袁紹えんしょうの瞳には狡猾な光が宿っていた。


「ですので、大将軍かしん、ご安心を!」


 だが、彼の目の光は何進かしんにとって希望の光に映っていた。


「そうか、袁紹えんしょうやってくれるか。


 期待してるぞ」


 何進かしんは安堵して、肩を落とした。


「お前なら安心して任せられる」


 〜〜〜


 袁紹えんしょう逢紀ほうきを伴い、永楽宮えいらくきゅうを訪れた。薄暗い回廊に、燈火あかりの光が影を長く伸ばしていた。


 董太后とうたいごうは部屋の奥、だいざに腰掛け、凭几ひじおきに身を委ねて、虚ろな目で燭台の火を見つめていた。左右に侍婢が控え、部屋の中は重い沈黙に包まれていた。


 袁紹えんしょう董太后とうたいごうへの取次を侍婢じひに頼み、彼女と対面した。


「お初にお目にかかります。


 中軍校尉ちゅうぐんこうい袁紹えんしょうあざな本初ほんしょと申します。


 太傅たいふ袁隗えんかいの甥と申せば、太后殿下とうたいごうにも通じましょう」


 袁紹えんしょうは仰々しく頭を下げ、微笑を浮かべた。


永楽太后とうたいごうの憂いを晴らすべく、参りました」


 董太后とうたいごう袁紹えんしょうを見つめて答えた。


「その袁隗えんかいの甥が、わたしに何の用ですか?」


 彼女の声は弱々しいものであった。


袁紹えんしょうは彼女の様子を見て、ニヤリと笑った。


「ここにおられては外界の様子がおわかりにならないと思い、罷り越しました」


 袁紹えんしょうの声は穏やかだが、企みが潜んでいた。


 袁紹えんしょうの言葉を聞き、董太后とうたいごうは冷ややかに笑った。


「なるほど、わたしの気持ちを揺さぶろうというわけですね。


 ですが、わたしは生半可なことでは動揺しませんよ」


 彼女は目を細め、袁紹えんしょうを睨んだ。


 長らく陰謀渦巻く宮中で生き抜いた董太后とうたいごうは、袁紹えんしょうの本心を瞬時に見抜いた。


 袁紹えんしょうは図星を突かれ、内心では狼狽うろたえたが、それをおくびにも出さずに、穏やかな態度のまま答えた。


「そのようなつもりはございません。


 ただ、脩侯とうじゅうのその後についてご存知ではないと思いましてお伝えに参上致しました。


 あなた様の甥・脩侯とうじゅうは牢獄にて自身の罪過を悔い、自ら命を絶ちました」


 袁紹えんしょうは静かに言葉を紡いだ。


「そうですか。


 どうせ、あなた方が追い込んで殺したのでしょう。


 わたしも長らく宮中で過ごしてきました。とうじゅうが投獄された時に覚悟は出来ています。彼の死程度のことで動揺は致しません。


 例え、とうじゅうが死んでも、我が董氏とうしは必ず盛り返します。何氏かしの天下もいつまでもは続きませんよ!」


 董太后とうたいごうは手を強く握り、声を張り上げた。


 袁紹えんしょうはこの程度では揺さぶりにならぬと諦め、次の策を展開した。


「そうですか⋯⋯。


 そうそう、永楽太后とうたいごうには他にも甥御さんがおられましたね。


 確か、奉車都尉ほうしゃとい董承とうしょうでしたね。彼もまた先日、董氏とうしへの追求のために捕縛され、獄中で死にました」


 袁紹えんしょうは無表情のままで続けた。


「甥御さんを二人も立て続けに亡くされた事、お悔やみ申し上げます」


 その言葉に、董太后とうたいごうは口を開けた。


「そんな!


 とうしょうはまだ若く、地位も低い。あなた方が追い詰める必要など無いはずです。


 それは虚言でしょう。わたしとうしょうの死なんて信じませんよ!」


 董太后とうたいごうの声は震え、思わず凭几ひじおきを倒した。


 彼女も董承とうしょうの死までは予想していなかった。その思わぬ訃報に董太后とうたいごうは動揺を見せた。


 袁紹えんしょうは内心、ほくそ笑みながらも、淡々と答えた。


「私はただ事実のみをお伝えしに来ただけです。


 信じられないのならそれで構いません。


 証拠と言っても、この程度しかありませんので」


 袁紹えんしょうは懐から銀製の印綬を一つ取り出し、彼女に差し出した。


「こ、これは⋯⋯『奉車都尉ほうしゃとい』の印綬!」


 董太后とうたいごうは目を見開き、息を呑んだ。


「まさか⋯⋯本当にとうしょうが⋯⋯」


 動転する董太后とうたいごうに、袁紹えんしょうはさらに言葉を続ける。


「そうです。董承とうしょうが就かれていた『奉車都尉ほうしゃとい』の印綬です。


 通常、役職の印綬は肌見放さず身に着けることになっております。


 せめてもの証拠と思い、特別にお預かりしてきました」


 袁紹えんしょうの声には嘲りが混じっていた。


「これが証拠になれば幸いなのですが⋯⋯」


 袁紹えんしょうの言葉に愕然とする董太后とうたいごう


「そんな⋯⋯とうじゅうに続いてとうしょうまで⋯⋯」


 董太后とうたいごうはその場に崩れ落ち、手を床についた。


「これから董氏とうしの追求はさらに続くことでしょう。


 あなた様お一人生きたところで果たして、董氏とうしが盛り返すことはありますでしょうかな」


 袁紹えんしょうは冷たく微笑み、言葉の刃を突き刺した。


「なんということなの⋯⋯。


 何氏かしは我ら董氏とうしをそこまで根絶やしにしようとしていたの⋯⋯」


 董太后とうたいごうはその場にうずくまり、うつむきながら呟いた。


「それでは失礼致します。


 次、どなたかが亡くなられましたならば、また罷り越しましょう」


 袁紹えんしょうは一礼した。


太后殿下とうたいごう、どうかご自愛を」


 袁紹えんしょうは背を向け、横に控える逢紀ほうきも一礼した。


「もうよい⋯⋯二度と来ないでちょうだい⋯⋯」


 董太后とうたいごう嗚咽おえつを漏らしながら、呟いた。その声には憎しみより悲しみの方が勝っていた。


 袁紹えんしょう逢紀ほうきを伴い、永楽宮えいらくきゅうを退出した。回廊の足音が冷たく響いた。


 この会見中、逢紀ほうきは終始、呆気に取られていた。彼は袁紹えんしょうの態度、返答に感心しきりであった。その帰り道、逢紀ほうき袁紹えんしょうに尋ねた。


奉車都尉ほうしゃとい董承とうしょうという男まで亡くなっていたとは初耳です。


 よくご存知でしたね」


「ああ、董承とうしょうか。


 今、どうしているか知らんが、死んではおるまい」


 袁紹えんしょうは小さく笑った。


「え、ですが、先ほど奉車都尉ほうしゃといの印綬をお出しになられて⋯⋯」


 袁紹えんしょうからの思わぬ返答に、逢紀ほうきは目を丸くして尋ねた。


「ハッハッハ、これか」


 袁紹えんしょうは印綬を軽く振った。


「これを信じるとは永楽太后とうたいごう同様、迂闊うかつな奴だな。


 忘れたのか。奉車都尉ほうしゃといの定員は三名だ。董承とうしょうから奪わなくとも、印綬くらい手に入るのだよ」


 袁紹えんしょうの笑い声は、闇に響いた。


「なるほど! さすが袁本初えんしょう殿⋯⋯!


 見事な策でございます」


 逢紀ほうきは感嘆の声を上げ、頭を下げた。


「ふふ、これで我らの計画は動き出す⋯⋯!」


 袁紹えんしょう逢紀ほうきと顔を見合わせ、笑みを浮かべた。


 それから間もなく、董太后とうたいごうは体調を崩した。憔悴しょうすいし、食事を拒む彼女は、永楽宮えいらくきゅうの薄暗い部屋で息を引き取った。洛陽らくようの民は、彼女の死を何氏かしの謀殺と噂し、非難した。


 特に憤りを見せたのは彼女の甥・董承とうしょうであった。彼は自身の無力を恨み、何氏かしを憎んだ。


何太后かたいごうめ! 何進かしんめ!


 お前たちを決して許さぬぞ!


 必ず奴らの天下を終わらせ、董氏とうしの天下を作ってみせる!


 例え姦邪鬼神の力を借りてでも!」


 彼の怒りに満ちた絶叫が虚しく響いた。


 さらにその十日後、霊帝れいていの埋葬が、まるで董太后とうたいごうの死を待っていたかのように行われた。


《続く》


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