一方、大将軍府では、何進が書案の前で考え込んでいた。燭台の灯りが彼の疲れた顔を照らし、窓の外では夜風が冷たく吹いた。
「うーむ⋯⋯。
太后を殺すなど、畏れ多くてとてもできん。
だが、このまま放置すれば、董氏に復興の機会を与えるやもしれん⋯⋯」
何進は額を押さえ、ため息をついた。彼の頭の中には何氏の天下と国家の安寧が渦巻いていた。そして、そのために何をするのが最善か、彼は頭を悩ましていた。
そこに訪ねてきたのは、彼の側近・袁紹であった。
「大将軍、何をお悩みですかな?」
袁紹は静かに一礼して、彼に尋ねた。
「おお、袁紹か」
何進の言葉に若干の明るさが戻った。
「いや、永楽太后の処遇についてだ。
蹇碩と違って相手は太后だ。迂闊に手出しはできん。
とは言え、このまま居座られても困る。やはり、強引にでも河間に帰ってもらうしかないのか⋯⋯」
何進の声には、疲労と葛藤が滲んでいた。
「お前ならどうする?」
何進はすがるような目で、袁紹に尋ねた。
それに袁紹は力強く答えた。
「それでしたら、私にお任せください。
永楽太后を説得してきます!」
袁紹の瞳には狡猾な光が宿っていた。
「ですので、大将軍、ご安心を!」
だが、彼の目の光は何進にとって希望の光に映っていた。
「そうか、袁紹やってくれるか。
期待してるぞ」
何進は安堵して、肩を落とした。
「お前なら安心して任せられる」
〜〜〜
袁紹は逢紀を伴い、永楽宮を訪れた。薄暗い回廊に、燈火の光が影を長く伸ばしていた。
董太后は部屋の奥、床に腰掛け、凭几に身を委ねて、虚ろな目で燭台の火を見つめていた。左右に侍婢が控え、部屋の中は重い沈黙に包まれていた。
袁紹は董太后への取次を侍婢に頼み、彼女と対面した。
「お初にお目にかかります。
中軍校尉の袁紹、字は本初と申します。
太傅・袁隗の甥と申せば、太后殿下にも通じましょう」
袁紹は仰々しく頭を下げ、微笑を浮かべた。
「永楽太后の憂いを晴らすべく、参りました」
董太后は袁紹を見つめて答えた。
「その袁隗の甥が、妾に何の用ですか?」
彼女の声は弱々しいものであった。
袁紹は彼女の様子を見て、ニヤリと笑った。
「ここにおられては外界の様子がおわかりにならないと思い、罷り越しました」
袁紹の声は穏やかだが、企みが潜んでいた。
袁紹の言葉を聞き、董太后は冷ややかに笑った。
「なるほど、妾の気持ちを揺さぶろうというわけですね。
ですが、妾は生半可なことでは動揺しませんよ」
彼女は目を細め、袁紹を睨んだ。
長らく陰謀渦巻く宮中で生き抜いた董太后は、袁紹の本心を瞬時に見抜いた。
袁紹は図星を突かれ、内心では狼狽えたが、それをおくびにも出さずに、穏やかな態度のまま答えた。
「そのようなつもりはございません。
ただ、脩侯のその後についてご存知ではないと思いましてお伝えに参上致しました。
あなた様の甥・脩侯は牢獄にて自身の罪過を悔い、自ら命を絶ちました」
袁紹は静かに言葉を紡いだ。
「そうですか。
どうせ、あなた方が追い込んで殺したのでしょう。
妾も長らく宮中で過ごしてきました。甥が投獄された時に覚悟は出来ています。彼の死程度のことで動揺は致しません。
例え、甥が死んでも、我が董氏は必ず盛り返します。何氏の天下もいつまでもは続きませんよ!」
董太后は手を強く握り、声を張り上げた。
袁紹はこの程度では揺さぶりにならぬと諦め、次の策を展開した。
「そうですか⋯⋯。
そうそう、永楽太后には他にも甥御さんがおられましたね。
確か、奉車都尉の董承でしたね。彼もまた先日、董氏への追求のために捕縛され、獄中で死にました」
袁紹は無表情のままで続けた。
「甥御さんを二人も立て続けに亡くされた事、お悔やみ申し上げます」
その言葉に、董太后は口を開けた。
「そんな!
承はまだ若く、地位も低い。あなた方が追い詰める必要など無いはずです。
それは虚言でしょう。妾は承の死なんて信じませんよ!」
董太后の声は震え、思わず凭几を倒した。
彼女も董承の死までは予想していなかった。その思わぬ訃報に董太后は動揺を見せた。
袁紹は内心、ほくそ笑みながらも、淡々と答えた。
「私はただ事実のみをお伝えしに来ただけです。
信じられないのならそれで構いません。
証拠と言っても、この程度しかありませんので」
袁紹は懐から銀製の印綬を一つ取り出し、彼女に差し出した。
「こ、これは⋯⋯『奉車都尉』の印綬!」
董太后は目を見開き、息を呑んだ。
「まさか⋯⋯本当に承が⋯⋯」
動転する董太后に、袁紹はさらに言葉を続ける。
「そうです。董承が就かれていた『奉車都尉』の印綬です。
通常、役職の印綬は肌見放さず身に着けることになっております。
せめてもの証拠と思い、特別にお預かりしてきました」
袁紹の声には嘲りが混じっていた。
「これが証拠になれば幸いなのですが⋯⋯」
袁紹の言葉に愕然とする董太后。
「そんな⋯⋯重に続いて承まで⋯⋯」
董太后はその場に崩れ落ち、手を床についた。
「これから董氏の追求はさらに続くことでしょう。
あなた様お一人生きたところで果たして、董氏が盛り返すことはありますでしょうかな」
袁紹は冷たく微笑み、言葉の刃を突き刺した。
「なんということなの⋯⋯。
何氏は我ら董氏をそこまで根絶やしにしようとしていたの⋯⋯」
董太后はその場にうずくまり、うつむきながら呟いた。
「それでは失礼致します。
次、どなたかが亡くなられましたならば、また罷り越しましょう」
袁紹は一礼した。
「太后殿下、どうかご自愛を」
袁紹は背を向け、横に控える逢紀も一礼した。
「もうよい⋯⋯二度と来ないでちょうだい⋯⋯」
董太后は嗚咽を漏らしながら、呟いた。その声には憎しみより悲しみの方が勝っていた。
袁紹は逢紀を伴い、永楽宮を退出した。回廊の足音が冷たく響いた。
この会見中、逢紀は終始、呆気に取られていた。彼は袁紹の態度、返答に感心しきりであった。その帰り道、逢紀は袁紹に尋ねた。
「奉車都尉の董承という男まで亡くなっていたとは初耳です。
よくご存知でしたね」
「ああ、董承か。
今、どうしているか知らんが、死んではおるまい」
袁紹は小さく笑った。
「え、ですが、先ほど奉車都尉の印綬をお出しになられて⋯⋯」
袁紹からの思わぬ返答に、逢紀は目を丸くして尋ねた。
「ハッハッハ、これか」
袁紹は印綬を軽く振った。
「これを信じるとは永楽太后同様、迂闊な奴だな。
忘れたのか。奉車都尉の定員は三名だ。董承から奪わなくとも、印綬くらい手に入るのだよ」
袁紹の笑い声は、闇に響いた。
「なるほど! さすが袁本初殿⋯⋯!
見事な策でございます」
逢紀は感嘆の声を上げ、頭を下げた。
「ふふ、これで我らの計画は動き出す⋯⋯!」
袁紹は逢紀と顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
それから間もなく、董太后は体調を崩した。憔悴し、食事を拒む彼女は、永楽宮の薄暗い部屋で息を引き取った。洛陽の民は、彼女の死を何氏の謀殺と噂し、非難した。
特に憤りを見せたのは彼女の甥・董承であった。彼は自身の無力を恨み、何氏を憎んだ。
「何太后め! 何進め!
お前たちを決して許さぬぞ!
必ず奴らの天下を終わらせ、董氏の天下を作ってみせる!
例え姦邪鬼神の力を借りてでも!」
彼の怒りに満ちた絶叫が虚しく響いた。
さらにその十日後、霊帝の埋葬が、まるで董太后の死を待っていたかのように行われた。
《続く》