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第九十四話 葬送(一)

 洛陽らくようの夜を、激しい雨が叩いた。雷鳴が轟き、長楽宮ちょうらくきゅうを震わせた。燭台の薄暗い光に照らされ、不気味な影が広がっていた。


 この宮殿の主・何太后かたいごう大床ベッドに腰掛け、綺羅びやかな曲裾きょくきょ(地に届くほど長い裾が広がるスカート状になっているワンピースタイプの服)を身にまとい、自慢の黒髪を侍婢にかせていた。彼女の瞳には野心の炎が燃え、口元に冷酷な笑みが浮かんでいた。


「死んだわ、ついに死んだわ!


 御義母上とうたいごうが!」


 何太后かたいごうの甲高い声は雷鳴に負けず鋭く響いた。彼女の妖艶な微笑みに、周囲の侍婢たちは底知れぬ恐怖を感じ、身を震わせた。


「これ、大将軍かしんを呼びなさい」


 彼女に命じられた侍婢は震え上がって、すぐさま彼女の兄・何進かしんを呼びに走った。


 彼女に呼び出され、大将軍だいしょうぐん何進かしんは紅色のうわぎを身にまとい、額に汗を滲ませて急いで参上した。


兄上かしん、お望み通り永楽太后とうたいごうが身罷られたわ。


 これで先帝陛下れいていを埋葬できるわね」


 稲光が両者の顔を照らし、喜悦の笑みと唇を強く結んだしかめ顔が交錯する。


「ああ、わかっている。


 すぐに陛下しょうていに申し出よう」


 何太后かたいごうは立ち上がり、曲裾きょくきょの袖を翻した。


「これは我ら何氏かしが天下を握る好機なのよ。失敗は許さないわ」


 彼女の口調は急かすようであった。雷鳴がその言葉を強調するように轟いた。


 それに対して何進かしんは力強く頷いた。


「それも仔細承知だ。任せておけ」


 彼は一礼し、雨飛沫しぶきの中、闇に消えた。雷は絶えず宮殿を震わせていた。


 〜〜〜


 翌朝、雨は幾分か小降りになった。灰色の空は依然、洛陽らくようを覆っていた。


 嘉徳殿かとくでんでは少帝しょうていが玉座に座り、ぼんやりと燭台の火を見つめていた。少帝しょうていは十七歳にしてはよく発達した体躯を持ちながら、歳の割にはどこか頼りなげな印象を与える青年であった。


御父上れいていの葬送はまだ行わぬのか⋯⋯」


 彼はそう呟き、側に控える侍中じちゅうに目をやった。彼らは互いに見合わせるばかりで何も答えなかった。


 その時、彼の伯父である何進かしんが進み出た。彼は紅色のうわぎを整え、恭しく頭を下げた。


陛下しょうてい先帝陛下れいていが崩御なされて、間もなく二ヶ月になられます。


 慣例では、崩御後一ヶ月ほどで埋葬を行うところですが、蹇碩けんせきめらの妨害のため遅れてしまいました。


 今こそ執り行う時です」


 大将軍だいしょうぐん何進かしんは決意に満ちた声で、甥でもある少帝しょうていのそう奏上した。


 後漢での埋葬は、皇帝の崩御より一月後に行うのが通例であった。何進かしん董太后とうたいごうの死を待ってから決行した。


 しかし、何氏かし董氏とうしの政争のために霊帝れいていの埋葬を後回ししたと指摘する者は、この場には誰もいなかった。


 それまで弱々しげな目を向けていた少帝しょうていは、何進かしんの言葉に目を輝かせて答えた。


「そうか、ようやく弔えるのだな。


 よし、良きに計らえ」


 彼の声には、普段の無気力さとは異なる熱が宿っていた。喜ぶ少帝しょうていに、何進かしんも力強く答えた。


「承知しました。


 早速、太史令たいしれいに日取りを占わせます」


 太史令たいしれい高堂修こうどうしゅうが御前に呼び出された。太史令たいしれいは天地自然の法則と星の運行を観察し、暦の作成をつかさどる。国の祭祀・葬礼・婚礼の日取りを奏上するのも役割である。


 白髪の老人・高堂修こうどうしゅうは亀甲を取り出すと、火で炙り始めた。亀の甲羅を使った占い・亀卜きぼくは、中国では太古より用いられた占いである。いんの時代(紀元前十六世紀〜紀元前十一世紀頃の王朝)に最盛期を迎えるが、その後は徐々に衰退。漢代では稀にこのような祭祀でしか行われなくなっていた。亀甲を焼いてそのひび割れた形でもって吉凶を占う。


 彼はひび割れをじっくり見て、慎重に占った。燭台の灯りが彼の皺深い顔を照らし、緊張感が漂った。


「埋葬は辛酉(六月十六日)の日が吉日と出ました」


 彼の声は落ち着いていたが、目尻の皺には緊張を浮かべていた。


 何進かしんは大きく頷いた。


「よろしい。


 では、辛酉の日に執り行いましょう」


 それに聞いた少帝しょうていは思わず声を上げた。


大将軍かしん、任せたぞ」


 彼の声には幾分かの元気が加わっていた。


 何進かしんがさらに進言する。


「つきましては当日までに、先帝れいていの棺を車に乗せ、おくりなを定めねばなりません。


 贈諡ぞうしの儀は太尉たいいが務めねばなりませんが、ご存じの通り太尉たいい劉虞りゅうぐは今、幽州ゆうしゅうにいて不在となっております。


 大喪たいそうの時には司徒しと丁宮ていきゅうが代理を務めましたが、それでは丁司徒ていきゅうの負担が大き過ぎます。


 そこで、私が太尉たいいの代理を務めたいと思うのですが、いかがでしょうか」


 何進かしん少帝しょうていの顔色を窺いつつ、慎重に言上した。


「わかった。


 太尉たいいの仕事は大将軍かしんに一任する」


 少帝しょうていのその言葉を聞き、何進かしんはほくそ笑んだ。少帝しょうていの言質は取った。大喪の儀ではあまり関われなかったが、これで埋葬の儀は自身の主導で行える。何進かしんは自身の権威を見せつける良い機会だと考えた。


「ありがとうございます。


 この大任、必ずや果たしてご覧に入れます。


 既に先帝れいていおくりなについては学士たちに議論させ、『霊』が良いであろうと意見が出ております」


 これまで便宜上、先代皇帝を『霊帝れいてい』と呼んでいたが、正確にはこの贈諡ぞうしの儀で初めて定められた。


 何進かしんはあらかじめ、学者たちに霊帝れいていおくりなを考えさせていた。何進かしんは学者たちに向かって「霊帝れいていは精力的な方だったが、そのために臣下は振り回された。少帝しょうていにはそのようになって欲しくない」と伝えていた。


 何進かしんの要望を受けて、学者たちが提示した字は『霊』であった。「国を乱したが、滅ぼすまでには至らなかった」という意味である。


「『霊』か。あまりおくりなでは用いられぬ字だが、どのような意味だ?」


 少帝しょうていから素朴な質問が出る。先読みしていた何進かしんは用意しておいた『霊』の別の意味を提示した。


「はい、死して後に志が成ることを『霊』と申します。


 先帝陛下れいていは志半ばで亡くなられましたが、遺された我らで先帝陛下れいていの志を受け継ぎ、成就させよう。そういう願いが込められています」


 流石に「国を乱した〜」云々という説明を、少帝しょうていにするわけにはいかない。何進かしんはあらかじめ少帝しょうていが納得しそうな別答を用意していた。


「なるほど、それは御父上れいていに相応しい字だ。


 よし、それにしよう」


 無邪気に喜ぶ少帝しょうていの様を見て、何進かしんは上手くごまかせたとほっと胸を撫で下ろした。


 〜〜〜


 日が沈む頃、贈諡ぞうしの儀が執り行われる。何進かしん長冠ちょうかん(長方形の板状の冠)をかぶり、白い喪服に身を包み、高車(立ち乗りの車)に乗って正殿に移動する。


「本来なら太尉たいいが務めるこの大役を、私が務められるとはな」


 そう呟く何進かしんの顔を、降り止まぬ雨が濡らした。車より降りた何進かしんは待ち受けている皇帝の使者の前に進み、伏してみことのりを受けた。


 何進かしんはそのまま南郊へと移動した。そこでは既に大鴻臚だいこうろ崔烈さいれつによって九賓きゅうひん(皇帝の賓客。王・侯・公・卿・二千石(の官吏)・六百石・郎・吏・匈奴の侍子をいう)の席次が設けられ、百官はそれぞれの位置についていた。


 白髪の崔烈さいれつは、雨の中でも矍鑠かくしゃくとした態度で声を張り上げて仕切った。


「皆様、大将軍かしんが参られます!


 ご静粛にお願い致します!」


 彼の声は雨音の中もよく通った。


 太祝令たいしゅくれいひざまずいて、霊帝れいていおくりなとそのおくりなを定めた経緯を木の板に書いた諡策しさくを読み上げた。


 彼は天に向かって先帝におくりなを決める旨を告げた。父である先帝に、子である今上帝がおくりなを定めるのは礼に反している。そのため、先帝へのおくりなは、皇帝や遺臣が決めたのではなく、天の承認を経て決定されたという体裁をとっていた。


 何進かしんは再拝して、頭を地面につけて稽首けいしゅの礼を行った。


 この時点で霊帝れいていの遺体は四重の棺に納められ、さらにうわひつぎで覆われ、周りを土で固められている。


 埋葬前にこれらが取り払われ、夷衾という布で覆われる。そして、霊帝れいていの遺体には供物くもつきょうせられた。


 霊帝れいていの棺は大行載車たいこうさいしゃという特別な車へと移される。埋葬の準備はつつがなく進行していった。


 〜〜〜


 雨は激しさを増し、雷鳴が洛陽らくよう中に轟いた。何進かしん大将軍府だいしょうぐんふで一人、燭台の火を見つめていた。


先帝陛下れいていの葬送を完遂し、私こそが天下の治者であることを印象付ける。


 これからの時代は私がこのくにを動かしていくのだ!」


 何進かしんの決意とともに、雷鳴が夜の静寂をつんざき、雨音は益々激しさを増した。


 それはまるでこれから起きるこの国の惨劇を象徴するかのようであった。


《続く》

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