六月十六日、辛酉の日。洛陽はなおも灰色の雨雲に覆われていた。雷鳴は止んだが、雨は小降りながら続き、文陵(霊帝の陵墓)への道は泥濘み、冷たい風が吹き抜けた。
何進は、霊帝の遺体を乗せた大行載車を見上げ、奴隷に持たせた簦(傘のように柄のある雨具)をずらして空を仰いだ。車に付けられた装飾の金龍が、雨に濡れて鈍く光った。
「せっかくの日だというのにあいにくの天気だな⋯⋯。
孝仁太后の崩御からもう十日も経つのに、雨はまだ止まぬ。
世間では孝仁太后の呪いだなどとと囁かれているが⋯⋯」
彼の声には不安が滲み、雨音がその言葉を掻き消した。この時代、まだ呪術は大いに恐れられていた。
腹心の袁紹が彼の傍らにそっと進み出た。彼の白い衣裳が雨に濡れて、なおも威厳のある出で立ちをしていた。袁紹と何進はともに、白い頭巾の上から委貌冠と呼ばれる盃を逆さにしたような形の黒絹の冠をかぶり、白い喪服姿をしている。多くの参列者は、一部を除いて同じ服装をしていた。
「大将軍、これは天が先帝陛下を悼むための涙。むしろ吉兆でございましょう」
彼の声は恭しく、目は狡猾に光っていた。
袁紹の言葉に、何進は不安を振り払うように頷いた。
「そうだな、確かにそうだ。
これは先帝陛下の崩御を悼む天からの贈り物だ。気にするべきではないな」
彼は拳を強く握って、袖を震わして答えた。
彼らのやりとりを遠くから望見する者がいた。
痩せこけた貧相な体つきながらも、ただならぬ眼光を放つその男は、中常侍・張譲であった。
彼は二人のやりとりこそ聞こえなかったが、拳を強く握りしめる何進の様子に、不快な目を向けていた。
「何進め、贈諡の儀を取り仕切ったぐらいでもう天下の主気取りか!
先帝陛下に『霊』なぞという不名誉な字を与えおって⋯⋯!
何が、『死して後に志が成る』だ。『霊』の字の真意に気づかぬ私だと思うなよ!」
張譲は一人、何進へ憎悪の火を燃やしていた。だが、雨降りしきる曇天の中、彼の憎悪は影に隠れて誰にも気づかれることはなかった。
〜〜〜
朝一番、霊帝の遺体を乗せた車、及び皇帝の一行が、霊帝を埋葬する陵墓に向けて出発する。
霊帝の棺が収められた車を大行載車という。大行載車は金で飾られた荘厳な車だった。四隅に金龍の装飾、五色の犛の毛でできた旗を立て、羽毛の飾りを垂らし、前後を雲気が描かれたを帷で覆い、左右には頭が鹿の龍が描かれた曲轓(垂れ飾り)が雨の雫を滴らせた。車輪が泥濘を軋ませ、重々しい音が響いた。
この大行載車は司徒の丁宮が河南尹(首都・洛陽のある河南尹の長官。今で言う都知事)とともに引き、方向を転換した。
その様子を見て、太常・馬日磾は、側で様子を見守っていた少帝の前で跪き、「見送られんことを」と告げた。
馬日磾の言葉を受け、少帝は袍の両肩を脱いで、陵墓を目指して出発する大行戴車を見送った。彼の顔つきはいつになく神妙な面持ちで、父である霊帝への敬意に満ちていた。
方向を変えた大行戴車には長さ三十丈(約七十メートル)の白綱が六本も伸びている。公卿の子弟約三百人は六列に別れ、その引き綱につく。彼らが大行載車の引き手であった。子弟たちは全員、白い幘(帽子)の上から委貌冠をかぶり、白い衣裳を身にまとう。彼らは雨に濡れながらも黙々と持ち場についていく。
赤い頭巾をかぶった校尉三人は赤い縁取りの単衣を着て、旗を掲げ、先導を務める。彼ら言葉を発しないように口に枚(木片)を含み、無言で進んだ。
移動中は声を発してはならない。だが、それでは移動に支障が出る。そのため合図を出す号令者。さがいる。八人の鐸司馬(号令者)が鐸を手に校尉に続いて進み、全体に合図の鐸の音を響かせる。
鐸司馬の後を霊帝の衣服を乗せた金根容車が黄門令・虎賁の兵合計四十人によって引かれる。金根容車も大行載車同様、金で飾られた車であった。
これに続いて大行載車が進み、その後ろには六十人の音楽隊が続いて挽歌を歌った。挽歌は雨音と混じり合い、厳粛な調べとなって辺りに響き渡った。
少帝は彼らを見送ると、すぐに皇帝の葬礼用の車である金根車に乗り込んで、列の後ろに着いた。金根車は黄金で飾られ、車輪は朱色で塗られ、座席には金箔で交龍が描かれている。
金根車に乗り込んだ彼の潤んだ瞳に雨がかかり、大粒の涙となって頬を流れた。
「父上⋯⋯」
彼は車内でポツリと呟き、目元に溢れる雨を袖で拭った。
金根車の後ろに続く臣下の車は三十六乗に及んだ。さらにこの回りには数え切れないほどの車駕や騎兵が同行した。
〜〜〜
霊帝を埋葬する陵墓・文陵は、洛陽の西北二十里(約八.三キロ)にあり、高さ十二丈(約二十八メートル)、周囲は三百歩(約四百十六メートル)の円錐台形をしていた。この陵墓の入口に続く道を羨道と言い、その道には赤い布が掛けられていた。
さらに羨道の先には動物や神獣の石像が整列している。
南側から伸びる羨道の左右には床が並べられている。これが埋葬を見守る面々の席次であった。
大鴻臚・崔烈は鋭い目を光らせて、参列者を導いた。
「さあ、皆様、席におつきください。
九賓(皇帝の賓客)の席は東側に、諸侯王・三公・特進の席は西側に設けております。
中二千石(の官吏)以下はさらにその東側へ!」
大鴻臚がこの席次の管轄を請け負う。白髪に深い皺の彼は、背筋はピンと伸ばし、矍鑠とした態度で席次を仕切った。彼の声は雨音に負けじとよく響いた。
西側と東側の席の中に四方を白い幕で覆われた特別な場所が存在する。西側には霊帝の衣服が入れられる。そして、東側は少帝の席となっている。周囲から孤立したかのような隔絶した空間に、少帝は一人籠った。彼はこの孤立した幕の内で、父への敬意に胸を熱くしていた。
醴を供え、大駕の行列を解くと、太史令の高堂修は棺に向かって哀策を読み上げる。
「これ中平六年六月辛酉の日、孝霊皇帝の柩は殯を済まし、まさに文陵に葬られようとしている。
遺子皇帝弁は、冊書を捧げ持ち、柩を車に乗せ、供物を供え、胸を叩き地を蹴って身悶えし、号哭して天に悲しみを訴える。御霊魂が遥かな旅路につかれるのを悼み、載車が道へ出ていくのを悲しむ。
孝霊皇帝は三つの光(日・月・星)に背を向けて、暗黒の世界にお隠れになり、黄泉に行かれて落ち着かれる。
嗚呼、哀しいかな!」
彼の声は雨に混じり、厳粛に響いた。
哀策は諡策とともに伝統的な科斗という文字で書かれる。頭が大きく尾が細いオタマジャクシのような文字であった。これはまだ筆や墨が無く、竹べらと漆で書かれていた古代の文字の名残だという。
読み上げられる哀策を聞き、少帝は密かに涙を溢した。
既に泣いていることを知らぬ太常・馬日磾は、少帝を囲う垂れ幕の前に跪き、囁いた。
「哭かれますように」
周りでは大鴻臚の崔烈が参列者に哭くように告げる。参列者の嗚咽が雨音に混ざった。
《続く》