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第九十八話 何氏内紛(二)

 外の雨は激しさを増し、長楽宮ちょうらくきゅうの屋根を叩いた。燭台の火が揺らめき、訪ねてきた舞陽君ぶようくん何苗かびょうの顔を照らした。


 長楽宮ちょうらくきゅうの主・何太后かたいごう曲裾きょくきょの上衣を整え、耳環イヤリングをしゃなりと鳴らして母の舞陽君ぶようくんと兄の何苗かびょうを迎えた。


母上ぶようくん苗兄上かびょう進兄上かしんの暴虐を許すわけにはいきません!」


 彼女の声には、昼の怒りが再燃していた。


 何太后かたいごうの話を聞き、舞陽君ぶようくんは顔をしかめた。


「まあ、なんと恐ろしい話でしょう!


 宦官かんがんはこのくにになくてはならない存在だというのに。


 それに私たちが今の地位に着けたのは全て宦官かんがんのおかげですよ。あの方々がいなければ、あなたが後宮に入ることができたのも、宦官かんがんの後押しがあったからこそよ!」


 舞陽君ぶようくんは眉間に皺を寄せながら、声を低めて答えた。


 何苗かびょうも頷いた。


母上ぶようくんの仰る通りだ。


 我らがこのような富貴の身に上れたのも、全て宦官かんがんのおかげだ。


 大将軍かしんがそんな事をいうのは、おそらく権力を独り占めするためだろう。そのために邪魔な宦官かんがんを排除したいんだ!


 だが、そんな事を許せば、くには乱れるぞ!


 そして、我々の地位も脅かされかねない!」


 彼は目を見開き、強く握った拳を突き上げた。


 舞陽君ぶようくん何苗かびょうは日頃よりよく宦官かんがんたちから贈り物を受け取っていた。そのおかげで豊かな暮らしを満喫することができていた。二人にとって宦官かんがんはなくてはならない存在であった。


 二人の話を聞き、何太后かたいごうも大きく頷いて、顔を上げた。


「まあ、進兄上かしんはそんな事を考えていたのね!


 確かに今、進兄上かしんに権力が集中しすぎているわね。これで宦官かんがんまでいなくなれば、いよいよ進兄上かしんを止め者はいなくなる。


 それこそ、私たちの地位まで奪いかねないわ!


 天下を君臨する皇太后こうたいごうとして、彼の独裁を許すわけにはいきません!」


 彼女の瞳には野心の炎が煌々と燃え盛っていた。


 それを聞いて舞陽君ぶようくんは厳かに告げた。


かしんはなんと恩知らずで、自分勝手な大人に成長してしまったのでしょう。


 太后殿下かたいごう、決してかしん一人に権力を握らせてはなりません!」


 舞陽君ぶようくんの声は冷たく、外で鳴り響く雷に負けぬ迫力を出していた。


 何太后かたいごうは頷いて応じる。


「当然ですわ、母上ぶようくん


 私は母上ぶようくんの教えを決して忘れませんわ」


 彼女は強欲な本心をおくびにも出さず、にこやかに答えた。


「さすがはわたしの娘と息子ね。


 それに比べてかしんは⋯⋯」


 舞陽君ぶようくんは不愉快そうに嘆いた。


 ここで何氏かしの家系を説明しよう。


 実はこの舞陽君ぶようくん何進かしんの実の母ではない。そして、何苗かびょう何進かしんとは血の繋がりはない。


 舞陽君ぶようくんは名をこうという。


 何進かしんの父・何真かしんにとって舞陽君ぶようくんは後妻にあたる。何真かしんの前妻は何進かしんをもうけてすぐに亡くなってしまった。


 舞陽君ぶようくんもまた朱家に嫁入りしたが、夫に先立たれてしまった。彼女には前夫との連れ子がいた。


 当時、寡婦が再婚する時は、息子なら夫の家に残していくものであった。だが、彼女は息子を連れて行くことになった。舞陽君ぶようくんは美しい容姿をしていたが、連れ子がいたためになかなか再婚先が決まらなかった。そこで何真かしんに話が行き、連れ子の面倒を見ることを条件に彼女と再婚した。


 この時の舞陽君ぶようくんの連れ子が何苗かびょうである。


 そして、何真かしん舞陽君ぶようくんの間には二人の娘が生まれた。上の娘が何太后かたいごうである。下の娘は張譲ちょうじょうの養子・張奉ちょうほうに嫁いだ。


 そのため、何進かしん何太后かたいごうは母違いの兄妹にあたり、何苗かびょう何太后かたいごうは父違いの兄妹となる。だが、何進かしん何苗かびょうには血の繋がりがなく、系図だけの兄弟関係であった。


 後に何太后かたいごう皇后こうごうとなる時には、既に父の何真かしんは亡くなっていた。しかし、娘のおかげで車騎将軍しゃきしょうぐんの追号を与えられ、舞陽宣徳侯ぶようせんとくこうに封じられた。これに因んで母のこう舞陽君ぶようくんと呼ばれるようになった。


「いいですか。


 いくらかしん何氏かしの家長とはいえ、彼一人に権力を独占されるような事があってはなりません!」


 舞陽君ぶようくん何苗かびょう何太后かたいごうにきつく厳命した。


 彼女からすれば何進かしんは他人の子である。彼一人が権力を独占し、実の息子や娘が恩恵から除外される事態だけは避けたかった。


「もちろんです、母上ぶようくん


 何苗かびょうもこれに同調する。彼も何進かしんとは血の繋がりがない上に、昔から兄弟仲はあまり良くなかった。


 この二人からすれば、何進かしんは権力を独り占めしようと企む強欲者であり、宦官かんがんは自分たちに富貴をもたらせた恩人であった。


「ええ、わかっているわ。


 決して進兄上かしんだけに権力は渡さないわ」


 そして、何太后かたいごうは誰よりも強欲であった。


 〜〜〜


 その夜、宮城の南にある趙忠ちょうちゅうの豪邸にて、宦官かんがんたちが集まっていた。


 仄暗い燈火あかりに映し出されたのは張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅう段珪だんけい郭勝かくしょうら、十常侍と呼ばれた宦官かんがんの中心的な人物たちの顔であった。この世の暗部を煮しめたような闇夜の中、彼らの陰謀がうごめいていた。


 老婆のような顔つきに、よく太った男がまず口を開いた。


何進かしんの奴めが佞臣めらに踊らされて、我らを害せんと、なにやらやっているようです」


 彼はこの家の主・趙忠ちょうちゅうであった。


 団子鼻を掻き、段珪だんけいが嘲笑うように答えた。


「上手く利用されおって。


 所詮、奴は肉屋の倅。


 大将軍だいしょうぐんの器ではなかったのだ」


 彼はよく出た腹をさすり、胡餅こへいを摘んでいた。


 段珪だんけいのすぐ隣に座る大柄な男・郭勝かくしょうが続けて答えた。


董氏とうしも除いた今、そろそろ何進かしんの役目も終わりだろう。


 奴を大将軍だいしょうぐんより失脚させ、弟の何苗かびょうでも大将軍だいしょうぐんに据えべきだ!」


 郭勝かくしょうの提案に、段珪だんけいは手を叩いて喜んだ。


郭常侍かくしょうが言うなら間違いない!


 何進かしんはもう用済みだ!


 物わかりの良い何苗かびょうを次の大将軍だいしょうぐんに据えよう!」


 彼は無邪気に笑いながら、次の胡餅こへいに齧り付いた。


 話の流れが何進かしん失脚に傾いていた頃、趙忠ちょうちゅうは一人黙って聞き役に回っていた男に気づいた。


 それは、宦官かんがんの中心的な人物・張譲ちょうじょうであった。


 趙忠ちょうちゅうは、珍しく何も語らない張譲ちょうじょうに話を振った。


張常侍ちょうじょう、先ほどから静かでございますな。


 この件についてはいかが思われますか?」


 周囲の視線が張譲ちょうじょうへと注がれる。その時、彼の目が冷たく光った。


何進かしんは除こう⋯⋯!」


 その張譲ちょうじょうが同意見だったことで皆も安堵する。そして、彼の言葉に皆が同意しようとしたその時、張譲ちょうじょうはさらに言葉を続けた。


「だが、何進かしんだけではない。


 何苗かびょう何太后かたいごうも皆除くべきだ。


 何氏かしの一切を朝廷より排斥する!」


 趙忠ちょうちゅうは眉間に皺を寄せ、垂れ下がった目をカッと見開いた。


「か、何進かしんだけではなく、何氏かしそのものを朝廷から排斥しようと言うのですか?


 それはあまりにも⋯⋯!」


 彼は冷や汗を垂らし、郭勝かくしょうらに目をやった。彼らも張譲ちょうじょうの過激な意見に狼狽えている様子であった。


 だが、張譲ちょうじょうは細い目から人を突き刺すほどの眼光を放ち、強い口調で再び話し始めた。


「そうだ。


 何進かしんにせよ、何太后かたいごうにせよ、奴ら何氏かしは我欲ばかりで、先帝陛下れいていに対する忠もない。


 奴らをこのまま野放しにしていては、先帝陛下れいていに申し訳が立たない」


 張譲ちょうじょうの声は外で屋根を叩く雨以上に冷たさがあった。彼の剣幕に燈火あかりの炎が揺らめいた。


《続く》

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