外の雨は激しさを増し、長楽宮の屋根を叩いた。燭台の火が揺らめき、訪ねてきた舞陽君と何苗の顔を照らした。
長楽宮の主・何太后は曲裾の上衣を整え、耳環をしゃなりと鳴らして母の舞陽君と兄の何苗を迎えた。
「母上、苗兄上、進兄上の暴虐を許すわけにはいきません!」
彼女の声には、昼の怒りが再燃していた。
何太后の話を聞き、舞陽君は顔をしかめた。
「まあ、なんと恐ろしい話でしょう!
宦官はこの漢になくてはならない存在だというのに。
それに私たちが今の地位に着けたのは全て宦官のおかげですよ。あの方々がいなければ、あなたが後宮に入ることができたのも、宦官の後押しがあったからこそよ!」
舞陽君は眉間に皺を寄せながら、声を低めて答えた。
何苗も頷いた。
「母上の仰る通りだ。
我らがこのような富貴の身に上れたのも、全て宦官のおかげだ。
大将軍がそんな事をいうのは、おそらく権力を独り占めするためだろう。そのために邪魔な宦官を排除したいんだ!
だが、そんな事を許せば、漢は乱れるぞ!
そして、我々の地位も脅かされかねない!」
彼は目を見開き、強く握った拳を突き上げた。
舞陽君と何苗は日頃よりよく宦官たちから贈り物を受け取っていた。そのおかげで豊かな暮らしを満喫することができていた。二人にとって宦官はなくてはならない存在であった。
二人の話を聞き、何太后も大きく頷いて、顔を上げた。
「まあ、進兄上はそんな事を考えていたのね!
確かに今、進兄上に権力が集中しすぎているわね。これで宦官までいなくなれば、いよいよ進兄上を止め者はいなくなる。
それこそ、私たちの地位まで奪いかねないわ!
天下を君臨する皇太后として、彼の独裁を許すわけにはいきません!」
彼女の瞳には野心の炎が煌々と燃え盛っていた。
それを聞いて舞陽君は厳かに告げた。
「進はなんと恩知らずで、自分勝手な大人に成長してしまったのでしょう。
太后殿下、決して進一人に権力を握らせてはなりません!」
舞陽君の声は冷たく、外で鳴り響く雷に負けぬ迫力を出していた。
何太后は頷いて応じる。
「当然ですわ、母上。
私は母上の教えを決して忘れませんわ」
彼女は強欲な本心をおくびにも出さず、にこやかに答えた。
「さすがは妾の娘と息子ね。
それに比べて進は⋯⋯」
舞陽君は不愉快そうに嘆いた。
ここで何氏の家系を説明しよう。
実はこの舞陽君は何進の実の母ではない。そして、何苗も何進とは血の繋がりはない。
舞陽君は名を興という。
何進の父・何真にとって舞陽君は後妻にあたる。何真の前妻は何進をもうけてすぐに亡くなってしまった。
舞陽君もまた朱家に嫁入りしたが、夫に先立たれてしまった。彼女には前夫との連れ子がいた。
当時、寡婦が再婚する時は、息子なら夫の家に残していくものであった。だが、彼女は息子を連れて行くことになった。舞陽君は美しい容姿をしていたが、連れ子がいたためになかなか再婚先が決まらなかった。そこで何真に話が行き、連れ子の面倒を見ることを条件に彼女と再婚した。
この時の舞陽君の連れ子が何苗である。
そして、何真と舞陽君の間には二人の娘が生まれた。上の娘が何太后である。下の娘は張譲の養子・張奉に嫁いだ。
そのため、何進と何太后は母違いの兄妹にあたり、何苗と何太后は父違いの兄妹となる。だが、何進と何苗には血の繋がりがなく、系図だけの兄弟関係であった。
後に何太后が皇后となる時には、既に父の何真は亡くなっていた。しかし、娘のおかげで車騎将軍の追号を与えられ、舞陽宣徳侯に封じられた。これに因んで母の興は舞陽君と呼ばれるようになった。
「いいですか。
いくら進が何氏の家長とはいえ、彼一人に権力を独占されるような事があってはなりません!」
舞陽君は何苗と何太后にきつく厳命した。
彼女からすれば何進は他人の子である。彼一人が権力を独占し、実の息子や娘が恩恵から除外される事態だけは避けたかった。
「もちろんです、母上」
何苗もこれに同調する。彼も何進とは血の繋がりがない上に、昔から兄弟仲はあまり良くなかった。
この二人からすれば、何進は権力を独り占めしようと企む強欲者であり、宦官は自分たちに富貴をもたらせた恩人であった。
「ええ、わかっているわ。
決して進兄上だけに権力は渡さないわ」
そして、何太后は誰よりも強欲であった。
〜〜〜
その夜、宮城の南にある趙忠の豪邸にて、宦官たちが集まっていた。
仄暗い燈火に映し出されたのは張譲、趙忠、段珪、郭勝ら、十常侍と呼ばれた宦官の中心的な人物たちの顔であった。この世の暗部を煮しめたような闇夜の中、彼らの陰謀が蠢いていた。
老婆のような顔つきに、よく太った男がまず口を開いた。
「何進の奴めが佞臣めらに踊らされて、我らを害せんと、なにやらやっているようです」
彼はこの家の主・趙忠であった。
団子鼻を掻き、段珪が嘲笑うように答えた。
「上手く利用されおって。
所詮、奴は肉屋の倅。
大将軍の器ではなかったのだ」
彼はよく出た腹をさすり、胡餅を摘んでいた。
段珪のすぐ隣に座る大柄な男・郭勝が続けて答えた。
「董氏も除いた今、そろそろ何進の役目も終わりだろう。
奴を大将軍より失脚させ、弟の何苗でも大将軍に据えべきだ!」
郭勝の提案に、段珪は手を叩いて喜んだ。
「郭常侍が言うなら間違いない!
何進はもう用済みだ!
物わかりの良い何苗を次の大将軍に据えよう!」
彼は無邪気に笑いながら、次の胡餅に齧り付いた。
話の流れが何進失脚に傾いていた頃、趙忠は一人黙って聞き役に回っていた男に気づいた。
それは、宦官の中心的な人物・張譲であった。
趙忠は、珍しく何も語らない張譲に話を振った。
「張常侍、先ほどから静かでございますな。
この件についてはいかが思われますか?」
周囲の視線が張譲へと注がれる。その時、彼の目が冷たく光った。
「何進は除こう⋯⋯!」
その張譲が同意見だったことで皆も安堵する。そして、彼の言葉に皆が同意しようとしたその時、張譲はさらに言葉を続けた。
「だが、何進だけではない。
何苗も何太后も皆除くべきだ。
何氏の一切を朝廷より排斥する!」
趙忠は眉間に皺を寄せ、垂れ下がった目をカッと見開いた。
「か、何進だけではなく、何氏そのものを朝廷から排斥しようと言うのですか?
それはあまりにも⋯⋯!」
彼は冷や汗を垂らし、郭勝らに目をやった。彼らも張譲の過激な意見に狼狽えている様子であった。
だが、張譲は細い目から人を突き刺すほどの眼光を放ち、強い口調で再び話し始めた。
「そうだ。
何進にせよ、何太后にせよ、奴ら何氏は我欲ばかりで、先帝陛下に対する忠もない。
奴らをこのまま野放しにしていては、先帝陛下に申し訳が立たない」
張譲の声は外で屋根を叩く雨以上に冷たさがあった。彼の剣幕に燈火の炎が揺らめいた。
《続く》