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第九十七話 何氏内紛(一)

 洛陽らくようの翌朝はなおも灰色の雨雲に覆われ、季節外れの冷たい風が吹き抜けた。雷鳴が遠くで唸り、何太后かたいごうの暮らす長楽宮ちょうらくきゅうの朱塗りの柱を震わせた。


 何進かしんは紅色のうわぎをまとい、額に汗を滲ませて宮殿の中へと入っていった。彼の足音がしきがわらが敷き詰められた床に響き渡る。奥へと進む彼を、行き交う侍婢たちは息を潜め、怯えた目で見送った。


 何進かしん袁紹えんしょうの策に同意して宦官かんがんの誅殺を決意した。だが、いくら大将軍だいしょうぐんといえども、彼の判断で宮中で働く宦官かんがんたちを追い出すことはできない。


 だが、少帝しょうていの許可があれば宦官かんがんを一掃することは容易となる。そして、その許可を得るためには何太后かたいごうの支持が不可欠であった。


「妹を上手く説得できるかどうか⋯⋯」


 何進かしんは呟き、拳を握りしめた。彼は決意を胸に扉を開ける。既に蹇碩けんせきを誅殺し、董太后とうたいごうも亡くなった。次に朝廷を健全化するためにやるべきことは、宦官かんがんの一掃である。何進かしんの決意は揺るがない。


 部屋の中の何太后かたいごうは、大床ベッドの前に置かれた長いすに腰掛けたままで何進かしんを迎え入れた。彼女は綺羅びやかな装飾の施されたうわぎに身を包み、貴金属で美しく着飾ってた。細長く描かれた眉に、顔は白粉おしろいで白く透明に輝いている。その化粧で彩られたその容姿は美しいが、その瞳は猜疑心で炎で爛々と燃えていた。


「改まって何の用ですか、兄上かしん


 彼女の声音は甘く、それでいて刃のように鋭かった。


 彼女はにこやかな笑顔で何進かしんを迎えた。息子を皇帝にけ、義母の董太后とうたいごうも亡くなり、まさに我が世の春を謳歌する満面の笑みであった。


太后殿下かたいごう、本日は相談があって参りました」


 何進かしんは彼女の前まで進むと、恭しく頭を下げた。


「ほう、相談ですか。なんでしょう。


 もちろん、いい話なのでしょうね」


 彼女は目の鋭さはそのままに、にこやかに微笑んだ。


宦官かんがんのことでございます」


 何進かしんは腰を曲げたまま、額の汗を隠すように両手を顔の前で合わせた。そして、緊張した面持ちで話し出した。


宦官かんがんがどうしたのですか?」


 何太后かたいごうは顔色一つ変えていない。だが、その声に微かに冷たさが混じっていた。その声音に、周囲の侍婢たちは息を呑んだ。


 何進かしんはその冷たさを感じ取り、一瞬、顔を強張らせた。だが、もう、引くことは出来なかった。彼は拳を握りしめて話を続けた。


「古来より宦官かんがんが朝廷を牛耳り、私腹を肥やしてきたのは周知の事実でございます。


 宦官かんがんがこれ以上蔓延はびこれば、我ら何氏かしの一族が天下を動かしていくことにも差し支えありましょう。


 ここは我ら一族の繁栄のためにも、宦官かんがんを一掃し、この朝廷より排除するべきです!」


 彼の声に合わせるかのように、空で雷鳴が鳴り響く。何進かしんは顔をしかめ、歯を食いしばっている。


 彼の言葉に、何太后かたいごうの白い顔は真っ赤に染まり、曲裾きょくきょの袖を払って立ち上がった。彼女の耳から下げた玉製の耳環イヤリングがカランと音を立てて鳴る。


兄上かしん、それは誰の入れ知恵ですか。


 宦官かんがんが宮中を取り仕切るのは、太古の昔から今に至るまで、漢家こっかの伝統です。廃すべきではありません!」


 彼女の声は怒りに震え、目は大きく見開かれている。その剣幕に周りの侍婢たちは身を縮めた。


 だが、何進かしんも負けじと一歩踏み出した。


「しかし、宦官かんがんを廃すのは士人全体の望みなのです。


 奴らを除けば、士人の支持を得て、我ら何氏かしの地位が盤石になるんですよ!」


 彼は拳を強く握りしめて、必死に訴えた。


 その時、何太后かたいごうの一喝が部屋中に響き渡った。


「黙りなさい!」


 何太后かたいごうは袖で顔を覆い、その場を泣き崩れるような芝居を始めた。


「そもそも、先帝陛下れいていが崩ぜられてまだ間もないのですよ。


 それなのに、表では笑顔で士人のご機嫌をとり、裏では宦官かんがん一掃などという凶事を引き起こせというのですか!


 なんと恐ろしい!」


 何太后かたいごうの言葉はまるで悲劇のヒロインの如く語り出す。雷鳴が彼方で唸りを上げた。


 何進かしんは内心、董太后とうたいごうの謀殺をけしかけた何太后かたいごうの偽善に苛立ちを覚えた。だが、自分も加担した罪悪感から強く反論できなかった。


「いや、しかしだな⋯⋯」


 何進かしんはそれでも説得しようと口を開いた。だが、口が重く、言葉を詰まらせてしまった。元来、彼は弁舌に長けた男ではなく、言葉を上手く続けられなかった。


 だが、何太后かたいごうの言葉がさらに強く襲いかかる。


「しかし、なんですか!


 宦官かんがんの件でしたら終わりましたよ。用が済んだのなら帰りなさい!」


 何太后かたいごうは喚き散らし、侍婢が捧げていた杯を掴むと、何進かしんに向けて投げつけた。中の葡萄酒ワインが飛び散り、何進かしんうわぎを赤黒く染めた。


 こうなっては収拾がつかないと、何進かしんは長い付き合いから知っていた。


「う、うむ、わかった。


 今日のところは帰ろう」


 何進かしんは重い足取りで退出した。雨飛沫あめしぶきが彼のうわぎを濡らし、雷鳴がその背を追いかけた。


 帰り際、何進かしんは独り言のように呟いた。


「うーむ、やはり何太后かたいごうを説得するのは難しいか。


 しかし、先帝陛下れいていの時も蹇碩けんせきのために、ずいぶん朝廷がかき乱された。宦官かんがんはあまりにも皇帝に近過ぎる。


 皇帝陛下しょうていが同じ過ちを繰り返さないためにも、宦官かんがんは必ず除かねばならない!」


 何進かしんは決意を固めながらも、雨が降りしきる中、重い足取りで大将軍府だいしょうぐんふへと帰っていった。


 〜〜〜


 夕刻頃、長楽宮ちょうらくきゅうの正門を叩く音が雨音に混じった。何進かしんと入れ替わる形で、舞陽君ぶようくん何苗かびょうが訪れた。何太后かたいごう曲裾きょくきょを翻し、笑顔で二人を出迎えた。


「まあ、母上ぶようくん


 それに苗兄上かびょうも!」


 彼女の笑顔は、昼間の怒りを忘れたかのように明るかった。


 訪れた内の一人は、何太后かたいごうの実母・舞陽君ぶようくん。もう一人はその舞陽君ぶようくんの息子で、何太后かたいごうの兄・何苗かびょう


 舞陽君ぶようくんは、歳は六十を過ぎた頃。白髪に深い皺が刻まれていたが、往年の美貌を偲ばせる顔立ちをしていた。その様は、さすがは何太后かたいごうの母といった容貌であった。だが、過剰なまでに装飾品をそこかしこに身に着け、顔よりもそちらに目が行くほどであった。


 共に来た何苗かびょうは、がっしりした体躯に、きらびやかな刺繍が施されたうわぎをまとっていた。


 何太后かたいごうと並ぶと、この三人の立ち姿は絢爛豪華で、後漢きっての名家と一目で思わせるほどであった。


 母の舞陽君ぶようくんは一歩歩み寄り、何太后かたいごうに尋ねた。


太后殿下かたいごう、先ほどかしんがここに来たという話を聞きましたが、どのような用事だったのですか?」


 そう語る彼女の声は穏やかであったが、瞳には娘の何太后かたいごうそっくりな鋭い光が宿っていた。


 何太后かたいごうは目を細めた。


「それがとても恐ろしい話よ。


 進兄上かしんは、宦官かんがんをこのくにに必要ない存在だから排除するなんて言うのよ」


 そう語る彼女の声は震えていた。外の雨は一層激しさを増した。


《続く》

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