洛陽の翌朝はなおも灰色の雨雲に覆われ、季節外れの冷たい風が吹き抜けた。雷鳴が遠くで唸り、何太后の暮らす長楽宮の朱塗りの柱を震わせた。
何進は紅色の袍をまとい、額に汗を滲ませて宮殿の中へと入っていった。彼の足音が磚が敷き詰められた床に響き渡る。奥へと進む彼を、行き交う侍婢たちは息を潜め、怯えた目で見送った。
何進は袁紹の策に同意して宦官の誅殺を決意した。だが、いくら大将軍といえども、彼の判断で宮中で働く宦官たちを追い出すことはできない。
だが、少帝の許可があれば宦官を一掃することは容易となる。そして、その許可を得るためには何太后の支持が不可欠であった。
「妹を上手く説得できるかどうか⋯⋯」
何進は呟き、拳を握りしめた。彼は決意を胸に扉を開ける。既に蹇碩を誅殺し、董太后も亡くなった。次に朝廷を健全化するためにやるべきことは、宦官の一掃である。何進の決意は揺るがない。
部屋の中の何太后は、大床の前に置かれた凳に腰掛けたままで何進を迎え入れた。彼女は綺羅びやかな装飾の施された袍に身を包み、貴金属で美しく着飾ってた。細長く描かれた眉に、顔は白粉で白く透明に輝いている。その化粧で彩られたその容姿は美しいが、その瞳は猜疑心で炎で爛々と燃えていた。
「改まって何の用ですか、兄上」
彼女の声音は甘く、それでいて刃のように鋭かった。
彼女はにこやかな笑顔で何進を迎えた。息子を皇帝に即け、義母の董太后も亡くなり、まさに我が世の春を謳歌する満面の笑みであった。
「太后殿下、本日は相談があって参りました」
何進は彼女の前まで進むと、恭しく頭を下げた。
「ほう、相談ですか。なんでしょう。
もちろん、いい話なのでしょうね」
彼女は目の鋭さはそのままに、にこやかに微笑んだ。
「宦官のことでございます」
何進は腰を曲げたまま、額の汗を隠すように両手を顔の前で合わせた。そして、緊張した面持ちで話し出した。
「宦官がどうしたのですか?」
何太后は顔色一つ変えていない。だが、その声に微かに冷たさが混じっていた。その声音に、周囲の侍婢たちは息を呑んだ。
何進はその冷たさを感じ取り、一瞬、顔を強張らせた。だが、もう、引くことは出来なかった。彼は拳を握りしめて話を続けた。
「古来より宦官が朝廷を牛耳り、私腹を肥やしてきたのは周知の事実でございます。
宦官がこれ以上蔓延れば、我ら何氏の一族が天下を動かしていくことにも差し支えありましょう。
ここは我ら一族の繁栄のためにも、宦官を一掃し、この朝廷より排除するべきです!」
彼の声に合わせるかのように、空で雷鳴が鳴り響く。何進は顔をしかめ、歯を食いしばっている。
彼の言葉に、何太后の白い顔は真っ赤に染まり、曲裾の袖を払って立ち上がった。彼女の耳から下げた玉製の耳環がカランと音を立てて鳴る。
「兄上、それは誰の入れ知恵ですか。
宦官が宮中を取り仕切るのは、太古の昔から今に至るまで、漢家の伝統です。廃すべきではありません!」
彼女の声は怒りに震え、目は大きく見開かれている。その剣幕に周りの侍婢たちは身を縮めた。
だが、何進も負けじと一歩踏み出した。
「しかし、宦官を廃すのは士人全体の望みなのです。
奴らを除けば、士人の支持を得て、我ら何氏の地位が盤石になるんですよ!」
彼は拳を強く握りしめて、必死に訴えた。
その時、何太后の一喝が部屋中に響き渡った。
「黙りなさい!」
何太后は袖で顔を覆い、その場を泣き崩れるような芝居を始めた。
「そもそも、先帝陛下が崩ぜられてまだ間もないのですよ。
それなのに、表では笑顔で士人のご機嫌をとり、裏では宦官一掃などという凶事を引き起こせというのですか!
なんと恐ろしい!」
何太后の言葉はまるで悲劇のヒロインの如く語り出す。雷鳴が彼方で唸りを上げた。
何進は内心、董太后の謀殺をけしかけた何太后の偽善に苛立ちを覚えた。だが、自分も加担した罪悪感から強く反論できなかった。
「いや、しかしだな⋯⋯」
何進はそれでも説得しようと口を開いた。だが、口が重く、言葉を詰まらせてしまった。元来、彼は弁舌に長けた男ではなく、言葉を上手く続けられなかった。
だが、何太后の言葉がさらに強く襲いかかる。
「しかし、なんですか!
宦官の件でしたら終わりましたよ。用が済んだのなら帰りなさい!」
何太后は喚き散らし、侍婢が捧げていた杯を掴むと、何進に向けて投げつけた。中の葡萄酒が飛び散り、何進の袍を赤黒く染めた。
こうなっては収拾がつかないと、何進は長い付き合いから知っていた。
「う、うむ、わかった。
今日のところは帰ろう」
何進は重い足取りで退出した。雨飛沫が彼の袍を濡らし、雷鳴がその背を追いかけた。
帰り際、何進は独り言のように呟いた。
「うーむ、やはり何太后を説得するのは難しいか。
しかし、先帝陛下の時も蹇碩のために、ずいぶん朝廷がかき乱された。宦官はあまりにも皇帝に近過ぎる。
皇帝陛下が同じ過ちを繰り返さないためにも、宦官は必ず除かねばならない!」
何進は決意を固めながらも、雨が降りしきる中、重い足取りで大将軍府へと帰っていった。
〜〜〜
夕刻頃、長楽宮の正門を叩く音が雨音に混じった。何進と入れ替わる形で、舞陽君と何苗が訪れた。何太后は曲裾を翻し、笑顔で二人を出迎えた。
「まあ、母上!
それに苗兄上も!」
彼女の笑顔は、昼間の怒りを忘れたかのように明るかった。
訪れた内の一人は、何太后の実母・舞陽君。もう一人はその舞陽君の息子で、何太后の兄・何苗。
舞陽君は、歳は六十を過ぎた頃。白髪に深い皺が刻まれていたが、往年の美貌を偲ばせる顔立ちをしていた。その様は、さすがは何太后の母といった容貌であった。だが、過剰なまでに装飾品をそこかしこに身に着け、顔よりもそちらに目が行くほどであった。
共に来た何苗は、がっしりした体躯に、きらびやかな刺繍が施された袍をまとっていた。
何太后と並ぶと、この三人の立ち姿は絢爛豪華で、後漢きっての名家と一目で思わせるほどであった。
母の舞陽君は一歩歩み寄り、何太后に尋ねた。
「太后殿下、先ほど進がここに来たという話を聞きましたが、どのような用事だったのですか?」
そう語る彼女の声は穏やかであったが、瞳には娘の何太后そっくりな鋭い光が宿っていた。
何太后は目を細めた。
「それがとても恐ろしい話よ。
進兄上は、宦官をこの漢に必要ない存在だから排除するなんて言うのよ」
そう語る彼女の声は震えていた。外の雨は一層激しさを増した。
《続く》