ハマが用意してくれたホットミルクを飲んで、カスミは一息ついたらしい。ふーっと深く息を吐いて、しばし目を瞑っている。涙の痕はまだ少し残っているが、その内消えるだろう。
現在、個室には土敷とハマ、カブソと猫田、そしてカスミの五人がいる。土敷はお茶を、猫田はジュース、ハマはコーヒーとそれぞれの好みにあったものを飲んでいるようだ。唯一カブソだけは何も飲まずにハマの膝の上でゴロゴロしていた。
「どうして泣いていたのか、聞いてもいいかい?大丈夫、ここには人に言いふらすような奴はいないから」
少し落ち着いた所を見計らって、土敷が優しく声をかけた。飲み物を渡した時に、簡単に自己紹介をしたのだが、その時土敷がこの店のオーナーだと聞いてカスミは心底驚いていた。外見的には、土敷は精々10歳~12歳位の男の子にしか見えないので、無理もない。
土敷は座敷童として、子どもに対してはするりと心の中に入る能力がある。カスミはまだ中学生らしいので能力の対象範囲内だろう。ちなみにここで言う子どもとは法的な区分ではなく、精神的なもの…簡単に言うと、思春期を迎えているかいないかの違いであるらしい。
躊躇いがちに顔を伏せた後、カスミはぽつぽつと話し始めた。
「最近、私の家に親戚の叔父さんが居候してるんだけど、その叔父さんと喧嘩しちゃって…うちはお父さんが仕事で家を空けてるから、お母さんと弟と三人で物騒だからって…」
「なるほど、喧嘩の内容を聞いても?」
「…きっかけは、何だったかな。叔父さんはとにかく、うちのお父さんを凄く尊敬してるみたいで、私達にも厳しくて…それで、私が大事にしていたぬいぐるみをどこかへ捨てちゃったの」
「ヒドーい!わたし、そういう男の人キライだなぁ!」
ぷんぷんとハマが怒ると、膝の上にいるカブソも同じように怒ってみせた。何とも愛くるしい様子ではあるが、今はそれどころではない。ただ、少しは二人の様子に癒されたのか、カスミは力なく笑っていた。
「それが悲しくて、家を飛び出しちゃって…もう中学生になるって言うのにおかしいでしょ?」
「…そんな事ないよ。いくつになっても、大事な物は大事なんだ。僕らはそういう人達が好きさ」
彼らの仲間である付喪神は、100年の時を経て妖怪へと変化するパターンが一般的である。一つの物が百年保つというのは案外難しい。大抵のものは、やはり人間が大切にしない限り、そこまで長く存在することはできないからだ。
その為、土敷達にしてみれば、どんな理由であろうと物を大切にする人間はまだ見ぬ仲間を生みだしてくれるかもしれない、尊い存在である。
そんな土敷の言葉が効いたのか、カスミは再び涙を溢れさせ、嗚咽を漏らした。猫田が初めて会った時はずいぶんと生意気な感じに見えたが、これがカスミの素なのだろう。蓮っ葉に振る舞っていても、まだまだ幼い子どもなのだ。父が家を空けていることも、もしかすると寂しいのかもしれない。
そっと目配せをして、泣いているカスミをハマに任せ、猫田と土敷は部屋を出た。猫田は苛立ちを隠さず、毛を逆立てて怒りを露わにしている。放っておけば、件の叔父とやらを探し出して、手にかけてしまいそうだ。いくらなんでもそこまではしないだろうと言いたい所だが、カスミと言う少女に対して、猫田はかなり思い入れが強いようなので、土敷は少々不安であった。
「猫田、解ってると思うけど、無闇に人に危害を加える様な真似はしないでくれよ?」
「解ってる。さすがに殺しやしねーよ、ムカついてはいるけどな」
そのムカつきが危険なのだが、土敷もそれ以上は何も言わず、問題の解決に頭を使うことにした。
「しかし、失せ物か…うちにその手の問題に強い妖怪はいないな」
その昔には、『はやり神様』と呼ばれる憑き物がいたというが、それは元々人間であり、当然現在まで生きてはいない。可能性があるとすれば、千里眼や術師が行う霊視だが、この場に霊視が出来る人間などいないし、千里眼を持っているのは仏やかなり高位の妖怪である。とてもではないが、今すぐ用意できる人員ではなかった。
「ハル爺や拍なら…ああ、二人共仕事でいねーんだったか、クソ」
霊視ならばお手の物な二人も、今日に限って出払っている。仮に居たとして、タダで視てくれるかどうかは怪しい所である。特に拍は、狛に関することなら何でもやるだろうが、猫田の個人的な頼みなどは余程のことがない限り聞いてくれそうにない。
苛立ち紛れに頭を掻く猫田の横で、土敷がボソりと呟いた。
「
「ああ?」
「
土敷に言われて猫田も思い返してみると、記憶のどこかに聞き覚えがある名前ではあった。相当古い妖怪なので、会った事もないし、どこにいるのかも知らない相手だ。
「なんとなく聞いた事はあるような気もするが、どこにいるかも解んねーんじゃあ意味がないだろ…」
「うーん、そうなんだよね。せめて
「おう、呼んだか?」
「っ!?」
土敷と猫田がその声に反応すると、周囲は一面草むらだらけのだだっ広い原野に変わっていた。これは、異界化だ。今までの妖怪達が行ってきた異界化のように、おどろおどろしいものでないのは、これを行っているものが強い力を持っている証である。さらに言えば、くりぃちゃあの店内は、土敷が自身の領域として保護している。それをここまで完璧に塗り替えるというのは、相当な実力が無ければ出来ない芸当でもある。
その声の主は、原野の中に不自然なほど大きく、雑に置かれた岩の上に座っていた。今時の若い男風の服装をしているが、髪型は黒のオールバックというちぐはぐな出で立ちである。彼の名は
「神野…アンタか。ずいぶん久し振りだな」
「おう、猫助、相変わらず元気そうだな。てめぇまだ根無し草してんのかと思ったら、人間の…しかも退魔士の娘なんかの世話になってるって?解んねぇ野郎だぜ、お前ほどの奴なら、俺の直属の部下にだってしてやるってのによ」
カラカラと笑いながら、神野は猫田の目を睨みつけた。この二人、以前猫田が
あまりにも大暴れをしたので、見かねたその地域を治めている何柱かの神が仲裁に入ったらしい。それ以来、久々の再会であった。
「神野…どうしてここに?」
「はっ!座敷童如きが、この俺を呼び捨てか?まぁいい、おカタいのは俺も好みじゃねぇからな。知っての通り俺らは、お前らの元締めとして管理しなきゃならねー立場にある。この国で俺の名前を出したら、そいつは何処にいようときっちり聞かせて貰ってるのさ」
神野と先述の山本は、魔界の悪魔の棟梁とされる程の実力者であり、その支配は日本のみならず、海外にも通じる腕前だ。自分の領域から、日本中で囁かれる言葉の中で特定のワードを聴き出すことなど、造作もないことであった。それはまさに地獄耳である。
猫田は神野を見上げつつ、冷静に頭を働かせていた。過去の遺恨もあって、はっきり言って気に入らない相手だが、味方にすればこれほど頼れる相手もそうはいない。
猫田はそう考えた後、一切の躊躇なく神野に頭を下げてみせた。
「すまねぇ、アンタの力を借りたい。助けちゃくれねーか?」
「猫田…!?」
「ほう!ずいぶんと聞き分けの良い猫になったもんじゃねーか。人間と一緒に暮して牙が折れたか?…だが、そんなつまんねぇ奴の言う事は聞けねぇなぁ」
嘲笑う神野の言葉を、猫田は頭を下げたまま聞いているだけだった。隣でそれを見ていた土敷は、信じられないという表情で愕然としている。
神野悪五郎という男は、その名の通り性根が悪である。魔王と名乗るだけあって、悪性に満ちている存在だ。
ただ、彼は自身の力と立場を理解していて、これ見よがしにそれを振るうことはしない分別を持っているのだ。とはいえ、こうやって自分が上に立てるとなれば、容赦なくその本性をむき出しにしてくる…まさに妖怪そのものといった男であった。
「…なら、どうすりゃいい?アンタの手下になれと?」
「へっ!牙の折れた飼い猫なんざこっちから願い下げだ。いらねーよ!まぁどうしてもって言うなら…てめぇが腑抜けてねぇ所を見せてもらおうか?そうすりゃ、ちったぁ考えてやらねぇこともねぇな」
これほど解りやすく、安い挑発もないのだが、猫田にはこれを断る手は残されていなかった。神野にしてみれば、以前つけられなかった決着をつける、いい機会なのだろう。わざわざこの場に自分から現れたのも頷ける。
「おい、座敷童。お前が立会人になれ」
そう言って、神野はふわりと岩の上から飛び降りると、二人から少し離れた場所に立った。因縁の対決は、目前に迫っている…