「な、にを……」
「失礼ですが、そちらの台所事情を調べさせて頂きました。最近の社会事情もあって、業績は中々厳しいようだ。その為に、息子と娘さんを懇ろにさせようとは…政略結婚なんて、そんな時代じゃありませんよ、全く」
真はそう言うと、ツールバッグとは別の鞄からいくつかの資料のようなものを取り出し、テーブルに並べて置いた。そこには御遠場が所有する企業の内情がかなり克明に記されており、会社の内情が危険な状態にある事がよく解る内容である。恐らく、それを調べたのは調査部の槐達だろう。
夫妻は冷や汗を掻きながら、黙って真の表情を窺っている。
「確か五年前、うちがそちらから受けた依頼は、襲撃してくる謎の怪物を撃退してご夫妻や娘さんを護ることでしたね。当初は自分が受け持つはずの仕事だったのですが、まぁちょっとやむにやまれぬ事情がありまして、息子にバトンタッチをして、私はしばらく別の仕事を受け持っていたのです。怪物自体は大した事のないものですし、まだ若い息子でも、十分こなせるだろうと考えておりました」
真はテーブルに置いた資料を摘まみながら、さらに話を続ける。まるで、ドラマや小説で探偵が謎解きをするような、どこか芝居がかった口調である。
「こちらの調べによると……ええと、ああ、2年前ですね。そちらが手掛けている主要な会社で徐々に経営が悪化し始めたのは。この頃からですか、拍を婿入りさせようと計画を始めたのは」
御遠場夫妻は微かに震えを見せ始めている。そして尚も、真の独演は続く。
「娘さんは、いつからなのか拍に恋をしておられた。歳もほぼ同じですし、自分を献身的に守ってくれる男性ともなれば、そうなるのはある意味必然と言えるでしょう。そして、それを知ったお二人は、会社の業績悪化と共に何としても拍を手に入れたいと考えるようになった。確かに
真は急に鋭い眼光を夫妻に向けた。夫妻はまさに、蛇に睨まれた蛙のように身動きすら取れなくなっているようだ。
「まさかねぇ。怪物と取引をして、娘さんの恋を取り持とうなんて普通は考えもしませんよ。実際、愚息も、そんな事は思いもしなかったようですしねぇ。しかし、ここまで事態が長引く事に違和感を覚えなかった所が、愚息の不手際と言えるでしょう」
そう真に言われて青い顔をする夫妻と、唇を噛み僅かに紅潮している拍の表情は対照的であった。それでも真は、話を続けている。
「本来、貴方達が思っている以上に、妖怪や悪魔というものは狡猾で恐ろしいものなんですよ。素人の浅知恵で利用など出来るもんじゃあない。まぁ、
娘の命が危なかったと聞かされて、夫妻はようやく自分達の行為が失敗だったと悟ったようだった。ショックからなのか、妻の怜はふっと意識を失いソファに倒れ、渉はそれを慌てて支えようとしている。その時だ。
「何か、来る…!」
狛がそう呟き、室内の灯りが突然消えた。パリン!バリン!と軽い音や重い破壊音がいくつも重なって鳴り響いているが、実際には何も壊れてはいない。俗に言うラップ音である。その音は段々と大きくなっていき、何かが近づいているのを示しているようだった。そして、それが耳を塞ぎたくなるほどの轟音になった時、ゆっくりと応接間の扉が開いた。
「あ、
扉を開けて入ってきたのは最初に梨絵を預けた家政婦の女性だった。どうやら、阿左美という名前らしい。渉がその名を呼んでも、阿左美は何の反応も示さない。ただ、彼女が正常でない事は明らかだった。まるで、今朝犬神家に現れた御遠場夫妻の娘、梨絵のようだ。
「ああああ…だん、なさまぁ…!」
「ひっ!?」
阿左美は髪を振り乱し、異常なほど目を血走らせて渉を呼んだ。彼女もまた、怪異に憑りつかれてしまっている。その名を呼ばれた渉は怯えて竦み上がっている。
「ちっ!」
舌打ちをしつつ、阿左美を取り押さえたのは拍だった。即座に捕縛用の霊符を投げつけ、身体の自由を奪ったのだ。そして、間髪入れずに真が阿左美の元へ近づき、梨絵に対して行ったように掌から霊気を当てて、また針状の骨を引き抜いた。流れるような連携である。
「どうなっている?ついさっき会った時、この女性に操られていた様子などなかったぞ…?」
拍と真は阿左美の様子を確認し、彼女にかけた捕縛術を解いた。しかし、拍の言う通り、一行が御遠場家に到着した時、出迎えた阿左美からは、異常な妖気などは一切感じ取れなかった。困惑する一同の中、真は渉に向かって問いかける。
「御遠場さん、全て話して頂けませんか?あなたは一体、
「あ、ああ…わ、私はただ…娘が、梨絵が拍さんを気に入ったというので、うまく行けばいいと…妖怪も…話せば解ってくれると、言われて」
「解ってくれると言われた?誰にです?」
「さ、最近知り合った占い師の女性です…!とてもよく当たると評判で、つ、妻と娘がよく話を聞きに行っていて、そこから…」
相手が妖怪でも話せば解ってくれるなど、お人好しな狛でも言わない台詞だろう。確かに猫田やくりぃちゃあの面々のように、比較的、人間に対して好意的に接する妖怪もいなくはない。しかし、それはほとんど例外的なものだ。まず妖怪の側が人間に敵意や害意を持っておらず、歩み寄ろうという意識が無ければ有り得ない。
しかも、これまで何度も襲撃を繰り返してきたという妖怪が、ある日突然話を聞いてくれるというなど、相手を力で制圧して支配下に置きでもしない限り起こり得ない事態である。その占い師がいい加減な事を言っているか、或いは、こうなる結果を見越して
「その占い師の事は後で聞くとして…それで?一体何を取引にしたんです?」
「あ、あの妖怪は…元々、この辺りに住んでいたのだと…土地を返せと言うので、それで」
「家に招き入れたってのか?アホ臭ぇ、乗っ取りを許してるようなもんじゃねーか」
「猫田さんっ!言い方!」
「す、すみません…娘の為に、良かれと思ったのです…」
「ふむ…なるほど。となると、この家屋敷は敵の領域…支配下にあるということになりますねぇ。これは厄介だ」
妖怪が自分の縄張りを主張する為に、強制的に支配下へ置く…すなわち、異界化と違って、正式な意味で支配下に置くのとは少し意味合いが変わってくる。異界化はその場の存在そのものを捻じ曲げて作る為に、それは一時的なものである。時には物理法則にすら作用する反面、それを維持するには当然妖力を消費するし、何よりも現世現実への回帰が発生する。
そもそも異界化とは、読んで字のごとく、妖怪や術者が妖力を用いて、現世の一部を妖怪達の世界…冥府彼岸へと塗り替えた状態を指す。それは強制的なものであり、本来あるべき現世の形から逸脱した状況だ。現世には、それを元に戻そうとする力が働くのである。現世全てを異界に落とし込んでしまえば別だが、例えば建物の中など、ごく一部の範囲を異界化しただけならば、その状態は永続しないのである。
余談だが、かつてギンザ一味がやろうとした現世に地獄を出現させる行為は、現世を地獄に汚染させることとなり、一度汚染が始まればそれは自然に元に戻ることはない。そもそも地獄に通じる門が開いてしまっている状態なので、門を閉じ、汚染を排除しない限りは元に戻らないのである。
話を戻して、妖怪や術者がその場を正当な支配下に置く事は現世の塗り替えでも何でもない。その妖怪が存在する以上、それは永続的に領域となる。現世への回帰といった反作用も発生せず、自らの自由に力や存在が行使できる空間だ。ここへ他者が入って行くのはまさに獣の口の中に飛び込むに等しい。何しろ異物はこちら側なのだ。もはやその妖怪を倒さない限り、外へ出ることすらままならないだろう。
狛達は御遠場家の人々を護りながら、