「アスラぁーっ!久し振り!元気そうでよかったぁ…!桔梗さんの言う事ちゃんと聞けてた?アハハ、ちょっとぉ、顔舐めすぎだよ~」
尻尾を千切れんばかりに振り切って、全力で幸せをアピールしているのは、犬神家の愛犬アスラである。あの襲撃の後、駆け付けた桔梗の元に預けられていたので、およそ一ヵ月ぶりの再会だ。しゃがんだ狛に飛びついては顔を舐め、少し距離を取ってはまた飛びついて…と何度も繰り返している。とにかく狛と再会できたのが嬉しいらしい。
動物の考えが読める狛でなくとも、誰もが今のアスラの喜びは、手に取るように解るだろう。
その様子を、桔梗と猫田は微笑ましそうに眺めていた。
人狼の里での騒動から二日ほど経って、狛は猫田と共に、中津洲市内にある神子家に顔を出していた。犬神家の本家敷地は、現在、雷とガス爆発によって焼け跡が残るのみなので、これからしばらくの間、二人は神子家に住まわせてもらうこととなっている。
元々、神子家と犬神家は繋がりが深い関係だ。古くは犬神家が京都から関東へ移り住んだ頃、神子家の先祖が土地を提供する代わりとして、土地の鎮守に力を貸して欲しいと頼んだことから両家の付き合いは始まった。無論、同時にこの辺りを治めていた中津洲家とも関りをもったのだが、個人的な関係も含めれば犬神家は神子家の方と、より縁が深いと言っていいだろう。
神子家現当主である桔梗は、狛達の両親とは幼馴染であり、少し年上の姉代わり的存在であった。彼女自身が小さな頃から犬神家に出入りをしていて、家族同然の付き合いであったと言っても過言ではない。そんなこともあって、分家当主の面々も桔梗の事はよく知っているし、昔は槐とも仲は決して悪くなかった。そんな彼女だからこそ、今回の槐の暴走には、酷く心を痛めていたようだ。
「狛、今日からここを自分の家だと思って暮らしてくれて構わないからね。猫田君と言ったかな?君も気にせずにね」
「うん!桔梗さんありがとうございます。猫田さん共々、しばらくお世話になります」
「すまねぇ、世話になる。よろしく頼む」
桔梗は二人の挨拶を受けて、ニッコリと笑い、家の中へ連れて入った。神子祭の最終日に訪れたばかりだが、あの時よりも境内や家の空気がより澄んでいる気がする。神事を終え、また閻魔大王の力によって地獄門との繋がりが厳しく制限されたからだろうか。また次の神事まではこれが続くはずである。
狛は与えられた部屋に入ると、一息ついてアスラを撫でながら今後について思いを巡らせていた。これから、長い戦いが始まるかもしれない、そんな予感が胸の中に渦巻いている。
人狼の里で一族の者達を匿ってくれることになった後、狛達は今後について話し合った。槐は暴走の理由を、旧態依然とした犬神家そのものへの復讐と語っていたが、本当にそれだけなのだろうか。彼は前々から、人と妖怪との共存を掲げていた。奇しくも、それはあの動画で見た男が言っていた内容と一致するものだ。それが偶然だとは、狛にはどうしても思えなかった。
そうして、全員で人狼の里へと移動し、改めて他の者達と改めて動画を閲覧した後に狛がその考えを皆に伝えると、やはり全員が同じ感想を抱いたようだ。つまり、あの動画の投稿主は槐の配下にいる妖怪であり、動画の中で仕えている相手がいると言っていたのが、槐の事であるという解釈である。本当に槐が黒幕なのであれば、やはり一族の不始末は自分達でつけるべきだということで、考えはまとまった。
幸いなことに、人狼の里が非戦闘員である子どもや老人達などを匿ってくれることになったので、反撃に出やすくなった。後は、どうやって行方の分からない槐を見つけ出すか?だ。
そこで狛が提案したのは、自らが囮になることであった。
現状、人狼の里の事は、例え妖怪や調査部の情報力を持ってしても知り得ない情報である。何しろ数百年もの間、人狼の里は結界で里を隠匿していたのだ。その訳は、彼らが天狗達と敵対していた理由に繋がっている。元々、人狼族の祖先は真神という、山神である狼を神格化した神を祀る者達であったらしい。同じように独自の山の神を信仰の対象とし、時に魔王の眷属ともなった遠馬天狗達は、異教の使徒とでも言うべき人狼達を敵視していた。
それでも今までは小競り合い程度で、お互いを滅ぼすという意思まではなかったようだが、天狗達はあの妖怪を狂わせる何かで、旧来の感情を暴走させられて今回の事態に至ったのだ。
人狼の里に張られた結界は、本来、天狗達から身を守る為のものだったのである。それ故に、他の妖怪達にすら、里の事はほとんど知られていない。600年を生きる猫田でさえ、現在までその存在を知らなかったほどだ。彼らが外界と接触していたのは、わずかな期間だけで、それも極一部の者達のみで行われており、主に地元の人々とささやかに物資の交換などをするだけという環境にあったらしい。里長である有と
その接触自体も周辺に住む人々の減少により、十数年前から途絶えている。まさに隔絶した陸の孤島のようなものだ。ここにいれば、まず間違いなく槐達の手は届かないだろう。
もし、朔があの時結界を再度張る事を忘れなければ、天狗達は里を襲う事はなかったかもしれない。その場合、襲撃されたのは人里だった可能性もあるので、その意味では不幸中の幸いだったと言えそうだ。
そして、狛がそこを出て目立つ場所にいけば、槐は間違いなく狛を狙うしかなくなる。あの襲撃から狛だけが生き残ったのか、或いは他の一族の面子も生き残っているのか、それを知りようがない以上、放置する事もできないはずだ。
もちろん、あの動画と槐が無関係である可能性もゼロではない。その場合、槐とはまた別に対処しなければならない敵がいる事になるが、それは今考えても仕方のないことだろう。あれだけの事をしてきた以上、槐をどうにかしなくては、戦う力を持たない一族の者達が常に危険に晒されることになる。対処すべきはまずそこだ。
それを桔梗に伝えた所、彼女は一も二も無く協力を願い出てくれた。今の狛が比較的安全に暮らせる場所と言えば、神子家の自宅しかないと言うのだ。
確かに、神子家は神子神社を併設している関係で強い結界が張られており、生半可な妖怪は許可なく立ち入る事ができない。槐や
「槐叔父さん、今度は絶対に止めなくちゃ…!」
そう呟く狛の頬を、アスラがペロリと一舐めした。狛が一人前として認められた以上、これからはアスラも一緒に戦ってくれるのだ。狛にとって、こんなに心強いことはない。思い描いていた未来とは違ってしまったが、それは心待ちにしていた瞬間でもある。
「ハル爺……ごめんね、私にもっと力があったら…」
久し振りに一人になったせいか、狛の中には考えないようにしていた色々な気持が溢れてきた。そして思わずアスラを抱き締めて、死なせてしまったハル爺の名を呼んだ。本当ならば、皆一緒だったはずなのに、そう思うと狛の眼に悔しさで涙が溢れてくる。しかし、これからは泣いてなどいられない。残った皆の為にも、槐を必ず止めなければと狛は改めてそう心に誓う。
ちょうどその時、コンコンと狛の部屋をノックする音がした。狛は軽く涙を拭ってアスラから離れ、努めて明るく返事をする。
「っ…はーい!」
「……あー、俺だ。狛、ちょっと来てくれ、桔梗が呼んでる」
狛が部屋のドアを開けると、廊下に猫の姿の猫田が座っていた。元々、猫田は猫気質のせいか、新しい場所に来ると少し落ち着かないタイプだが、神子家はそれに輪をかけて清浄な神域としての格を持っている。妖怪である猫田は、慣れるまでは人の姿でいるよりも、猫の姿でいる方が楽らしい。
少し言いにくそうにしているのは、きっと狛が泣いていた事に気付いたからだろう。猫田には今の間が、精一杯の気づかいらしかった。
「…桔梗さんが?うん、解った。一緒に行こ。おいで、アスラ」
狛は猫田を抱き上げて、後をついてくるアスラに視線を送ってから居間に向かった。自分にはまだ、アスラや猫田、それに他の家族がたくさんいるのだ。めげている場合ではない。
(見ててね、ハル爺!)
その決意を胸に秘めた狛の瞳からは、もう涙は消え去っていた。