狛達が桔梗の家に居候を始めてから、一週間ほどが経ったある日の夜である。
当初、すぐにでも狛の存在を確認した槐達の襲撃があると思われたが、今のところそんな気配は一切無かった。ハル爺を殺害し、一族全てに強い敵意と殺意を持って抹殺を目論んでいた、あの槐の姿からは想像もつかないことだ。それだけ桔梗を巻き込む事に抵抗があるのだろうか。
「ふぅむ。じゃが、それならば、学園や行き帰りの合間などを狙えば済む話じゃ。それすらもないとなると……」
電話の向こうで、
少しの時間を置いて、黙っていた
「本当に生き残ったのが狛だけなのか、泳がせておるつもりなのかもしれんな。もしくは」
「もしくは?」
「他に優先すべき事があるのかもしれん。狛を放っておいてでもやらねばならん何かが……」
「優先すべきこと…」
「どちらにせよ、奴らが尻尾を見せぬ限り、こちらから打てる手は少ないじゃろう。お前は警戒しつつ、平静を装って暮らすのじゃ。良いな?」
「うん、解ってる。皆も気を付けて、無事でいてね」
そうして狛が通話を終えると、隣でコーヒーを片手に黙って聞いていた桔梗が、狛の前にカップを差し出した。その膝の上には猫田が収められていて、しっかりと抱き抱えられている。猫田自身は少々不満そうだが、力づくで離れるわけにもいかず、渋々抱えられたままだ。
「
「うん、あっちは皆無事だって。人狼の里の人達がとっても良くしてくれてるって言ってたよ」
「あそこじゃ、狛はすっかり姫か女神って扱いだったからな。狛の機嫌を損ねるようなこたぁしねーだろうよ。……おい、桔梗。そろそろ放してくれねーか?」
猫田はうにゃうにゃと藻掻いて抜け出ようとしているが、巧みに体を抑えられて桔梗の手の中から抜け出す事が出来ないようだ。地味だが恐ろしい手捌きである。桔梗はそんな猫田の動きすら可愛いようで、ふふふと微笑みながら手の中で猫田を味わっていた。
そんな猫田の動きを見ていて、羨ましくなったのか、アスラがソファーに座った狛の膝の上に頭を乗せた。どうやら撫でて欲しいらしい。狛は桔梗に礼を言ってコーヒーを飲みながら、アスラの頭を優しく撫でてやった。
そんな穏やかに見える団欒の中、消音されていたテレビでニュースが始まった。桔梗が気付いて消音を取り消すと、ちょうどキャスター達の挨拶が終わった所だった。
トップニュースは、中津洲市内で怪物を見たという人の証言を集めたものや、不可解な事件の話題である。この手のニュースはまだそう数多くないようだが、およそ人間には不可能な事故などがいくつか紹介されていて、研究者や専門家と言った人々が見解を述べているようだ。
『……それはつまり、この場所で瞬間的に竜巻が起こったということでしょうか?』
『えー、俗にいうかまいたち現象というものは、最近の研究の結果では、つむじ風程度では起きない事が確認されていますので、極々規模の小さい竜巻が発生したとみるべきかと…』
『しかし、街中でそんな小さな竜巻が起こるものでしょうか?乗用車が横転するほどの強さですよ?それでいて、建物や街路樹などに影響は無かったといいますし、竜巻というのはどうも』
『えー、私と致しましては、竜巻という気象庁の発表が概ね納得のいくものなのですが……いや、あくまで一般論ですがね…』
ちょうど流れていたのは、街中で巨大な獣が車を弾き飛ばしたと言う事件の話であった。どうやら現場にいた人によって意見が真っ二つに割れており、獣を見たと言う人もいれば、そんなものは見えず、突然車が吹き飛ばされたのだと言う人もいる。
当該車両には、鋭利な刃物のようなものでつけられた傷が残っており、鎌鼬の存在を疑う人もいるようだった。
「鎌鼬か……最近じゃ滅多に人前に出てこなくなったもんだが、これも
猫田はテレビの話を聞いて、そう呟いた。奴ら、というのは白眉達を暴走させた連中のことだろう。猫田からすると、鎌鼬の存在自体は当然のことのようだが、狛は鎌鼬の現物を見た事がないので、本当にこの事件が鎌鼬によるものかもよく解らない。
「鎌鼬って、そんなに大きいの?車を弾き飛ばすって、相当だと思うけど…」
「普通はそんなにデカくねーな。精々猪よりちょっと大きい程度だ。ただ、俺達は妖力や霊力で、ある程度身体の大きさなんか変えられるからなぁ」
それは猫田が戦う時に巨大な猫の姿へ変わるのと同じ事なのだろう。そう言う事なら理解出来る。一方、何故襲われたのが人ではなく車だったのかというのは、よく解らない点だった。普通、鎌鼬は人を襲うが、怪我をさせた相手に薬を塗って、すぐに怪我を治してしまうという妖怪だったはずだ。それをしないほどに凶暴性を増幅させられているのだとしたら、かなり厄介な相手かもしれない。
「私は妖怪に詳しくないんだが、猫田君。君から見て、本当にこの事件は鎌鼬によるものだと思うかい?」
猫田の身体を優しく丹念に揉みながら、桔梗が問う。猫田は何とも言えない顔をしながら、しばらく考え込んでいた。
「現場を見てみないと断定はできねぇが、鎌鼬は三位一体、基本的に三体で行動する妖怪だ。だが、話を聞く限り、こいつは単独のようだし鎌鼬の可能性は低いな。下手人が妖怪なのは間違いなさそうだが、獣を見たの見てねーのってバラけてるのは、単純にそいつらの霊感に差があって、
なるほど、と呟いて桔梗はさらに猫田の身体を揉み解していく。猫田はもう抵抗する事を諦めたのか、ぐにゃぐにゃになってしまっている。狛は珍しい猫田の姿に思わず笑ってしまった。そんな落ち着いた夜は更けていき、狛はベッドの中で夢を見ていた。
寂れた参道に、鬱蒼とした森のような林、そして小さな社…見た事もない場所に狛は立っている。
(ここ、どこだろう?どうしてこんな所に…)
太陽は高いが、日差しはそう強くない。また、感じられる気温は二月とは思えない温かさだ。これが夢だと解ったのは、動けず声も出せない中で、情景だけが変化していったからであった。
小さな社の前に一匹の見慣れない生き物が座っている。細長い胴体に短い脚、口の周りだけが白くて鼻の上から目の周りは真っ黒だ。頭頂部には小さく丸い耳がついていて、何ともかわいらしい。ニホンイタチである。
そんなイタチの傍に、いつの間にか小さな少年が並んで座っていた。身を寄せ合って空を眺め、少年は笑っているようだ。
しかし、徐々に時間が過ぎて行くと、やがてイタチはいなくなり、少年だけがそこに座っているようになった。
――おうい、おうい。どこへ行ってしまったんだい?お前がいないと、私は独りになってしまう。寂しいよ、どうか戻って来ておくれ。おうい、おうい…
その少年は、空へ呼びかけながら、涙を流しているように見えた。
「はっ!?」
狛が目を覚ますと、そこにはいつもの桔梗に借りている部屋の天井があった。気付けば、狛の瞳からは涙が溢れていて頬が濡れてしまっている。強烈な寂しさが胸を締め付けるようで、狛はしばらく起き上がる事が出来なかった。
「今のは…夢?でも、誰の夢なの?」
今まで、何度もイツの記憶が狛とリンクして、夢に出て来る事はあった。或いは、
誰かが助けを呼んでいる事は明らかなのに、それをうまく受け取る事が出来なくて、狛は心を痛めつつ涙を拭うのだった。