狛はベッドから起き出して、キッチンへ向かった。
昨晩の内にセットしておいた一升炊きの炊飯器達が5つ、ちょうど狛を出迎えるように次々と炊き上がりを知らせるアラームを鳴らしていた。狛は慣れた手つきで、予め下準備をしておいたおかず達を手早く作っていく。あっという間に6人掛けテーブルの上には、所狭しと料理が並んでいった。
「おはよう…狛、今日も凄い量だね」
少し後に入ってきた桔梗は、まだその光景に慣れないようで大量の料理達に圧倒されているようだ。最も、一番驚いたのは、その大量の料理を狛が見事に食べ尽くす事である。
桔梗は女性にしては身長が高く、狛とほとんど変わらないくらいだ。見た目と似つかわしくない年齢を考慮すると、大柄と言っていいだろう。そんな彼女からしても、狛の食事量は想像の遥か上をいくもののようであった。若干困惑気味な表情をしつつ、狛にぎこちない笑みを浮かべていた。
「あ、桔梗さん。おはよう、そうかな?私的にはもうちょっと欲しいけど」
「そ、そうなのか……」
そんな桔梗のわずかな呆れ顔に、狛は気づいていないのか、笑顔で食事を促すのであった。
「そういえば桔梗さん、この辺りに小さな神社ってあるかな?」
あの後、ほとんど間をおかずに猫田も起きてきて3人で食事となった。アスラは大人しく狛の足下に寝そべって、自分の食事を待っている。そんな朝の団欒の中、狛は何気なく桔梗に聞いてみた。今朝みた夢の場所が気になったのだ。
「小さな神社?市内に?」
「うん、森の中でこじんまりしたお社なんだけど…」
「さて、どうだったかな。一応、うちは市内の神社や仏閣は大体把握しているが……森の中というと、ちょっと覚えがないな。そこがどうかしたのかい?」
「実は……」
狛は今朝の夢を2人に話した。初めはピンと来ていないようだったが、話の中にイタチが出てきた時、少しだけ2人の表情が変わった。昨夜の鎌鼬のニュースを思い出したのだろう、桔梗は記憶を辿りながら立ち上がって、どこかへ歩いて行ってしまった。
そうして、やや時間を置いて戻ってきた時には、写真をしまった大きなアルバムを抱えている。
「桔梗さん、それは?」
「市内の古い写真をまとめたものなんだが、狛が言っていた神社に似たものを見たことがある気がしてね。ええと、どれだったかな……ああ、これだ。狛、君が見たのはこれじゃないか?」
そう言って桔梗が指し示したのは、一枚の古ぼけた写真であった。モノクロで、写っている小さな社には狛が夢で見たのと同じ形の紋が描かれている。
「あ、これだ!」
狛は思わず声をあげ、その写真を食い入るように見つめている。社の上部に描かれた紋は、夢の中の少年が纏っていた着物の紋と同じである。奇妙な一致に興奮を覚えていると、桔梗は神妙な顔つきになって、その写真に視線を落とした。
「この社は、今から300年ほど前にうちから分祀されたものなんだ。その頃、事故で亡くなった子どもがいてね。私の随分前の祖先なんだが、その子を一緒に祀ることで、地域の子ども達の守り神になってもらおうということだったらしい」
「そうだったんだ。で、このお社はどこにあるの?」
「実はこの社は60年程前、ちょうど私の父の時代に取り潰してしまったんだよ。ちょうどその頃は、中津洲市全体で開発が進んでいた時代だったらしくてね。だから、今は本院であるうちに戻ってきていて、一緒に合祀されているはずだ。それと……」
言い淀む桔梗の顔を、狛と猫田は怪訝な顔で覗き込んでいる。少し躊躇いがちに桔梗が口にしたのは、信じ難いものだった。
「昨日のニュースを覚えているかい?あの鎌鼬が出たかもしれないという話だ。…あの現場となった場所が、ちょうどこの社があった場所なんだよ」
――小さな一匹の獣が懸命に吠えている。
獣は、鎌鼬と呼ばれる妖怪の一種で、本来は家族一緒に行動する存在だった。彼らは自分達の縄張りを守る為に、人を傷つける。傷つけると言っても、転ばせて、鎌で少しの傷をつけた後は、特製の薬を塗って立ちどころに治してしまうのが習わしだ。あくまで傷をつけるのは警告であり、大怪我をさせた事は一度もなかった。
転ばし役の母、鎌で傷つける役の父、そして、薬を塗って治す子どもの三匹で平和に暮らしていたのだ。…あの日までは。
ある時、いつものように縄張りの森に侵入してきた人間を攻撃しようとすると、突如としてその人間が牙を剝いた。後から知ったが、それは俗に退魔士という職業の人間であったらしい。その人間は近隣に住む人間達に頼まれて、豊かな恵みをもたらす森へ人が立ち入れるよう、自分達を追い払う為にやってきたのだ。
そうとは知らず、両親はいつもの調子でその退魔士に襲い掛かった。そして、見事に返り討ちにあってしまったのである。不幸な事があるとすれば、その退魔士がかなり強力な術師であった事と、両親がそう言った人間の存在を知らず無警戒に襲い掛かったこと、何よりも彼らは妖怪の中では力の弱い者達だったことだろう。
ただ追い払う程度で済ませるつもりだった退魔士は、期せずして鎌鼬の両親を退治してしまった事に胸を痛めて、塚を作って弔ってくれた。運良く難を逃れた子どもはそれを森の中からじっと見つめていた。退魔士を恨む気持ちがないわけではなかったが、妖怪の世界は力が全てだ。呆気なく退治されてしまった両親にも非はある。そもそも、治ってしまうとはいえ、今まで自分達は人間を攻撃してきたのだから、やり返されても文句は言えないだろう。鎌鼬の子どもは、どこか達観した様子で森に潜み、静かに暮らすことにした。
それからしばらくの時が過ぎた。鎌鼬の子は成長し、鋭い鎌を持った立派な鎌鼬に成長していた。しかし、この森には番う相手がいない。というのも、いつからかこの森の中に、小さな社が建てられたからだ。その社はこの辺り一帯を治める神社から分けられた御霊と、事故で非業の死を遂げた子どもの魂が祭神として祀られているらしい。
その力は中々に強力で、元々この地で暮らしていた鎌鼬の他には、ほとんどの妖怪が居つく事が出来ずに森を去って行ってしまった。その為、鎌鼬はずっと一人で、森の中を彷徨って暮らしていたのである。
「俺もそろそろ、この森を離れる頃合いなんだろうか」
いつか退魔士が作ってくれた両親の塚を前にして、鎌鼬は一人呟いていた。この森の居心地は良いが、ここにいては未来がない。ここはどこまでも清浄で、妖怪の自分には寂しい場所だ。どこか遠い別の場所にいけば、番う相手もいるだろう。そうして子をなして、家族を取り戻したい…そんな気持ちもあった。
しかし、彼は妖怪にしては家族を想う心が強かった…いや、強すぎたと言ってもいい。両親の眠る塚を置いて、この地を去る事がどうしてもできなかったのである。
そのまま、いくつかの季節が廻った頃、いつものように塚の横で眠っていると、ふとどこかから視線を感じるようになった。
(人間が入ってきたか?)
初めはそう思った。両親を亡くしてから、彼は人間に手出しすることを止めていた。たった独りでは鎌鼬の三連行動をするのは難しかったし、何よりも縄張りを主張した所で意味がないのだ。何故ならこの森には、他の妖怪がいないからである。かの退魔士は、一人残された鎌鼬の子を不憫に思ったのだろう。この地に弱い結界を張っていたようだった。それは鎌鼬が大人になるまでの短い間、この森に他の妖怪を近づかせないようにする為のものだったのだが、その結界が消える頃にはあの社が出来てしまい、そこから更に他の妖怪が近づくことが出来なくなってしまったのである。
それは誰も想像しえなかった誤算であった。
結局、森には恵みを採りに人間達が通うようになっていて、鎌鼬はそれを見ているだけだった。ただ、両親の塚だけは守ろうと、人知れず人間を威嚇したりはしていたようだ。
いつものように人間を追い払おうとしたその時に鎌鼬が見たのは、年端もいかぬ少年の魂であった。
こうして、孤独な魂と一匹の妖怪は出会ったのである。