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第172話 慟哭する獣

「人間の子ども…?いや、ただの子どもじゃないな、何者だ?」


 鎌鼬は、少年を睨みつけ、精一杯の殺気を放った。森そのものは人間と共有出来ても、この塚だけは絶対に人に触れて欲しくはない。強いて許せるとしたら、それはあの退魔士という男だけだが、それももうかなり昔の話だ。妖怪と比べて、人の寿命は遥かに短い。あの退魔士とて、所詮は人間、生きてはいないだろう。そういう意味ではもう、この塚に近づいていい人間など存在しない。鎌鼬はそう思っていた。


 すると、少年はきょとんとした顔をして、やがて言葉の意味を反芻するように呟き、力無く笑った。


「子ども…?そうか、私は子どもなのか、未成熟なのだな。道理でこんなにも心細く、力がないわけだ」


「なに…?」


 思ってもみなかった反応に、今度は鎌鼬が呆気に取られた。同時に、悲し気に笑う少年の笑顔を見ると、何故か子どもの頃の自分と重なって見えた気がした。そして、彼らはそれから、森の中で顔を合わせると少しずつ話をするようになっていった。



「私は神の分霊だが、同時に祀られた子どものかたちを与えられて、このような姿になってしまった。子ども達を見守る守り神になって欲しいという人の願いは解るが…こうまで未成熟な姿では、ろくに力など扱えないのだ。これでは意味がない」


 ある日、いつものように顔を合わせた鎌鼬と少年が話をしていると、少年がそんな事を呟いた。少年が只者ではない事は解っていたが、神だったとは思わなかった。それほどに、少年からは力が感じられなかったからだ。それもある意味では当然だろう。神の力というものは、基本的に人の信仰心を源とし、捧げられた祈りと重ねた時間がその力を支えるものだ。本体から分けられ、新たな神格を与えられた所まではいいとしても、あの社は建立されてから数年も経過していない。しかも、神はその似姿に存在が引っ張られてしまうらしい、少年の身体を与えられた事で神格の育ちが遅いのだ。参り詣でる人こそそこそこいるが、その力を満足に発揮するには十分とは言えないものであった。


「そんなに焦る必要はないのではないか?時間をかければ、その内に力もついてくるだろう。俺も力のある妖怪ではないが、それなりに楽しくやっている。お前のお陰で、敵対するような妖怪もここには入って来ないからな」


 鎌鼬は本心から、それを慰めのつもりで伝えたのだが、少年にはそれが真っ直ぐ届かなかった。


「それではダメなんだ…私は神だ、与えられ任された役割を果たせなければ、直に人は私を忘れてしまうだろう。私には神としての信念も矜持もある、何より、何も出来ぬではこの姿の元となった子どもが浮かばれぬ」


 少年の姿をしていても、彼は立派な神であった。それ故の苦悩を、鎌鼬にはまだ理解が出来なかったのである。



 それから、十数年の歳月が流れた。時代は江戸時代中期頃であり、かの有名な将軍、徳川吉宗の治世だ。この頃、享保の大飢饉と呼ばれる冷夏と雑多な害虫による蝗害が発生し、民はその生活に大きな打撃を被った。それはここ、中津洲の地でも同様である。

 人々は日々を生きる事のみに心血を注ぎ、疲れ果てていた。大人達はその日の飢えを凌ぐことで精一杯であり、多くの人々が困窮に喘ぐ世の中…時に子を間引くことさえ、当たり前であった。そんな時代に、健やかな子の成長を見守る神を必要とする者は少なかった。


 そんな時、鎌鼬が社の様子を見に行くと、少年の姿をした神が、ぽつんと参道の真ん中に座って空を眺めている所だった。


「どうした?そんな所で何をしている?社の中にいなくていいのか」


「お前か……いや、見送っていたのだ、魂を。社の中からでは、よく視えぬからな」


「誰ぞ死んだのか。昨今は人の世もかなり不安定なようだからな、森から見ているだけでも、精気のない弱々しい人間ばかりだ。あれでは、獰猛な妖怪でも現れれば軒並み食い散らかされてしまうぞ」


「確かにな、まぁ、この地には私の元になった氏神がいる。そう簡単に妖怪が襲ってくることもあるまいが……私にもっと力があれば、救ってやれる者もいただろうに」


 そう呟く少年の横顔は見た事もないほど寂寥感に溢れていた。彼にとって、そんなに大事な人が喪われてしまったのだろうか。


「そんなに大事な人間だったのか?そいつは」


「そうだな、私にとってはとても大切な人だったよ。誰も彼も、生きるのも大変なちまただというのに、彼女はせっせと毎日、私に祈りを捧げてくれていた。かつて、死にかけていた孫が助かったのは自分のお陰だと言ってな。あの頃の私には、そんな力など無かったというのに…」


 少年の語る老婆の事は、鎌鼬にも覚えがあった。何度か社の影で、老婆が祈りを捧げているのを見ていた事がある。彼女は雨の日も風の日も、欠かさず社へ詣でて、供え物と祈りを捧げていた。皆が困窮に喘ぐようになってからは供え物自体は減ったが、ただ一人でも祈りは決して止めなかったはずだ。

 その老婆が死んだということは、少年の力を支える信仰が大きく失われた事を意味する。少年の神としての力は、風前の灯火と言っても差し支えない状況に追い込まれていた。


「大丈夫なのか?お前は」


「そう簡単に存在が消えるような事はないよ。…ただ」


「ただ?」


「寂しいな、私の事を気にかけてくれる人間がいなくなるというのは。私には後悔ばかりだ。こんな時代で、救わねばならぬ子らを助けられず、ただ見送るばかり…あの老婆にしても、もっと他にしてやれることがあったのではないかと思わずにはいられぬ。私はどうして、こんなに無力な神なのか…」


 そう言って、再び空を見上げる少年の横に、鎌鼬は寄り添うように座って同じように空を見上げた。人の魂の先は見えなかったが、この時初めて、鎌鼬は彼の力になりたいと、そう思うようになっていった。


 それからは、さらに不遇の時代である。享保の改革などを経て、江戸幕府の財政は立て直されたが、以後の田沼意次の時代などでは、重い税の取り立てにより民百姓は再び苦心することとなった。それでも、戦国時代などよりは遥かに平和である。潤う者は本当に潤っていたし、概ね順調な時代ではあっただろう。だが、一度廃れてしまった神は、そう簡単に威光を取り戻す事は出来ない。少年の姿をした神は、百年も経たぬうちにすっかり人々から忘れ去られてしまっていた。


 荒れ果てた境内と参道、そして社はすっかり森に飲み込まれようとしている。元より規模の大きいものでなかった事もあり、事態は深刻だ。鎌鼬の手は鎌なので、草を刈る事は出来るが、刈った草を処理する事が出来ない。以前に一度、見かねて草を刈った時には、刈り取った草が風で飛んで、社が酷い事になってしまった。こう言う事は、やはり人間の手を借りねばならないだろう。しかし、肝心の人が来ないのである。


 そんな中、鎌鼬はある一つの決断をする。神の力を自らで高められないのであれば、それを補佐しその威光を喧伝する者がいればよい。即ち、神使だ。上等な妖怪ではない鎌鼬は人に変化するだけの力もない。それはこの森が、曲がりなりにも神域であったからなのだが、彼はそれに気付いたのはずいぶん後になってからであった。


 この頃、力を失って久しい少年の神は、毎日を眠って過ごすようになっていた。もはや、起きて人を見守るだけの力もほとんどないのである。鎌鼬はそれを不憫に思い、黙ってこの地を去る事にした。いずれ立派な神使となって、彼を支える存在になろうと、全国の霊場や神々を訪ねる旅に出たのである。


(俺はあいつの力になりたかった。神と妖怪という大きな隔たりはあれど、互いに認め合う友人として…どれだけ月日が流れても、例え全ての人間があいつを忘れようとも、俺だけはあいつを忘れないように…!)


 それから更に、百数十年……とある霊場で出会った神の助言により、神界で修業をすれば神使に成れると聞いた鎌鼬は、それだけの時間を修行に費やし、そして見事に力を得てこの地に帰ってきた。だが…そこに少年の姿はどこにもない。


 あの小さな社も、豊かな森も、鎌鼬の両親の塚さえも綺麗さっぱりなくなって、今は人が作った巨大な石造りのような建物が所せましと立ち並んでいる。


「なんだ?なんなんだ、これは!?人は神を忘れただけではなく、森も、神の住む社さえも消し去ってしまったのか?!こんな、こんな事が許されるのか?…いや、俺のせいだ…俺があいつの傍にいてやれば……もっと早く、戻ってきていれば…!」


 鎌鼬は慟哭し、初めて涙を流した。両親が死んだ時ですら泣かなかった妖怪の彼が、後悔と友人を失った喪失感に塗れて泣いたのだ。


 ……そんな鎌鼬の元に、近づく一つの影があった。影はその手に、黒光りする玉のようなものを持ち、鎌鼬に復讐を使嗾しそうするのだった。

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