「きゃあああっ!?」
「おい、大丈夫かっ?大変だ、巻き込まれた人がいるぞ!」
ざわざわと、周囲の人々のざわめきが大きくなる。母子を狙っていたかのような鉄柱は、無惨な形で切り払われており、その残骸が別の人達を傷つけていた。こう人の目が多くなっては、京介も迂闊な事は出来ない。うっかり大勢の人の前で
それは警察や救急隊が到着して現場が彼らに引き継がれるまで続き、一段落した所で、気付けばさっきの母子は忽然と姿を消していた。
「京介さん、頬っぺたから血が……!」
「ん、ああ…かすり傷だよ、大丈夫。それより、あの少年と母親がどこに行ったか、見ていたかい?」
京介がそう尋ねると、狛はキョロキョロと辺りを見回している。その顔には驚きとわずかな恐怖が宿っていた。
「あ、あれ?つい今までそこにいたのに……」
(狛ちゃんも気付かなかったのか…何故だ?あの母子、何かがおかしいな……)
喧騒から離れるように狛と京介はその場を後にしたが、どうにもそのまま解散する気にはなれず、近くの喫茶店へ入る事にしたようだ。席に案内されると、京介はまず傷口を洗いに向かった。
手洗い場で手を洗い、そのまま顔も洗うと、既に京介の顔から傷は綺麗さっぱり消え去っていた。本人はかすり傷と言っていたが、実際にはそれなりに深い傷で、出血も酷かった。それがあっという間に跡形も無く消えているのは、傷を洗いながら、
そして、ハンカチで顔を拭わず、そのまま水がポタポタと滴る顔を鏡に映しながら、京介は考えていた。
(あの母子…いや、死神が憑いた少年を狙ったかのように、何の前触れもなく鉄柱が折れた。あれは死神によるものなのか?いや、だとしたらその後、鉄柱が何者かに斬られて少年が無事だったのはおかしい。他にあんな芸当が出来るような怪異や術者の存在は近くには無かったはずだ…つまり、あれは死神が斬ったことになる。だが、それこそあり得ない話だ。仮に何者かが神の定めた寿命をひっくり返そうとしても、それは相当な事が無ければ不可能だ。一度難を逃れても、そう間を置かず次の死…運命が襲ってくるはず……)
もしも死の運命の中にある者が、死に直面した時、それを偶然にも回避したらどうなるか?多くの場合、
少しそのまま考え込んだ後、京介はハンカチで顔を拭き、席に戻った。既に頼んでおいたコーヒーはテーブルに載っており、狛は浮かない顔で少しずつ口をつけていた。
「ごめん、待たせちゃったね。それにしても、大きな怪我人が居なくてよかったよ」
「あ、おかえりなさい。京介さんの傷は……大丈夫そうですね、安心しました。けど、あれはやっぱり死神があの子の命を狙っているってこと、なんですか?」
「今の時点ではなんとも言えないかな。死神の性質から言えばそのはずだけど、あの倒れてきた鉄柱が斬られた事が気になってね。…そうだ、狛ちゃんが見ていて、あの場で他に力のある存在がいたと思うかい?」
事故の瞬間を思い出しているのだろう、京介の質問を聞いて、狛は少し唸りながら考え込んでいる。もしも、死神に対抗する存在がいたとするなら、それはあの母子のどちらかに宿る守護霊くらいのものだろう。京介には感じ取れなかったが、強い守護霊がついているとしたら、死神に対抗する可能性はゼロではない。その可能性は、限りなく低いのだが。
「ううん…たぶん、いなかった、と思います。というか、死神の力が強すぎて、守護霊はいなくなってしまったか、抑えつけられてるんじゃないかなって」
「やっぱりそうか。…ありがとう」
京介は解りきっていたように狛の言葉を受け入れた。実際、その答えを確認したかっただけなのだろう。何故なら、京介も狛と全く同じ見解だったからだ。そもそも、死神とは天使のように神に仕える存在だが、与えられた役割と権能は天使のそれを上回っている。彼らは神と名が付いているように、神から強力な力を与えられた存在なのだ。通常、そこらの守護霊などには太刀打ちできる相手ではない。それでも念の為、確認しておきたかったのである。
「そうなると、やっぱり死神自身が…いや、やはりそれは現実的じゃないな」
人の魂を刈り取り、死に至らしめるはずの死神が人の命を救うなど、今までに聞いた事がない。それは神への反逆に等しい行為だ、天使以上の役割を持つ彼らが反逆するなどあり得ない話である。守護霊が死神に対抗するのも、死神が神に反逆するのも、どちらも常識で考えればあり得ない。つまり、どちらかが間違っているか、両方とも間違っているかだろう。で、あるならば。
「俺や狛ちゃんでも気付けないほどの何かが、あの親子を守っている…ってことになるかな。正直、それも信じられない話だけどね」
「そう、ですか…でも、確かにそうなりますよね」
狛も京介と同じく、あの母子を自分達では感知できない護りがあるのだと考えているようだが、狛は京介と違い死神についての知識がない分、先入観もないので死神があの少年を守る事があり得ないとまでは思っていないようだ。ただ、自分よりも死神に詳しい京介が言っているのだから間違いないのだろうという程度の認識である。
京介自身、自分の言葉に若干腑に落ちない点はある。しかし、今までの常識を覆すには決め手が足りない、そんな所だろう。
二人の間に沈黙が訪れ、しばし、重い空気が流れた。お互いに考えていることは、これ以上の犠牲が出ないようにする事と、あの少年の事だ。最初に出会った時京介が言ったように、彼が死神に狙われているのだとすれば、助けに入るような真似はするべきではない。死神と敵対するのは相当なリスクがあるし、何よりもし仮に死神を撃退したとして、果たして彼の寿命がどうなるかは誰にも解らない。
死神はあくまで、寿命を迎える魂を刈り取り、神の御許へ送る役割だ。死神を追い払っても彼の寿命が残されていないなら、同じ事になるし、かえって神の許へ行けるチャンスをフイにしてしまう可能性すらある。それは果たして正しい事なのかも謎である。
様々な事を考えて、やがて京介は静かに店の外へ視線を向けた。そして、その先にいる者達に唇の動きだけで合図をする。どういう形であれ、ここから先は人手がいる。戦力になりそうなものなら近づけておきたい。そういう考えだ。
「驚いた…気付かれていたのか。やはりあの男、只者ではないな」
「あらあら、デートを尾行してたなんて知られたら、狛ちゃんに嫌われちゃうわね」
「……仕方ないよ、謝ろう、素直に。それでもダメなら、猫田ちゃん、頼むよ」
「はぁ!?俺頼みかよ!?お前らが勝手に連れてきた癖に!なんで俺が……」
合図を送られたのは、遠巻きに店内の二人を観察していた猫田達だ。相変わらず神奈は意識を失ったままだが、三人娘は既に覚悟を決めていた。完全に巻き込まれただけの猫田はぐずりながらも、喫茶店の中の狛達の元へ歩いていく。事態が動き出したのは、そのすぐ後の事である。