静まり返った洞窟内に、狛の息を呑む音がやけにうるさく聞こえていた。猫田が打ち明けた怒りは、隠神刑部に対してだけのものではない。大蛇復活を察知しながらも立ち上がろうとしなかった、この国に住む全ての妖怪達に対する憤りだ。狛は当時の事を何も知らないが、大蛇との決戦は全て、僅か三十二名の
その結果が、半数以上の隊士が命を落とすという壮絶な最期であったのだ。
もしも仮に、隠神刑部を始めとする、大蛇には与しなかった名のある妖怪達が一緒に戦っていたならば、猫田の言う通り、結果はまた違ったものになっていたかもしれない。だが、そうならなかったのは事実であり、動かしようのない過去なのだ。
もちろん、猫田はそれを誰よりもよく理解している。自身の怒りが八つ当たりに近いものであることも、本当は解っているつもりだ。だが、どうしても本人を前にすれば、その恨み言の一つも言いたくなってしまう。それだけ、猫田にとって支隊の仲間達は、かけがえのない存在だったのである。
「ちっ…!狛、放せ」
「え?」
「放せって言ってんだ。…少し風に当たってくる。外はあっちだろ?隠神」
「ああ、そうじゃ。歩けばすぐ外に出られるじゃろう」
「ふんっ!」
狛が腕の力を緩めると、猫田はするりとその腕から抜け出て闇の中へ消えていった。後に残されたのは狛と隠神刑部だけ…何とも言えない空気の中で、狛はただ猫田の歩いて行った方向を見ている事しか出来なかった。
「ふむ…取り付く島もない、か。無理もないのう。あやつの言う通りじゃ、
「あ、あの……」
「ん?」
狛はそう話す隠神刑部の横顔に、無視できないほどの物悲しさを感じていた。狛は元々、動物の考えを読む事が出来る特技を持っている。話の出来る妖怪相手に活用した事は無かったが、隠神刑部は妖怪でありながら動物としての狸そのものの部分が残っているようだ。それ故に、彼が何か話していない事があるのだと感じる事が出来たのだった。
「聞いてもいい、ですか?どうして大蛇との戦いに参加しなかったのか…」
「……言うたじゃろ、臆病故じゃ。儂ら狸は元々臆病者でな。よく人間相手にも驚いて固まりよる。それが理由じゃよ」
「……それって、ウソ、ですよね?」
「なに?」
狛は息を呑んでその先を言うのを躊躇った。隠神刑部には、本当は隠したい秘密があるのだと察することが出来たからだ。だが、どうしても聞いておきたい。いや、自分が聞かなければならないことだと感じている。大蛇と命懸けで戦った高祖父、宗吾と、猫田の為にも。
「私、解るんです。動物の考えてる事が。ほとんどの子は、人間みたいにたくさん考えてるわけじゃないけど、でも、色んなキモチがある。隠神刑部さんも、何か本当は言えない事があるんじゃないですか?教えてください、猫田さんに言いにくいことなら、
「……」
その狛の言葉を、隠神刑部は黙って聞いていた。狛の特技を疑っているわけではなく、話すべきかどうかを迷っている、そんな顔だ。しばらくじっと黙って、隠神刑部の答えを待っていると、遂に根負けしたのか、隠神刑部はポツリポツリと語り始めた。
「あの戦いは、儂ら日本妖怪にとっても、存亡の危機じゃった。何せ八岐大蛇は半不死の特性を持った日本最古の大妖怪じゃ。力を制限されていたとはいえ、かつての日本神話の主神の一柱である須佐之男命ですら、あやつを殺しきる事は出来んかったほどの…な。あれが復活すれば、間違いなく儂らは根絶やしにされるか、或いは理不尽な配下にさせられるか二つに一つだったじゃろう」
今度は、隠神刑部の言葉に嘘はない。狛は改めて、宗吾や猫田達の戦った八岐大蛇の力を凄まじさを知った気がした。
「……情けない話なので、猫田には言いたくなかったんじゃがなぁ。儂が恐れた、というのは嘘ではない、事実じゃよ。ただし、八岐大蛇にではなく、儂のかわいい部下達が死ぬことをじゃ」
「え?」
「言ったろう?儂はこの国の狸共の元締めじゃと。儂が戦いに立てば、狸達は共に立つ。力ある者もそうでない者も全てな。…そして大蛇と戦えば、ほとんど全ての狸共は命を落とす事になるじゃろう。儂は妖怪でありながら、人間のように仲間の死を恐れたのじゃ。この国から狸が消える事、それが何よりも恐ろしかった。儂は狸を率いる者として、奴らを守ってやらねばならぬ責務がある。あやつらを道連れにはできない……それが本当の訳じゃ。およそ妖怪の言う事ではない、他の妖怪達が聞けば、儂を鼻で笑うじゃろうな」
「そんな…!?」
人間である狛には、その理由が何故いけない事なのか、理解出来ないようだった。だが、自然と同じ弱肉強食を本来の生き方とする妖怪にとって、その弱さは致命的だ。弱さや隙を見せれば同じ妖怪であろうとも食いものにされてしまう。そんな生き方の中では、表に出せない弱さであった。仲間を思う気持ち…人間ならば当たり前に持っていて、称賛すらされるそれは、妖怪にとっては付け入られる隙でしかない。
だからこそ、それを隠神刑部が隠していたのは、同じ妖怪である猫田にその弱さを見せたくなかったからに違いない。まるで人間のような弱さを、猫田にだけは知られたくなかったのだ。
狛はその想いが理解出来ないながらも、自分の価値観で壊してはいけないものだと悟った。どうしようもなく狛は人間で、隠神刑部は妖怪である。両者の違いは大切で、片一方の感覚で語るべきではないことなのだと狛は思った。
だが、隠神刑部も、狛も気付いていない。猫田は妖怪でありながらも、人ともに生き、人のように生きる猫又なのだ。きっと猫田ならば、隠神刑部の妖怪としての弱さを嗤う事などしないだろう。そして物陰に潜んでいた小さな影は、二人の話を聞いた後、改めて外へと歩き出していった。
それから三十分ほどの時間が経ってから、ふらりと猫田が帰って来た。さっきまでの怒りは収まったのか、険のある表情は消えている。狛はその様子にホッと胸を撫で下ろして、再び猫田を抱き上げた。
「おかえりなさい、猫田さん」
「……おう」
そんな二人のやり取りを、隠神刑部は満足そうに見ている。その視線を感じ取ったのか、猫田はぶっきらぼうに口を開いた。
「それで…隠神、俺達に何の用だ?わざわざ俺達を助けてこんな所まで連れてきたからには、何か訳があるんだろ?話せよ」
「こんな所って…そう言えば、ここってどこだったの?」
「……愛媛だよ、松山だ。昔一度だけ来たことがあるぜ」
「え?!愛媛って…四国の!?え、だって私達関東にいたんだよ!?」
流石の狛も驚きのあまり大声を上げていた。狛の言う通り、ここに来る前までいた人狼の里から愛媛までは、ざっと800km以上の距離がある。それをあの一瞬で移動してきたとなれば、狛が驚くのも無理はないだろう。これが大妖怪、隠神刑部の力の一端である。
そんな中、猫田にその思惑を看破された隠神刑部は神妙な面持ちになって、それを話し始めた。
「うむ。取り繕っても意味がないからの、正直に言おう。お主達を助けたのは、頼みがあったからじゃ。もしも引き受けてくれたなら、お主達に今、最も必要なものをくれてやろう。どうじゃ?聞いてくれるか?」
「くれるかもクソも、こんなとこに連れて来られちゃ聞くしかねーだろうが。…ったく、礼はタダじゃ済まさねぇぞ」
猫田はそう言って、狛の腕の中でふんぞり返っている。素直ではないが、どうやら話を聞くつもりはあるらしい。そうして、隠神刑部は安心して、頼みごとを口にした。狛と猫田はその突飛もない申し出に唖然とすることになる。