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第327話 妖樹の香餌

 狛と猫田が隠神刑部の元を訪れてから、約十八時間後――二人は松山市内の山間部に位置する邸宅の近くにいた。既に陽は落ちて、夏の夜特有の蒸した空気が辺りを包み込んでいる。


「ここが、隠神刑部さんの言ってたお屋敷…」


「まさか香木を盗んだのが、四国全体を纏める暴力団の親玉たぁな。……しかし、広ぇな。ここならサッカーも出来るんじゃねぇのか?」


 猫田はそう言うと、その迫力ある大きな門を見上げた。二人でぐるっと一周回って見たが、確かに広い屋敷であった。周囲にほとんど住宅の姿はなく、山を切り開いたかのように突如大きな家屋が現れる、なんとも奇妙な立地だ。そして庭のスペースまで含めれば、猫田の言う通りサッカーの試合も楽に出来るだろう。さながら映画に出て来る海外のマフィアばりの豪邸であった。


 ここは四国全体を一挙に牛耳る大規模な反社会的組織、和合組の十七代目組長、和合照正わごうてるまさの自宅である。


 反社会組織と言っても、和合組のシノギはほとんどがフロント企業であるナイトクラブの経営と、株や為替取引という俗に言う経済ヤクザである。もちろん裏では暴力団らしく違法な行為に手を染めているのだが、地元の政財界との癒着が酷く、余り問題視されていないのが現状だ。

 ただ、彼らは妖怪相手に盗みをするような特別な力は持ち合わせていないはずである。何故、隠神刑部の香木を狙ったのかは解らないままだ。


「よいしょっ、と。…私、人の家に忍び込むなんて初めてだよ。何か変な感じ」


「そりゃ普通はそうだろ。猫にとっちゃ当たり前のことだから気にならねぇが、お前は真っ当な人間なんだからこんな事に慣れる必要はねぇ。とっとと目的の物を頂いて帰ろうぜ」


 狛の身長を優に超える、3メートルはあろうかという和風の塀を乗り越えて、二人は庭の端に降り立った。ちなみに、猫田が嗅いだマタタビは匂いを操る馨の力で霊的に強化されていたものだったらしい。隠神刑部のお陰で正気にこそ戻りはしたが、まだ人や大型の猫には変化出来そうにない。その為、今の猫田はルルドゥのように狛の頭に乗っている状態だ。ルルドゥが見たら、自分の場所が取られると言って怒るだろうなと狛は思った。


 一般的な家からはあり得ない高さの塀のせいで外からは見えなかったが、こうして中に入ってみると和合の屋敷は日本庭園を有する純和風の邸宅だった。狛の自宅である犬神家の実家より更に広く、立山の檜扇邸以上の大きさだ。


 ちなみに、いくら陽が落ちているとはいえ、大胆に塀を乗り越えても騒ぎになっていないのは、ここへ来る前に隠神刑部から渡された木の葉のお陰である。狸が人を化かす際、頭に乗せる葉っぱはよくイラストになっているが、まさにあれだ。ただし、渡された木の葉に変身能力などはなく、所持していると気配を隠してくれるというアイテムだった。物音や匂い、霊力などまで隠蔽してくれるというから、かなりの性能だ。


「これがあれば、正面から入ってもバレなさそうだよね」


「…つっても、流石に触ったらバレるって言うからなぁ。京介が使ってた根付の人間用ってとこだな」


 そう、対人か対妖怪用かの違いはあれど、その力は京介が槐の地下基地へ侵入する際に用意した根付とほぼ同じものである。人間が作ったものと妖怪が作ったもので、それぞれ対象が真逆になるというのは中々面白いが、既視感のせいで心から凄いと思えないのが難点だ。


「こういうのウチでも作れないかな……ぁ」


 無意識のうちにそう呟いて、狛は自分が追われている状況だと言う事を思い出してしまった。せっかく余計なことを考えないようにしていたというのに、これで心を乱しては台無しである。情けないと感じる自己嫌悪と、拍や親族の睨むような視線を思い出してしまい、つい俯きがちになる。そんな狛の心を察したのか、猫田が尻尾を器用に動かして、狛の背中をくすぐった。


「ひゃあっ!?…も、もう!猫田さん何するの!?止めてよっ!」


「そうやって怒ってる方がいくらかマシだ。あんまり思い詰め過ぎるなよ、……一応、希望はあるんだからよ」


「あ……うん、ごめんなさい。ありがと」


 落ち込んで沈みかけた心が、猫田のお陰で少しだけ上向きになっている。本当に、狛は猫田に救われっぱなしだ。出会ってからまだ一年足らずだが、狛にとって猫田は頼れる相棒であり、信頼できる兄のような相手だった。あの時、響に伝えた言葉はやはり間違いではない。それを間違いというのなら、それは響達が間違っているのだ。狛はどうしようもなく犬神家の一員であり、家と家族の事を大事に考えている…だからこそ、拍の言った猫田を殺せという命令には納得できない。狛は心を強く持って、今度こそ負けないようにと気を引き締めている。


「そう言えば」


「ん?」


「猫田さん、初めて会った頃は私がありがとうって言ったら照れてたのに、最近は平気だね」


「へっ…この一年、ずっとお前と一緒にいたからな。慣れちまったよ」


 そう言って、猫田は狛の頭の上で尻尾を揺らしている。狛からは見えないが、猫の姿なのに何ともむず痒そうな顔をしているのは、改めて指摘されると恥ずかしいと言う事だろう。狛はその尻尾の動きだけで猫田の表情が読めるようで、そんな時ではないと思いながらもクスっと笑い、また少し心が軽くなったのを感じるのだった。



 そして、縁側から開け放たれていた窓を見つけた狛達は、そっと屋敷の中に侵入する。建物の中には、どことなく甘い臭いが漂っていて、日本家屋には似つかわしくない雰囲気だ。猫田がピンと耳を立てて人の気配を探ると、屋敷の広さに見合った数の人の気配を感じ取る事が出来た。呼吸の音からすると数十人は家の中にいるだろう。


「結構な数の人間がいるな。……しかし、何か妙だぞ?」


「妙って?」


「いや……まだ解らねぇ。とりあえず進もう、あっちに強い妖気を感じるぜ」


 猫田が尻尾で指し示す方向を見ると、どうも屋敷の中心部のようだった。ヤクザの組長の屋敷で妖気を感じるということは、間違いなく探している樹木子じゅぼっこの香木だろう。狛は勢い込んで、感じられる妖気の方向へと向かっていった。

 しかし、いくら気配を隠せると言っても、物理的にドアや襖を開ければそれを見た人間には気付かれてしまう。あくまで狛と猫田の気配を隠してくれるだけで、周囲に幻覚を見せる類いのものではないのだから当然である。狛は慎重に進みつつ、人の気配のある場所を避けたり、扉を挟んだ場所では特に注意をしてゆっくりと進んでいく。その為、普通ならば数分で辿り着けるであろう距離を何倍もの時間をかけて進む羽目になってしまった。


 目的の部屋に近づくほど、甘い臭いは強くなってくる。それでなくても鼻の利く狛には、少し辛く感じるほどだ。猫田は平気なのかな?と疑問に思いつつも、狛は黙って進み、遂に妖気を感じるその部屋の前までやってきた。


「ここだよね。それにしても、凄い臭い…猫田さんは大丈夫?」


「…ん?ああ、まぁ何とかな。しかし、やはりこいつは……」


 狛の頭の上で、猫田は喉を震わせて何かを呟いている。何が気になっているのかは不明だが、敢えて言わないという事は気にしなくてもいいということだろう。狛はそう判断して、その部屋の襖に手をかけた。


「……部屋の中には、誰もいなさそう。開けるね」


 ゆっくりと襖を開くと、そこは少し広めの和室であった。大きくて立派な木の机が部屋の中央にあり、その上には鈍器として使えそうなくらい豪華な、ガラスの灰皿が置かれている。他には特に家具もない、シンプルな和室だ。そして、狛が床の間に視線を向けると、そこにはとても大事そうに鎮座している木片のようなものがあった。


「あれが…香木?」


 それは黒く、思っていたよりも大きな木片だった。隠神刑部は樹木子じゅぼっこの身体から削り出したと言っていたので、もっと小さな破片なのかと思っていたのだが、意外にも子どもの頭ほどもある大きさだ。持ち帰るのも大変そうだが、何よりも凄いのは、先程から感じていた臭いである。その甘い臭いは明らかに香木から放たれていて、室内は充満した臭いで圧倒されるほどであった。


「す、凄い臭い…っ!?うう、鼻が曲がりそう!」


「ちっ…!思ったよりずっと代物じゃねぇか!あのクソ狸、たたじゃおかねぇぞ…!」


 狛と猫田は、その匂いの渦に顔をしかめている。あたかも花が虫を誘って放つような甘い臭いは、人を襲う習性を持った樹木子じゅぼっこの力そのものだ。生前の樹木子じゅぼっこは、この匂いを使って餌となる人間を誘き寄せていたのだろう。恐るべき魔性の香りは、香木となった今でもその特性を保ったままなのだ。

 二人は暴力的な香りを前にして、たじろぎながらもそれに立ち向かうのだった。

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