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第328話 月下の夜戦

「星が、流れていく……」


 暗い森の中に、ひっそりと佇む小さな社。それは、今や参る者も少なくなった、古ぼけた神社である。ここに祀られているのは狼の神、大口真神だ。彼の神は他に何か所か、主神として立派に祀られている神社があるので、ここにはほとんど姿を見せる事はない。分霊の依り代として、その地域の人々を見守る為に祀られた場所である。

 そこに立っているのは、あの黒い狼の人狼、朧だ。彼は大口真神の神使として、時折この場所の管理と保護を仰せつかっている。先日、槐の地下基地へ向かった時狛を守る為に魔王である神野と戦い、重傷を負った朧は、あの後からずっとここで独り身体を休めていた。


 彼が夜空に流星を見つけられたのは、予感がしたからである。


 古来より、星の動きは物事の吉凶を占う重要な観測対象であった。所謂、星読みだ。もちろん、星の動き…即ち暦を見るのは占いだけではなく、きちんとした理論や学術によるものではあるのだが、神の力において流星は人の生死を占う意味合いを持ち非常に重要なものとされてきた。


「狛は、無事だろうか…?」


 朧はそう呟いて、胸を痛めていた。相手が魔王だったとはいえ、曲がりなりにも自分は大口真神の神使として、力を授けられた身である。それが時間稼ぎ程度の働きしか出来ず、しかも今はこうして怪我が治るまで、謹慎同然でここへ追いやられているのだ。大口真神の決定に不満を漏らす事は無いが、自身の不甲斐無さには猛烈な憤りを覚えていた。

 朧が狛の事を考えて流星を見たと言う事は、狛の周りの誰かが命を落とす可能性があるということだ。それは、朧自身かもしれないし、狛本人であるかもしれない。厄介なのは誰なのかが解らず、時期もそう遠くない先の未来と言う事しか解らないことだった。


「早く傷を癒して、狛を助けに行かねば……!」


 大口真神に任されたのは、狛を守り助ける事。それが己の使命であり、生きている意味だと朧は考える。彼は静かに社の中に戻ると、蓄えておいた水を飲み、干し肉に齧りついて再び眠りに就いた。狛の無事を一心に祈りながら。




 その頃、狛は床の間に飾られた樹木子じゅぼっこの香木の前に立っていた。室内は、香木の香りで一杯になっていて、まるで香りそのものが意志を持っているかのように空気の流れを作っている。特に嗅覚に優れた狛には、それは嗅覚そのものを殴られているような、痛みすら伴う香りの暴力であった。


「うぅ…!これ、どうやって持って帰ろう?」


「抱えて持ち運ぶしかねーが、こんなもの持って歩いてたらこっちの頭がおかしくなりそうだぜ。いっそゴミ袋にでも詰めちまうか?」


 果たして、この妖気を纏った香りが、ゴミ袋程度で抑えられるのかは不明だが、それをしたくなるほどの臭いであるのは間違いなかった。しかし、こんな事になるとは思ってもみなかった狛達にはゴミ袋の用意すらない。だが、この激しい臭いの中で悠長に考えている時間がないのも事実だ。何か使えそうなものはないかと室内を見回した、その時だった。


「っ!?」


「なんじゃ?貴様らは」


 ズバン!と大きな音を立てて、狛達が入って来た襖が開いた。臭いに気を取られて人が来ることに気付けなかった狛達は、驚いてそちらを向く。そこに立っていたのは、異様なほど白い肌をした、男性の老人であった。


「しまった…!いつの間に!?」


 驚く狛達を横目に、その老人――和合照正わごうてるまさは香木と狛達を交互に見つめ、その目的がなんであるかを悟ったようだ。


、それを取り返しにきたか。ずいぶんと早かったが、それは渡さん!永遠の命は、儂だけのモノだ!」


「なに!?」


 和合がそう叫ぶと、見る間にその姿が変わっていった。メキメキと音を立てて全身の筋肉が隆起し、老人そのものだった顔つきは瞬く間に若返っていく。それまで小さな老人と言った風貌はあっという間に消え去って、若々しく怪しいまでに白い肌をした男へと変貌を遂げた。


「ガアアアッ!!」


「ヤベェ!狛、逃げろ!」


「くっ!?」


 突進してくる和合を避けようと、狛は咄嗟に香木から離れた。だが、和合の突進は猛烈な風を纏っており、体そのものがぶつかる事は避けたにもかかわらず、狛の身体は弾かれるようにして壁にぶつかってしまった。


「……ったぁ!?」


「呻いてる暇はねーぞ、一旦部屋の外に出ろ!」


 衝撃で息を大きく吐いてしまい、狛は咄嗟に息を大きく吸い込みそうになったが、激しい臭いのせいでそれが出来ない。それでも、猫田の檄を受けてなんとか部屋の外へ逃げる事に成功すると、廊下を走って庭に向かうことにする。


「な、なんなのあの人…人間じゃないの?!」


「永遠の命とか言ってやがったが……あの姿は、まさか」


 眩暈めまいを覚えながら廊下を走る狛の後方に、和合の姿が見えた。和合は両手の親指と人差し指、それに中指を広げて自身の口の横に置き、高音の超音波による衝撃波を放つ。


「マズい…!来るぞ!」


「ちょっ、待って待ってちょっと待って!?きゃああああああっ!」


 背後から放たれた衝撃波を受け、狛の身体は一気に加速して押され、正面の壁を突き破っていった。猫田が先に教えてくれなければ、防ぐことも出来ずにまともに食らっていただろう。衝撃波が当たる直前に人狼化をしていた狛は、衝撃波自体を尻尾で防ぎ、揺れる頭と視界を抑える様にして崩れた壁の中から起き上がった。


「痛た…!な、何…?今の……猫田さん大丈夫だった?」


「何とかな…クソ、ありゃ間違いねぇ、吸血鬼だ。しかも、純血の吸血鬼に近い強ぇヤツだぞ!何でこんな所にいやがる!?」


 吸血鬼は、元々日本ではなく西洋の悪魔に分類される存在だ。ただし、彼らはその名の通り鬼である為か、妖怪の中にも近縁種が存在する。代表的なものは飛縁魔ひのえんまと呼ばれる妖怪だろう。ただし、飛縁魔ひのえんまは女の妖怪であり。和合がそうであるはずがない。

 そこで狛は、ここへ来る前に聞いた隠神刑部の話を思い出す。隠神刑部は、樹木子じゅぼっこの香木を炊いた香りを嗅いだ人間が死ぬか、或いはまた違う結果をもたらす事を示唆していた。樹木子じゅぼっこは人間の血を吸う妖怪だ、それはつまり。


「隠神刑部さんが出掛けに言ってたよね?あの香りを嗅いだ人は死んじゃうか、もしくは…」


「……そう言う事か!あんのクソ狸、これでルルドゥみてぇな割に合わねぇ神なんざ紹介しやがったら許さねぇぞ!狸汁にしてやる!」


「そ、そんな酷い事言わないでよ!」


 頭の上で怒る猫田の言葉に、狛は二つの意味で可哀想だと思ったようだ。狸汁という表現もそうだが、割に合わないと言われたルルドゥのこともである。完全に流れ弾だが、この場にルルドゥがいたら泣いてしまった事だろう。ふと、桔梗の家に置いてきたルルドゥの泣き顔が頭に浮かんで、狛は胸がつまる思いがした。


 ゆっくりと歩いて追いかけてきた和合は、狛が猫田と言い合っているのを見て、ニヤニヤと笑っている。


「ヤクザの家に盗みに入って仲違いとは、笑わしてくれるな。どこの組の者か思うたけんど、化け物と小娘か。解らん組み合わせだ」


「あ、あなたが盗んだあの香木を、返して貰いに来ただけです!」


 狛が言い返すと、和合はクックッと喉を鳴らして笑い、ギロリと狛を睨みつけた。その瞳は完全に人のそれではない。血のように真っ赤に輝く赤い瞳孔が、異常なほど白い肌を際立たせている。狛は吸血鬼という存在を初めて見たが、猫田の言う通り、かなりの力を持っている事は感じ取る事が出来た。当たり前だが、猫田と漫才をしている場合ではない。


「そうか、あれの持ち主の仕業か。なら、ますます返すわけにはいかんな。儂はこの永遠の命使うて、狂い始めたこの国の全て手に入れると決めたんじゃ、邪魔はさせん!」


 和合の叫びと共に、何十もの影が屋敷の中から飛び出して狛達の周りを取り囲む。それは大量の下層吸血鬼達の群れだ。どうやら和合は、手下である組員達の血を吸い、下僕となる吸血鬼を増やしていたらしい。月明かりの下、恐るべき吸血鬼の群れを前にして、狛と猫田は激しい戦いを予感するのであった。

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