くりぃちゃぁのビルを見下ろせる少し高いビルの上で、一人の男がスマホを三脚に立てて映像を撮っている。その表情は何処か物憂げな、しかし、隠しきれない喜びを含んでいるような奇妙なものだ。
「ああ、遂に始まった。始まってしまった…!どちらに転んでも殺戮が待っている。人間か、妖怪か…或いは両者が大勢死ぬ。ああ、
男はそう独白し、右足でトントンとリズムよく足元を蹴った。すると、くりぃちゃぁの入ったビルを包んでいた結界が消えていく。どうやら、この男が結界で土敷達を閉じ込めていたらしい。彼は土敷達に投降を許さず、全面戦争させようと目論んでいたのだ。そしてその男――
くりぃちゃぁのビルを包む結界が消えると同時に、
撃ち込まれたビルの上階は瞬く間にガスが充満してしまったが、既にそこには妖怪達の姿はない、戦う力を持たない妖怪達は皆、避難用に用意された地下の一室に立て籠もっている。こうした事態を考えて、普段から土敷は迅速にそこへ逃げ込めるよう避難訓練を欠かさなかった。それが活きた形だ。
「
「……鬼部、戦える者達は?」
「結界が消えたので表に出ました。…残念です、人間達と戦わねばならないとは」
「ああ、僕もそう思うよ。だが、僕らもみすみすここで死ぬわけにはいかないからね。出来るだけ人間を殺さず、無力化するように皆に伝えてくれ」
「既にそのように伝えてあります」
鬼部はそう言うと、土敷を守るように隣に立った。彼は土敷を守る最後の壁だ、その身を賭しても土敷を守ろうと考えている。それは二人の絆であり、果たすべき約束でもあった。そんな鬼部の姿を見て、土敷はフッと小さく笑って何かを思い出しているようだった。
「それにしても久々だね。懐かしいな、君に店長ではなく、
既にハマは地下へ行く為に店内を後にしており、ここに残っているのは鬼部と土敷のみである。そんな二人は、一見すると親子のようだが、実際の年齢は土敷の方が上である。土敷は今年で四百三十歳を超える長寿な妖怪だ。対して鬼部も三百年以上を生きる赤鬼である。
二人の出会いは、今からおよそ百五十年ほど前…ちょうど猫田が
幕末という混乱期にあっても、人は衣食住を必要としないわけではない。決して大店とは言えない小さな店だが、その呉服店は普段使いの服から、ちょっとした高級着物までを取り扱う有名な店であった。それは店に棲むという座敷童の力であるとか、まことしやかに噂があったのだが、誰もそれを確認する術はない。
その日も、店の中は大勢の客で賑わいをみせていた。あまり大きくない店ということもあって、この店は丁稚も番頭も、主人も関係なく忙しなく働いている。そこへ一人の男がやってきた。男はボサボサ頭で、
店の小僧や番頭は怖がって話掛けようとしなかったが、誰彼分け隔てなく接する主人が率先してその男に声をかけた。
「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用件で?」
「あ、ああ……その…な、なんでもない。か、帰る…っ!」
赤い肌の男――鬼部は、最初に店に来た時、そう言って店の主人から逃げるようにして出て行ってしまった。丁稚の小僧も番頭も、何より主人も何が起こったのか解らず、ただただ唖然とするばかりだ。その様子を店の奥で見ていた土敷は男の正体を一発で見抜き、怪訝な顔をしている。
「今のは、赤鬼…かな?変わった客も来るもんだ。まぁ、
その後、何度も鬼部はその店を訪れた。その度に何も買わず、店の主人だけでなく、小僧に話しかけられただけで店を出て行ってしまう。かと言って、何か悪さをするわけでもなく逆に男が来るようになってから、あまりよろしくない客が近寄らなくなったので、いつしか店ではその男が来るのを楽しみに待つようにさえなっていた。
そんな時だ。
ある日、店はかなり忙しく、いつもより数倍の客が来て狭い店内にごった返していた。何でも、この店の職人が戯れに作った洋装のデザインが、ある洒落者の華族の目に留まったらしく、それが一躍人気商品になったからだ。
店の前には店内に入り切らなかった客が並び、開店以来、てんやわんやの大忙しであったという。だが、そんな混雑を目ざとく見つけて、街のゴロツキ達が店に狙いを定めていた。
数日後の晩の事である。主人が店を閉め、番頭が自宅に帰ると、店は昼間の賑わいが嘘のように静かになっていた。夜更けになって、丁稚の小僧と主人一家が暮している屋敷の裏手には数人の男達が集まっていた。既に廃刀令が出て久しいはずなのに、男らは銘々に武器を持ち、下卑た笑いを押し殺している。
「ここだな?あの繁盛してるって噂の店は…」
「ああ、西洋かぶれの成金が、たんまり貯め込んでるって噂だぜ。攘夷派だか知らねぇが、国を売って儲けようとはふてぇやつらだよなぁ。……依頼主は、
「おう!」
畜生働き……つまり、皆殺しである。彼らはどうやら何者かに雇われているようで、押し込み強盗を仕掛けようとしているのだ。余談だが、店の主人は攘夷派でも何でもない。それは根も葉もない、単なる噂であった。
「…何だ?」
屋敷の裏戸から、鍵を壊す音が聞こえて、土敷はハッと目を覚ました。彼は座敷童なので普段は夜中に遊ぶこともあったが、この日はたまたま眠っていたらしい。いつも使っている仏間から外を覗くと、息を荒くした数人の男達が刀を持って裏戸から侵入しようとしている。到底、ただの客とは思えない。
「盗人か…?!しかも、あの様子は……」
目を血走らせ、興奮した様子の男達を見て、土敷は彼らの目的を瞬時に悟った。彼らはただ盗みに入ったのではない、住人全てを皆殺しにするつもりだ。想像しただけでゾッとした土敷は、すぐに男達の相手をすべく立ち上がった。いかに相手が武器を持った屈強な男達と言えど、ただの人間が妖怪に勝てるわけがない。しかし、その考えは、すぐに誤りであった事に気付かされた。
「おい。…何か様子が変じゃないか?」
男達の一人が、ボソッと呟いた。裏戸をこじ開けて庭に入ったまではいいが、どういう訳か、いくら歩いても屋敷に辿り着かない。そんなに大きな屋敷でないのは、外から見ても解っていたはずだ。他の男達も同じ事を思っていたのか、緊張した様子で互いの顔を見合わせている。そして、気付けば、男達は庭ではなく薄暗いどこかの部屋の中にいた。
「な、なんだこれは!?ここは、庭だったはず…」
「ヒィ!ば、化け物だ!この店には化け物が棲み付いてて、そいつがこの店を儲けさせてるって噂は本当だったんだ!!」
「バカな事言ってんじゃねぇ!文明開化の世の中だってのに、化け物なんぞいるはずがねぇだろう!」
「…さぁて、それはどうかな?」
「っ!?誰だ!」
男達のリーダーと思しき男が、子どもの声を聞きつけて怒鳴ると、そこに一人の少年が立っていた、土敷である。土敷は庭を異界化して男達をそこに迷い込ませたのだ。男達は現れたのが子どもだと知って安堵をし、これ見よがしに武器を構えて、土敷に迫った。
「おい、ガキ!テメェ俺達に何しやがった?大人しく言う事を聞かねぇとぶっ殺すぞ!」
「やれやれ、出来もしない事をよく吠えるね。悪いけど、君達をここから出す気はないよ。永遠にここで彷徨って果てるがいい」
「ふざけやがって!お前が本当に化け物なら、これを喰らえっ!」
「そ、それはっ?!」
男が投げつけたのは、小さな人形である。とある僧侶が祈祷をしたもので、子どもの霊を祓う効果があるとされた呪物であり、
「う、ううぅ…!?」
「おい、効いてるみたいだぞ。コイツやっぱり化け物なのか?!」
「へっ!化け物のガキだろうが、弱ってるなら恐れるこたぁねぇ!景気づけだ、ぶっ殺しちまえ!化け物を殺したとなりゃ、人間殺すのなんざ訳もねぇだろう!」
「ま、まずい…!はっ!?」
「ああ?なん…ぎゃあっ!?」
そこへ飛び込んできて男達を蹴散らしたのは、あの赤い肌の男…鬼部であった。彼は数日前から尋常でない様子の男達が店を覗いているのを見て、密かに警戒していたのだ。今夜も異常が無いかを確認しに来た所、裏戸が壊れているのを見て、慌てて中に入ったのである。盗賊達の運が悪かったのは、土敷を弱らせてしまったことで、異界化が緩み鬼部が入って来る隙を与えてしまったことである。
こうして、鬼部は盗賊達をその場で叩きのめし、土敷と店の危機を救った。後に男達の証言によって捕まったのは、番頭の男である。彼は店の乗っ取りを画策して、主人一家を皆殺しにしようと企んでいたのだ。こうして、土敷と鬼部は出会ったのである。